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五章 葛藤

消せない痛み

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   ◆ ◆ ◆

 夕日が沈み、部屋の中が次第に翳っていく。

 ベッドの縁に座っていたナウムは、静かに横たわるみなもをジッと見下ろす。

 男のフリをして生きてきたせいで、男物の服がやけにしっくりと馴染んでいる。
 それでもこうして眠っているといずみの面影が色濃くなり、女の顔が隠し切れずに浮かび上がる。

 やっと望んでいたものが手に入った――全身から叫びたくなるような喜びが沸き上がると同時に、胸の奥が激しい痛みに疼く。

 これは自分が望んだこと。
 だが、この結末だけは避けたいとも願っていた。

 おもむろに手を伸ばし、みなもの頭をひと撫でする。

(……こんなことなら、もっと早くからこうすれば良かったな)

 ナウムはフッと、自嘲気味に笑う。

 みなもがこの部屋に滞在した時点で、暗示にかかることは時間の問題だった。
 暗示をかけたのは、この部屋にある置き時計。
 この時計が刻む秒針の音を聞き続ければ、深い眠りにつき、耳元で囁いた言葉に従うようになる。

 ただ、この音を意識することがなければ暗示にかかることはない。中には鈍感すぎて気にしない人間もいれば、意図的に聞き流して気にしないようにできる人間もいる。仕組みを知った上で訓練すればかかりはしない。

 みなもは用心深く、頭も悪くはない。もしかしたら仕組みに気づいているかもしれない。気づいていなくとも、こちらの動きを察して気づいてしまうかもしれない。
 様子を伺いながら、慎重に確かめたかった。そのためにゲームで勝った際、みなもへ「動くな」と命じてみた。

 移動の疲れと、予想外の現実に困惑して心が衰弱したせいだろう。
 たった数刻、秒針の音を聞き続けただけで、しっかりと彼女に暗示はかかっていた。

 あの時点で、みなもを今のように扱うことはできたのだ。
 それをしなかったのは――。

(ガキの頃は、オレが「いい加減に離れろ」って逃げても追いかけてきたクセにな)

 一緒に遊んでいた、幼い頃のみなもが脳裏に浮かぶ。
 当時は確かに向けられていた彼女の好意が、奥深くに封じてしまった昔の自分を起こしにかかる。
 
(思い出にほだされるなんてオレらしくもねぇ。そのせいで、いずみに怖い思いをさせる羽目になったんだ。自分の甘さに反吐が出るぜ)

 みなもとは違う意味で、いずみは特別な存在だ。
 恋焦がれてきた女性でもあり、命の恩人でもあり、共に支え合って生きてきた同志でもある。そして――。

 ふと、延々と抑え続けていた感情が胸から溢れ出し、全身へ痛みを走らせる。
 ナウムは唇を噛み、片手で額を覆った。

(本当はオレみたいな罪だらけの人間が、いずみを想い続けることも、みなもを手元に置くことも、許される訳がねぇんだ)

 痛みの原因は分かっている。
 一対のみになってしまった久遠の花と守り葉への罪悪感。

 もし自分がこの世に生まれて来なければ、二人は何も失うことはなかった。

 今まではいずみにだけ、負い目を感じていた。
 しかし、みなもが生きていると分かった時から、その負い目は倍になった。

 このまま自分を消してしまいたいと、どれだけ願ったことか。
 そのくせ、いずみの側に居続けたい、みなもを自分のものにしたいと強く望んでしまう。

 罪深さと欲深さが激しく交じり合う。
 己の中は、狂気じみた悦びに満ち溢れていた。

(ありがとうなあ、みなも。オレが狂う前に現れてくれて)

 できれば心も欲しかったが、もう欲張らない。
 みなもという存在さえ隣にあれば、それだけで十分なのだから。

 みなもの体が、ぴくりと動く。
 ゆっくりと開かれた目は虚ろで、彼女の意思はどこにも感じられなかった。

「やっと目が覚めたか。起きろよ、みなも」

 緩慢な動きで、言われた通りにみなもが起き上がる。
 次の指示を待っているのか、輝きのない瞳をこちらに向け続けていた。

 みなもの肩を抱き寄せ、ナウムは頬へ軽く口づける。
 意思がある時にこんなことをしようものなら、即座に毒で反撃していただろう。

 それが嫌味のひとつすらも返らず、物足りなさを覚えてしまう。
 
 あれだけ嫌がっていた人間が、ここまで従順になると気分がいい。
 ただ抵抗されない分だけ、物足りなさを感じてしまうが。

(まあ、オレにはこれぐらいが丁度いいかもな。後先考えられなくなるまで夢中にならねぇだろうから)

 何度か柔らかな髪を撫でる最中、寝かせる際に緩めたみなもの襟元がナウムの目に入る。

(……どうして今日に限って、首飾りをしていないんだ?)

 みなもへ暗示をかける際、いつも目についていた首飾り。
 北方の風習で、妻となる女性に首飾りを贈ることは知っている。

 これを初めて見た時、どれだけ鎖を引き千切ってしまいたかったことか。

 しかし首飾りを失ったことで、己の身に何かが起きていると気づかれるのは困る。
 だからみなもに不審がられないために、ずっと我慢をしてきたのだが――。

(あの男への未練を断つために、みなもの目の前で首飾りを砕いてやりたかったな。残念だが、まあいい)

 心を封じた今、みなもにとって首飾りは、ただのガラクタでしかない。
 もう彼女の中には、あの男への想いも、繋がりも、あの首飾りに込められた意味など、何も残っていないのだから。


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