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五章 葛藤

繰り返す悪夢

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   ◇ ◇ ◇

 夜になり、みなもはベッドへ体を横たえて目を閉じる。
 何も見えない、完全な闇がみなもの視界に広がる。
 そして取り留めのない心の声が、何かの呪文を唱えるかのように延々と流れ続けた。



 これからどうすれば良いんだろう?
 どの道を選べばいいんだろう?

 姉さんと一緒にいたい。
 でも、そのためにはバルディグの毒を認めなくてはいけない。愛しい人を苦しめている毒を受け入れないと……。
 けれどそれは身を守るため以外の毒の使用を受け入れるということ。守り葉という役目を手放すということに他ならない。

 レオニードと一緒にいたい。
 でも彼の元に戻れば、姉さんに会うことはできなくなる。
 幼い頃から守り葉となって姉さんを守りたいと願い続けた思いを、断ち切らないと……。



 自分が眠りに落ちているという実感はある。
 だから、これは夢なのだ。
 延々と答えが出ない、心の声だけが流れる夢。

 眠りの中でさえ、考えを止めることが許されない悪夢。
 
 心のつぶやきに紛れ、かすかにチッ、チッ、という音が聞こえる。
 部屋に置かれた時計と同じ音。夢の中に流れる異質な音は耳障りだった。

(あの時計、止めたほうが良さそうだな)

 みなもは重くなった瞼を開けて、体を起こそうとする。しかし体は仰向けのまま、指一本すら動かすことができない。
 どうなっているんだ? と思考はしっかりと動く。それなのに、動けと自分の体に言い聞かせても身じろぎどころか、瞼を開けることもできなかった。

 一面に広がる闇の中、焦りばかりが膨れ上がる。
 しばらくして、ぼんやりと人の顔が闇に浮かび上がる。

 最初はぼやけていた輪郭が、徐々にハッキリとしていく。
 そして現れた顔に、みなもの思考が強張った。

(ナウム……!?)

 人の悪い笑みを浮かべてこちらを見下ろしナウムと目が合った瞬間、みなもの体に人の重みがのしかかる。
 押し倒されているのだと気づき、全身から血の気が引いた。

 早く逃れなければと、みなもは必死に身をよじろうとする。
 けれどこんな状況でも体は動かず、ただナウムを見上げることしかできなかった。

 ゆっくりとナウムの顔が近づき、目と鼻の先で止まる。

『いい加減に諦めて、オレのものになれよ。大好きな姉さんと一緒にいたいだろ? なあに、何も考えずにオレの言うことを聞けば良いんだ。簡単だろ?』

 甘い声で一言を発する度に、ナウムの生温かな吐息が顔にかかる。
 咄嗟に口を開こうとしたが、みなもの唇は硬く閉じたままで、声を上げるどころか喉で唸ることすら叶わない。

(これは……夢、なのか? でも、こんな生々しい夢なんて――)

『そう、夢だ。お前に望まれて、オレは今ここにいる』

 こちらが考えたことにナウムが答える。
 ああ、そうか。これも夢なか。そういえば目を開けた覚えがない。現実ではないと分かった途端、みなもの頭に冷静さが戻ってくる。

(お前の夢なんて最悪だよ。俺がお前を望んでいるって? ……ああ確かにそうかもね。お前を殴りたくてしょうがない)

『クク……本当にそうなら、今頃オレの顔に拳がめり込んでるだろうな。だが――』

 顔だけしか見えなかったナウムに、上半身がぼんやりと現れる。
 そしてゆっくり手を伸ばし、人差し指でみなもの唇をなぞった。

『どうしてオレから逃げようとしないんだ? 本当はオレにこうされる事を望んでいるように見えるぜ』

 血の気が引いて冷めていたみなもの体に、羞恥とも、怒りとも取れる熱が駆け巡った。

(馬鹿を言うな! 体が動かなくて逃げられないんだ。動けばさっさと逃げ出している)

『そこまで言うなら試してやろうか?』

 ナウムは口端をニィィと上げ、みなもの片に顔を埋める。
 逃げられない現状に耐えられず、咄嗟にみなもは目をきつく閉じようとする。だが思い通りに動かない体は相変わらずで、感じたくない感触がジワジワと伝わってくる。

 首元に伝わってくる息遣いに体温。背中に回された手。グッと力を入れて抱き締められた瞬間、ぞわぞわと背筋に寒気が走る。

(嫌だ……お前にだけは、触られたくない)

『じゃあレオニードってヤツなら、こんな風にお前へ触れてもいいんだな?』

 問われた瞬間、初めてレオニードに抱き締められた時のことを思い出す。
 
 互いの吐息が、温もりが混じり合い、体すら溶けて繋がっていくような感覚。

 もっと彼に触れたい。
 もっと彼を知りたい。
 もっと彼と一つになりたい。

 あの時ほど、激しく人の温もりを渇望したことはなかった。
 許されるなら、あの時の中で生き続けたかった。

 心は今も彼を求めている。
 けれど、手を伸ばしても彼はいない。
 頭がおかしくなりそうなほどの喜びを思い出しながら、みなもは絶望を噛み締める。

『落ち込むなよ。オレはアイツになれねぇが、お前を満たすことはできる。なんてったて、オレとお前は同じだからな』

 色めきだっていたナウムの声が、急におとなしくなる。
 小さく唸ってから、みなもの耳元で囁いた。

『誰にも言えない秘密を抱えて、キツい思いをし続けて、ずっと独りで戦い続けて……大変だったろ? 寂しかっただろ? オレもそうだったから人事とは思えねぇんだよ』

 思いのほか優しく、どこか苦しげなナウムの声に、みなもの胸奥の強張ったものが少しだけ解けた。

(……お前は姉さんと一緒にいられたから良いじゃないか)

『確かにいずみがいたから、オレはここまで生きることができた。本当に感謝してるぜ――でもな、アイツへの想いを完全に殺して、アイツに言えない秘密も山ほど抱えて、隣に居続けるっていうのもまたキツいもんだ。居れば居るだけ心が飢えていくからなあ』

 諦めの混じったナウムの吐息が、みなもの頬を撫でた。

『でもな、お前と一緒にいると飢えが治まるんだ。どんな悪態をつかれようが、嫌味を言われようが、嫌悪の目で見られようが……嬉しいんだ。愛しくて、愛しくて、気が狂いそうになるけどな』

 軽く自虐気味にナウムが笑う。
 いつもの反発や嫌悪感が出てこない自分に、みなもは息を詰まらせる。

 おかしい。
 ナウムの言葉を聞くにつれて、自分の何かが麻痺していく感じがする。

 これ以上ナウムの声を聞いてはいけない。
 聞けば自分を奪われそうな気がして――。

『これはただの夢だ。夢でどうなろうが、現実は何も変わらねぇよ』

 困惑の渦に呑まれかけたみなもを、ナウムの一言が救い上げる。

 これは、ただの夢。
 この奇妙な感覚も、ナウムの言葉も、すべて現実ではない。
 だから無理に足掻いたところで意味のないこと。心労を重ねるだけの無駄なこと。

 そう悟った瞬間、みなもの体を眠気とも脱力ともとれない浮遊感に包まれた。

(もう考えるは疲れた……夢ならお前の勝手にすればいい)

『クク……つれないこと言いながら、大分オレを受け入れてるのな。さっさと望んでしまえばいいのに。オレのものになって、何の迷いもなくいずみを守りたいってな――アイツのことも忘れさせてやるから……』

 優しく抱擁していた手がみなもの後頭部へ回され、ワガママをぶつける幼子をなだめるような手つきで撫でてくる。

 ふと忘れていた記憶がよみがえり、あまりの懐かしさに泣きたくなる。

 知っている――安心できる手だ。でも拒まなければ。
 このまま夢でもナウムを受け入れてしまえば、本当に戻れなくなるのに――。
 
 
 
 
 目を開くと同時に、みなもは勢いよく体を起こす。
 息は乱れ、早まった鼓動と室内の時計の音が耳に響く。

 窓から差し込む朝日が部屋の中を明るくし、ここが現実なのだと教えてくれる。

 何度か深呼吸して息を整えてから、みなもは己の体を見回す。
 特に変わった様子がないと分かった途端、重いため息が口から出た。

(またあの夢を見るなんて……最悪だ)

 ここ数日、同じような悪夢ばかり見続けている。
 身動きの取れない体を、ここぞとばかりにナウムが触ってくる夢。
 そして次第に心が抵抗しなくなり、その抱擁を受け入れてしまった直後、こうして目が覚める。

 夢で良かったと思う一方で、何度もこんな夢を見てしまう自分が信じられない。
 目覚めれば、ナウムに組み敷かれるなど、考えたくもないし望んでもいないのに。

 ただ夢が終わる瞬間だけは、彼を受け入れている。

 何度も聞かされる言葉があまりに優しくて、痛いほど共感できて、夢の中だけなら応えても構わないという気すらしていた。

 レオニードの隣に居られないなら、それでいいのかもしれない。

 夢の中であったとしても、ほんの一瞬そう考えてしまったことが悔しくて、情けなくて――怖くなってくる。

(夢でナウムが言ってたように、俺はアイツのものになってしまいたいと望んでいるのか?……いや、それは絶対にない。あんな夢が俺の本心だなんてありえない)

 みなもは取り憑いてくる不安を払おうと、首を何度も横に振る。
 身に付けていた首飾りが、首元で小刻みに揺れた。

 服の下から首飾りの石を摘むと、視線を下げてそれを見つめる。
 レオニードの瞳と同じ色の石。
 彼に見守られているようで、今にも折れそうな心に芯が戻ってきた。

(大丈夫。この石が見守ってくれる限り、俺は自分を失わない)

 暗示をかけるように、その言葉を何度も心で繰り返す。
 次第に気分も落ち着き始め、冷静な思考が働き始めた。
 
(このまま答えを先延ばす訳にはいかない。俺がおかしくなる前に動き出さないと――)

 みなもは背伸びをしてからベッドを離れる。
 部屋の隅に置いていた荷袋に目を向けると、表情を硬くした。

(――俺の答えは、もう決まっている。ただ、やっと手にしたものを手放すのが惜しいだけで……)
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