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五章 葛藤

敵わない相手

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 認めたくないが、ナウムの言う通りだ。
 反論できない歯がゆさに、みなもは思わず視線を遊技盤に落とす。

 いつの間にかチュリックは、ナウムの勝利が近づいていた。

(このままだとナウムの好きなようにされてしまう。どうにか逆転できる手は……)

 勝てる手段はないかと考えるが、動揺してうまく頭が回らない。
 どうにか落ち着くまで時間を稼ごうと、みなもは熟考するフリをする。

 そんな動揺を見透かすように、ナウムがフッと鼻で笑った。

「負ける勝負を粘っても苦しいだけだぜ? お前はオレに敵わない……そう認めてしまえば楽になれるぞ」

 ゲームのことを言っているのだろうが、みなもの耳は他の意図を拾い上げる。

 ようは『オレのものになれば、楽になれる』と言いたいのだろう。

 ナウムに従ってしまえば、姉と一緒に居続けることができる。
 ずっと会いたいと、守りたいと願っていた姉と。
 そのために自分の心を殺すことになったとしても構わない。
 
 少し前なら、迷うことなくナウムに従っていた。
 けれど、今は――。

 みなもは腕を伸ばし、遊技盤の角に赤駒を置いた。

「足掻くのをやめれば、確かに楽になれる。でも、後になって延々と後悔するのは性に合わないんだ。できることがある限り、俺は勝負を投げ出さない」

 ナウムを見ると、まだ続けるのか? と言いたそうに肩をすくめていた。

「頑固だな。まあ、これぐらい抵抗してくれたほうが、オレも楽しめるから良いけどな」

 そう言って、ナウムは悠然と遊技盤を眺めてから黒駒を置く。
 彼の余裕に満ちた態度は憎らしかったが、みなもは不快な感情を押し殺し、チュリックを進めていく。

 何度か駒を動かし合った後、ついに赤駒を置ける場所がなくなった。

 分かった瞬間、みなもの体が強張る。
 が、大きく息を吐いて力を抜くと、椅子の背もたれへ寄りかかった。

「俺の負けだよ。ここまで負けるなんて、生まれて初めてだ」

「オレも今まで相手してきた中で、一番手応えがあったぞ。これだけ粘られたのは初めてだな」

 顎を撫でながらナウムは席を立つ。

「さあ、約束だ。オレの言うことを一つ聞いてもらう」

 こちらを見下ろす彼の目を見た瞬間、みなもの背筋に薄ら寒いものが走る。
 知らない内に汗をかいた手を、ぎゅっと握った。

「……望みは何だ?」

「なぁに、簡単なことさ。オレが良いと言うまで、そこを動くなよ」

 言うなりナウムはみなもに近づき、椅子の背もたれへ片肘をつく。
 そしてもう片方の手で、みなもの顎を持ち、クイッと上げた。

 顔が間近になり、ナウムの息遣いがよく聞こえた。
 咄嗟に動こうとしてしまったが、なぜか体は縛られたように硬直し、避けるどころか身をよじることさえできなかった。

 互いの鼻がぶつかりそうになる手前で、ナウムは動きを止めた。

「安心しろ、別に痛めつける訳じゃねぇ。だから……目ぐらい閉じろ」

 何をされるのか予想がついてしまい、みなもの瞳がわずかに揺らぐ。
 終わるまで睨みつけてやろうと思ったが、これ以上ナウムの顔を見るのが辛くて、きつく瞼を閉じた。

 早く終わってくれと願いながら、みなもはナウムの動きを待つ。と――。

 頬へ生々しく温かいものが押し付けられ、ゆっくりと離れる。
 そして、今度はそれが耳元へ移ってきた。

「ずっと気張ってたクセに、ギリギリで女の顔になったな。あの堅物男のことでも思い出していたのか?」

 耳にナウムの声が熱い吐息に乗って響き、みなもの心臓を荒々しく握ってくる。

 今、レオニードの顔を思い浮かべたら、コイツの前で泣いてしまう。

 そんな無様な姿を見せたくない一心で、みなもは視界と同じように頭の中にも暗闇を広げた。

「別に……お前を殴りたいって思いでいっぱいだよ」

 皮肉を言ったつもりだったが、ナウムは押し殺した笑いを漏らした。

「嬉しいこと言ってくれるな。俺のことで頭がいっぱいだなんて……」

 違う、と反論しかけた時。
 ナウムが耳へ、嫌になるほど優しく歯を立てられた。
 思わず声が出そうになり、みなもは唇を硬く閉ざす。

「これからずっと、そうなるようにしてやるから、楽しみにしてろよ」

 そう一言残すと、ナウムの顔が離れていく気配がした。
 不吉なことを言うなと怒鳴りたくなったが、勝負に負けた自分が悪い。

 むしろ予想外に引き際が良くて、肩透かしを食らったような、やっと終わったと安堵するような、複雑な気分だった。

 みなもが瞼を開けると、ナウムが腕を組み、優越感に浸っているような腹立たしい笑みを浮かべて、こちらを見下ろしていた。

「もう動いてもいいぜ。……今日はこれで勘弁してやる。どうせオレのものになるのは時間の問題、がっついて押し倒すのは野暮ってもんだろ」

「大した自信だね。俺がここから逃げるかもしれないのに」

「断言してやる、お前は逃げねぇ。やっと会えたいずみを見捨てられるのか? それができるなら、とっくの昔に仲間を探すのを諦めて、自分のためだけに生きているはずだからな」

 思わずみなもはナウムから視線を逸らす。
 嫌になるほど、こちらの性格をよく分かっている。

 苦々しい思いに顔をしかめるみなもの肩を、ナウムがポンと叩いて「じゃあな」と部屋を出ようとする。
 扉の前に立った時、彼はくるりと振り返った。

「オレの部下になると言うまでは、いずみの所には連れて行かねぇからな。気が済むまで、じっくりここで考えて覚悟を決めてくれよ」

 返事などできる訳もなく、みなもは無言でナウムを見送る。
 彼が去った後、その場から動けず、ずっと扉を睨み続けるとしかできなかった。
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