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五章 二人で沈みながらも

二人でどこまでも沈む

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   ◇ ◇ ◇

 水仲さんは言った通り、ライナスに蒔絵の作業を惜しみなく見せてくれた。

 俺も勉強のためにライナスと一緒に見学したが、ムスッとして黙々と作業を続けながらも色々な技法を披露してくれた。まるでライナスに敢えて見せるように――。

 水中さんは問屋に卸す簡単な蒔絵だけでなく、伝統工芸の技を競う公募用の作品の工程も見せてくれた。

 漆黒の重箱に施していく、繊細な螺鈿細工に沈金。アクセントに彩色を利用し、華やかな月下の花火に見立てた合歓を描いていく。

 口を開けば愚痴が多い、気難しい老人が作り出したと思えない作品。ふとライナスを横目で見れば、真剣な顔つきで水仲さんの作業を見つめている。いつまで経っても瞬きしない。目前の世界に没頭しているのが伝わってきた。

 少し胸が靄がかる。まさか水仲さんに嫉妬を覚える日が来るとは思わなかった。

 それでも俺だけには分かってしまう。ライナスが水仲さんに向けているのは、ただひたすら技術を知ろうとする観察する目。俺の時に見せる、一緒に漆黒に潜っていくような目じゃない。

 こんな比較で自分がライナスの特別なのだと実感するとは……。気づいて身悶えるのを抑えるのは大変だった。



 四月になり、ライナスは一通りの作業をこなすようになった。中塗りや研ぎをする作業部屋だけでなく、上塗り専用の部屋にもライナスの作業机が増えた。

 早朝、並び座って黙々と俺たちは漆黒を重ねていく。その時に俺が扱う物と同じ物をライナスに渡し、見様見真似で塗ってもらう。

 俺が塗る姿を集中して見続けてきたこともあり、ライナスは俺の動きにピタリと合わせてくる。刷毛を動かす速さ、漆を刷毛に着けるタイミング、呼吸――バラバラでもいいのに、恐ろしいほど俺と動きが同じで、二人でいるはずなのに、息遣いは一人の時と同じような響きになる。

 だが、どこまでも二人であるということがくっついてくる。
 二人で延々と海の底に落ちて、明るい世界から遠ざかっていくような感覚。ずっと独り占めし続けた漆黒の世界を、ライナスと過ごしているようで心地良い。

 このまま一緒に居られたら――と酔いしれかけた時、俺の手は空を掻く。ふと我に返って顔を上げれば、今日上塗りする分はすべて終わっていた。

 時間の経過があやふやになるほど入り込んでしまった。独りだった時よりも作業にのめり込んでいるな、と思いながら俺はライナスに振り向く。

「そっちは終わったのか――」

 俺よりも塗る数が少なかったライナス。先に終わって部屋を出ていても良かったのに、ライナスはずっと俺を見つめ続けていた。

 寄り添い続けていた目が、フッ、と柔らかに緩む。

「はい。終わってから、カツミさんを見てました。やっぱり美しいです」

 まだ飽きんのか。見学しながら俺を鑑賞するのはやめろ。恥ずかしい。
 うっとりと呟くライナスに色々と言いたいことは込み上げるが、我慢して塗ったものを風呂に入れ、静かに部屋を出る。

 バタン、とドアを完全に閉じてから、俺は呆れを乗せたため息をついた。

「見るのは構わんが、いい加減に俺を美しいとか言うな。やっぱり納得できん」

 俺の心からの訴えに、ライナスはにこやかに笑いながらも首を横に振る。

「カツミさんは美しいです。もっと自覚して下さい」

「よく見ろ。美しさの欠片もないおっさんだぞ? そろそろ現実を見ろ、ライナス」

「カツミさんこそ、ワタシの話をもっと受け入れて下さい」

 話しながら廊下を歩いていけば、白ばんだ空に山から頭を覗かせた朝日が輝き出す。
 目覚めの光だというのに、上塗りを終えた体は疲労のせいで眠気を覚える。くわぁ、と俺は欠伸をして頭を掻く。

「くだらん話はこれくらいにして、朝メシ食べたら一旦寝るぞ」

「いえ、私は起きて絵を描きます」

「寝なくて大丈夫なのか?」

「平気です! 描くべきことがありますから」

 ライナスに顔を向ければ、口元はにこやかだが、目から活力が溢れている。確かにこんな状態では気が立っていて眠れなさそうだ。

「無理するなよ」

 台所に着いてコーヒーを淹れて手渡すと、ライナスは「はい」と頷く。そしてカップに口を付けるかと思えば、テーブルに置き、フリーになった手を俺に伸ばす。

 何をされるか分かっていても、もう俺は逃げない。ライナスが望むままにその腕の中に囚われてやる。ギュッと抱き締められると温もりが伝わり、作業で体が冷えたことを思い知る。

 ああ、気を抜くと寝そうだ。心臓はバクバクとやかましく騒ぎ立てるのに、ライナスの腕の中は心地良くて安心してしまう。それだけ心を掴まれてしまっているのかと思うと、少しだけ胸が痛んだ。

 抱擁を許し続けていると、ライナスがボソリと呟く。

「もう冬は越えましたが……恋人のままで、いても良いですか?」

 あまりにこの家が寒くて、体をくっつけて俺を温めたいから、冬の間だけ付き合おうという話だった。てっきり忘れたのかと思ったが、硬い声で継続を願いたいほど気にしていたらしい。

 俺の答えは決まっている。フッ、と小さく笑い、広い胸へ顔を預ける。

「まだ肌寒いから、続ければいい」

 ライナスの腕に力が入り、俺を強く締め付ける。

「ありがとう、ございます」

 安堵の息をつきながら告げた後、感極まったようにライナスは俺の頭やこめかみにキスを落とした。

「あの、カツミさんが寝るまで、添い寝したいです」

「手は出すなよ。お前と違って若くないんだ。寝させろよ?」

「もちろんです! 夜まで我慢します!」

 今日の夜は確定、か。まあいい。やることが多くて、前よりは回数が減っている。一日くらい大目に見よう。俺から手を伸ばし、頭を撫でながら「良い子だ」と言ってやれば、ライナスから小さな笑いが零れてくる。

 心底嬉しげで、幸せそうな笑い。こういうささやかな瞬間に、俺の胸が浮かれて熱くなる。

 俺もお前と一緒にやっていると幸せなんだ。そう心の中で呟く。口には出さない。本当に想っているからこそ、俺はライナスに心のすべてを見せられない。何があっても絶対に――。
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