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三章 ライナスのぬくもりに溶かされて
なぜ落ち着かない?
しおりを挟む午前の塗りのデモンストレーションを終え、ライナスと昼食を取るために研修室へ呼びに行く。
いつもは読書しているライナスが、何やら真面目な顔をして濱中と向き合っていた。
「おう。どうしたんだ?」
俺が声をかけると、二人ともぎこちなくこちらを向いて視線を泳がす。
もしかして俺の話でもしていたのか? まさか悪口の言い合い――いや、この二人に限ってそれはない。しかしなぜか部屋の空気が気まずい。
こちらが戸惑いを見せていると、濱中が立ち上がり、俺に会釈した。
「お疲れ様です幸正さん。俺は一旦家に戻りますので……失礼します」
いつも以上に淡々とした声で、濱中の感情がまったく見えてこない。様子がおかしいことは気になったが、深入りする訳にもいかず、俺は「おお、そうか」と答えて道を譲ることしかできなかった。
濱中がいなくなった後、未だ様子がおかしいライナスに俺は近づこうとする。
「あ、あのっ!」
突然勢いよく立ち上がったライナスに、俺は思わずビクッと肩を跳ねさせた。
「な、なんだライナス?」
「明日一日だけ、カツミさんと別行動してもいいですか? 行きたい所があるんです」
「別に構わないが、どこへ行くんだ?」
「あの、それは……ちょっと……」
珍しく歯切れが悪いな、と思ってから俺はふと気づく。いくら師弟とはいえ、弟子のすべてを把握する必要なんてない。家族にだって言いたくない所へ遊びに行くことだってあるというのに――。
もしかして濱中と出かけるのか? 二人はここで交流を重ねている。遊びに行く機会ができてもおかしくない。
「せっかくの外出だ、楽しんで来い。そもそも、やることやってたら後は何をしてもいいんだ。そんなに俺の顔色を見なくてもいいんだぞ? どこに行くかは気になるところだが……」
「す、すみません……」
「謝るな。まあ、なんだ。俺のことは気にするな。理不尽に怒るなんてことはせんから」
俺は腕を組み、ライナスに目配せして移動するよう促す。
「さあ、話はこれくらいにして昼飯食べに行くぞ」
「……あの……夜、遅くなってもいいですか?」
ライナスらしからぬ密やかな声。改めてその顔を見れば、妙に赤く、羞恥に染まっていた。
まさか、濱中とデートするのか?
俺には無縁だったが、決して鈍いほうじゃない。ライナスから滲み出ているのは、恋の恥じらいのような気がする。
……お前、俺が好きだったよな? いや、俺に想いをぶつけられても困るから、他に目が移ったのならそれでいい。俺たちはただの師弟だ。おお、理想の形じゃないか。
俺は心の中で何度も頷く。応える気のないおっさんを追い駆けるより、俺より若くて気が合いそうなヤツを相手にしたほうがいい。
なんて目出度いんだと、いつになく俺の中でテンションが上がる。それなのに胸がひどくざわつく。どうして俺はこんなに動揺しているんだ? 自分がよく分からない。
「カツミさん? 怖い顔をしていますが、大丈夫ですか?」
「あ、ああ、問題ない。さっさと行くぞ」
俺は小さく首を振ってから部屋を出ていく。
いつものようにライナスが小走りし、俺たちの距離を縮めてくる。
触れていないのにライナスの体温を背中に感じる。明日はこれがないのか。ライナスがいない頃に戻るだけだというのに、どうしてこうも俺は動揺しているんだ?
俺の気を知らないライナスから、小さな吐息が零れる。物憂げな息。やけに艶があり、色気すら覚えてしまう。
ああ、ここに誰もいなければ、髪をぐしゃぐしゃに乱して奇声を上げてしまいたい。俺は動揺をライナスに気づかれぬよう、何食わぬ顔で歩いていく。
何度かチラチラと盗み見れば、ライナスは安堵した色を見せながら、嬉しそうに口元を緩めていた。明日が楽しみで仕方ないらしい。俺と離れて過ごす日を楽しみにしている――。
胸がチクチクと痛みを覚える。いったいこれはなんだ? と誰かに答えをせがみたい衝動を覚えながら、俺は漆芸館の外へ出る。
冷えた空気に体はぶるりと震えたが、寒さは感じなかった。
気が昂っているせいで体が熱い。なるべく明日のことを考えないようにしながら、俺は食事処まで歩いて行った。
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