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二章 『好き』は一日一回まで

これが最後の絵?

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「この絵、ライナスが描いたのか?」

「はい。最後に描いたものです」

「最後……だと?」

「漆を学ぶために、油絵はやめました」

 バッ、と俺は勢いよくライナスに振り向く。
 今までと変わらない様子のライナス。自分の絵を目の当たりにしても一切変わらない。それだけでもう、ライナスの心に未練がないのだと分かってしまう。

 優しく微笑みながらライナスが告げる。

「カツミさんの塗りに一目惚れしたあの日、完全にやめました」

 こんな絵を描けるのに、俺が原因でやめた。
 思わず足元がよろけて後ろへ下がってしまう。すかさずライナスが駆け寄って俺の腕を掴み、倒れないように引いてくれる。

 間近になった顔があまりに一点の曇りがなくて、俺の胸が詰まった。

「ここへ来たのは漆をもっと知りたかったから、でした。絵を描きながら学ぶつもりでしたが……カツミさんに出会ってしまいました」

「いや、お前、どっちもやればいいだろ。やめる必要なんか――」

「カツミさんと同じ世界を、見たいと思いました。何十年も漆と向き合い続けた、貴方と同じ世界を……」

 ライナスのことを知らないようにしてきたのに。
 知ればそれだけ深く向き合うことになる。触れ合わなくとも心の熱が分かってしまう。だから何も聞かなかった。

 誰かの熱を感じたくなくて人と距離を取ってきたというのに。こんなおっさんになって、捨て身で懐に入り込む馬鹿が現れるなんて……。

 しかも言葉じゃなく、絵で知る羽目になるってなんだ。百聞は一見に如かずとはよく言ったものだ。どんな言葉を重ねるより、己の本質を込めた絵を見せられたほうが相手を理解してしまう。

 そうかライナス、お前……俺と同じなんだな。
 深く作品と向き合い、どこまでも沈みたい人種。誰のためでもない。自分が望むままに色に沈む。俺は漆黒に。ライナスは油絵の色彩に。

 漆芸と絵画。同じ芸術ではあるが、共通することは多くない。それでもライナスは俺に見出してしまったんだ。誰もいない深い世界へ沈んでいたと思ったのに、隣を見たら遠い所で俺が同じように並んで沈んで――。

「もう描きませんから。カツミさんの所で、漆を学び続けます。そしてワタシも漆黒を作りたいです」

 顔は人のいい笑みを浮かべているのに、ライナスの目に一切笑いがない。
 強い決意が伝わってきて、俺の胸が酷く騒いでしまう。妙に焦ってしまう。だが吐き気まで覚えるものではなく、むず痒い。

 俺は鈍い動きで首を動かし、もう一度絵を見る。誰が描いたか分かっても、俺の中の評価は変わらない。

 この絵は特別だ。きっと多くの人間に評価され、この絵の世界に引き込まれただろう。見れば見るほど川の水面が輝き、絵の隅々まで美しい。

 これが最後だと? 冗談じゃない!
 俺はカッと目を見開き、ライナスの胸ぐらを掴んでこっちに引き寄せた。
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