おっさんにミューズはないだろ!~中年塗師は英国青年に純恋を捧ぐ~

天岸 あおい

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二章 『好き』は一日一回まで

上塗りを見学させて

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   ◇ ◇ ◇

 早朝――と呼ぶには、まだ夜の闇が深い頃。俺は体を起こし、冬用の作務衣に袖を通して塗り部屋へと向かう。

 廊下同様に、塗り部屋でも吐き出す息が白い。これでエアコンがあれば楽なんだろうが、生憎とホコリを舞わせる訳にはいかない。

 ほんの小さなゴミが付いただけで、すべてが終わる。慎重に下地の形を整え、時間をかけて漆を塗り重ねてきたのに、その時間と材料と手間が何もかも台無しになる。問題がないよう気を遣っていても、未だに駄目になるものが出てくるほど。それだけ上塗りは毎回緊張してしまう。

 ハロゲンヒーターを点け、材料を作業机に広げて準備している最中だった。

 ――コンコン。突然ドアをノックされて、俺の肩が大きく跳ねた。

「……っ! ラ、ライナスか?」

「はい。おはようございます。あの、今から作業ですか?」

 静かな塗り部屋に、俺の驚き脈打つ心音が響く。
 今はこの家は俺だけでない。うっかり忘れていた。俺が起きたのに気付いたのか? 起こすような音は何ひとつ立てていなかったのに……。

 いきなり自分のテリトリーに踏み込まれた気分になり、俺は顔をしかめながら返事をする。

「ああ。絶対に入らないでくれ。今から上塗りする」

「見させて下さい。動きませんから」

「駄目だ、気が散る」

「決められた場所から、絶対に動きません。カツミさんの塗り、学ばせて下さい」

 いつものにこやかさはない。真面目で硬い声。あの明るさに溢れた姿が見えないせいか、声が同じだけの別人に思えてしまう。

 ドア越しでも漂ってくるライナスの気迫に、俺の考えがぐらつく。ただの冷やかしなら絶対に断り切るが、一応今は俺の弟子。いきなり道具を触らせる訳にはいかない以上、最初は見学させるしかない。

 百聞は一見に如かず、とも言う。喋るのが得意ではない俺がライナスを教えるなら、見学が一番手っ取り早い。俺は深くゆっくりと息をついてから答えた。

「分かった。座布団なんて気の利いたものはない。床に直座りしてもらうからな」

「ありがとうございます!」

「あと中に入ったら喋るな。気配を殺して、ただ見ていろ。いいな?」

「はいっ。では、失礼します」

 ガチャ、とドアが開く。漆黒が散らばる部屋に、異質な金色が入り込む。

 キョロキョロと見回すライナスの表情が、やけに強張っている。俺を師匠として慕っているのだ。ライナスからすれば、聖地に踏み込んだようなものだろうか。

 俺が目配せして部屋の隅へ行くよう促せば、ライナスは静かに移動し、正座して俺を見つめた。

 青い視線が気恥ずかしい。やっぱり見るなと言いたくなるが、寒い中で何時間も座り続けて懲りさせたほうが次から大人しくなるだろう。そんな希望を持ちながら、俺はいつもの作業に移った。

 漆風呂からいくつも板に乗せた椀を取り出し、作業台の前に置く。そして息を整えてから一つずつ漆黒を重ねていく。
 薄く、薄く、溜まりができないように――始めこそライナスの視線や気配は気になり、視界の脇にチョロチョロと姿が入って気が散った。だが続けていく内に、俺は漆黒の世界へ入り込んでいく。

 ただひたすら深い黒を求めるだけの求道者。
 俺の世界が漆だけになっていく瞬間が何よりも心地よい。

 自分の孤独かすべて溶け、受け入れられていると安堵すら覚えてしまう。少しのミスも許されないという緊張感を持っているはずなのに。

 それから黙々と漆を塗り続け、最後のひとつになった時。
 あ……、とライナスがここにいたことを思い出す。

 手を動かしながらチラリと部屋の隅を見やると、ライナスは言った通りにジッと座り続けていた。目は俺を捕らえながら、息をしているかどうか分からいほどまったく動かない。完全に置物だ。

 しかもただ動かないだけじゃない。ライナスは塗りに没頭する息遣いを知っている。俺は刷毛を滑らせる度に息を止め、椀から毛先を離す時に短く空気を吸い込む。ライナスの息が分からないのは、俺の息に合わせているからだろう。

 独りで漆黒へ潜っていたと思ったら、ライナスがくっついていた。そりゃあもう俺にピタリと貼りついて、一緒に沈んでいた――ああ、ヤバい。恥ずかしさで悶絶しそうだ。

 急激に漆黒の世界から俺が浮かんでいく。せめて最後の椀を塗らなければと息を止めて塗りを施し、どうにかすべてを塗り終え、乾燥させる風呂へしまう。

 息をついたら一気に疲れが押し寄せてきた。

「ふぅ……終わったぞライナス。行くぞ」

 声をかけて俺は部屋を出ようとするが、数歩進んですぐに立ち止まる。

 ライナスが動かない。くるりと振り返ってみれば、ライナスは背筋を真っ直ぐにして正座を崩さず、まるで凍り付いたように固まっていた。
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