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一章 押しかけ弟子は金髪キラキラ英国青年

俺だけはやめろ

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 俺は濱中に小さく頷いてみせた。

「万が一はないだろうが、何かあった時には助けてくれ」

「分かりました。その時は猛吹雪でも外に放り出してみせますから」

 この淡々として常にボーッとしているような濱中のことを、心底頼もしいと思える日が来るなんて。
 辻口よりも心強い味方がいたことに感動していると、濱中がポツリと呟いた。

「今よりもジムで鍛えないと……」

 本気で物理的に放り出すつもりか。見た目によらず濱中の中身は武闘派だったとは。そして人間関係に淡白なようで、顔見知り程度の俺を心配する情の厚い人間だったとは。

「その気持ちに感謝する。まあ何事もなければ問題ないことだがな」

 強い味方がいるという安心感で、俺の動揺が完全に治まる。
 少しでもライナスに色恋を意識させないよう、俺は努めて普段通りの声で話しかけた。

「ライナス、よくやってるな。そろそろ食事に行くぞ――うわっ!」

 ふとライナスの手元が視界に入った瞬間、俺はたじろいでしまう。
 研ぎ石に広がる赤い血。包丁も指先もまみれている。血が出ているのにもかかわらず、ライナスはひたすら包丁を研ぎ続けていた。しかも俺が声をかけたのに手を止めない。それだけ集中しているのだ。

 遅れて気づいた濱中もギョッと目を剥く。そして慌てて薬箱を取りに行ってくれる。愛だの恋だのと気にする余裕なんぞなく、俺はライナスの肩を掴んで揺さぶった。

「やめろ、夢中になり過ぎだ! そこまでやらなくていい!」

「……あっ、カツミさん。お疲れ様です」

 我に返ってくれたはいいが、振り返ったライナスの顔は晴れやかな笑み。俺が言葉を失っていると、ライナスは一旦首を傾げる。そして自分の手元の異常にやっと気が付いた。

「わぁっ!」

「ほら、手を洗って来い! 包丁は俺が洗ってやるから」

 戸惑うライナスを促してやれば、バタバタと慌てて近くの洗い場で手を洗う。手ぬぐいで水気を取った指先は、どれも赤くなっている。白い肌だからより目立つ。何もしないとジワッと血が滲んできて痛ましい。

 濱中がライナスを座らせ、ライナスの手当てをしてくれる。その間、俺はしっかりと包丁を洗い、拭き上げていく。

 どれも刃が美しい。一通りのやり方は教えたが、こんなにすぐできるものではない。それに異常な集中力。凄いを通り越して怖い。

 凝視する俺に気づき、ライナスは顔を綻ばせた。

「どうですか、シショー?」

「師匠はやめろと言ってるだろ! ……内容はいい」

「嬉しいです! 褒めてくれた!」

 今にも跳び上がりそうなライナスに近づき、俺は頭を小突いた。

「だが体には気を付けろ。次を教えるのに支障が出る」

「次?」

「明日から新しいことを教える」

 漆芸の厳しさはまだまだこれからだ。未練なく俺の元から離れてもらえるように、現実を見せつけていかなければ。

 優しくなんかしてたまるか。俺がどれだけ厳しくて嫌な奴かを肌で感じてもらって、自分から出て行ってもらうんだ。これは決定事項だ。懸想されたまま一緒に住み続けるのはご免だ。

 だが、血が滲んでも気にせず研ぎ続けられるライナスに、少しだけ期待する自分もいる。これだけの熱意と集中力があるなら、しっかり教えれば立派な職人になりそうだと。

 できれば嫌になるのは俺だけだといい。他のヤツから学ぶ気になってくれれば、すべて解決だ。

 頼むから俺だけはやめろ。
 どれだけ一生懸命に尽くされても、何をされても、俺は誰とも手を取りたくないんだ。男だろうが女だろうが関係ない。

 あの限界集落で手を取り合った者の末路を、俺は目の当たりにしたから。

 ふと脳裏に親父がよぎる。俺の胸がわずかに痛んだ。



 昼食はライナスと濱中を連れて近くの大衆食堂へ行った。

 よほど腹が減ったのか、二人とも大盛りの丼を頼んで一気に腹へ収めていた。

 上手くライナスが箸を使う姿を見て、痛みは大したことがないらしいと判断する。

 酷くなければ良かった――ただ、すべて奢ることになった俺の懐は痛かった。
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