月の啼く聲

真田

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写鏡

第71話 三つの約束

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 冬が明けた頃、波留はるは亡くなった。
 自殺である。
 波留は自室で毒を飲み、倒れているのを見つかった時には、もう手遅れだった。
 皆は波留がどこで薬を手に入れたのかと訝っていたが、彼は知っていた。波留が使ったのは彼の毒薬だ。彼の書棚からは、茶壷が消えていた。
 波留が何を思ったのか、彼にはわからない。
 波留は籠原かごはらを嫌いだったのかもしれないし、三蕊みしべを嫌いだったのかもしれないし、彼を嫌いだったのかもしれないし、それ以外の何かに絶望していたのかもしれない。
 ただ彼にはわかることもあった。波留は、彼に憑いているものに憎まれていた。
 白衣しろぎぬが彼を訪れることは頻繁になっていた。最後に死を選んだのは波留本人だろうが、亡霊がその手引きをしたことはありえる。
 何らかの理由で、白衣は彼に執着する一方で、花嫁のことを呪っていた。亡霊は、花嫁が彼を屑人形から人へ変えるとでも思ったのだろうか。
 亡霊が波留を殺したとは限らないが、それならば波留を殺したのは彼だろうか。いずれにしろ若い娘は、彼の妻とならなければ死ぬことはなかったのではないか。
 葬儀では、波留の妹の伊奈いなだけが涙を流し、その光景をとても寂しいと、彼は腐りかけている心臓のどこかで感じた。
 何もしない役立たずの彼の代わりに、守十もりとみが奔走することになった。慎重にお膳立てした三蕊との婚儀から一年足らずで、花嫁を殺してしまったのである。理由はわからなくとも、範親のりちかはそれを籠原の過誤だと考える。
 守十が彼を見る眼差しには、その昔からずっと、隠しきれない忌避と侮蔑があった。そこに深い失望と、恐れのようなものが加わった。とうとう、彼の呪いに勘付いたのだろうか。
 葬儀が終わっても、屋敷の中には通夜のような空気が充ちていた。
 三蕊への気遣いだろうが、守十は彼に、妻の喪に服すように言った。要は、謹慎処分である。
 しかし、遠夜からの薬を切らせていたこともあって、彼はまた眠れなくなっていた。夜になると、白衣が彼を訪れる。
 呼吸しようとするように屋敷を抜け出し、彼は追ヶ原へ行った。







 遠夜えんや充國みつくには、浮世を知らない深窓の貴族のごとき男だった。
 戦や政治のようないわば俗世のことに興味がなく、雅楽や茶道に没頭するがごとく、呪術や伝説に没入していた。
 充國は彼が述べた、有秦ありはたの領土を維持するためのあれこれの方策にも関心を示さなかった。あまりに充國がそれらの話を聞かないので、ある時彼は充國に、遠夜が滅んでも構わないのかと率直に訊ねた。遠夜が滅べば、充國は住む城も食う飯も失う。
 すると充國は、面白そうに答えた。
「君が鬼の力を貸してくれれば、我はそれで天下を取ろう」
 それを聞き、彼はこの対話の無益を悟った。
 外交の成果が上がらないのを見て、守十は彼に、婚儀を理由に遠夜通いをやめるように言ったのである。
 そのため波留の死後に追ヶ原を訪ねた時、前回の訪問から一年近く経っていた。
 約束もなく供も付けず現れた彼を、充國は追い返すかもしれない。現に遠夜の家臣や使用人たちは、籠原からの訪問者を胡散臭そうに見つめた。
 しかし充國は久し振りに現れた彼を、両手を広げて迎え入れた。
「波留姫が死んだと聞いた。呪われた君の身は、花嫁を持て余したのではないか」
 こちらの気を害するかどうかなど気にしない充國は、不躾にもそう言った。しかし彼の中に、今更怒りも悲しみも起きなかった。
 ここへ来るまでに、何を話すかは考えてあった。
「白衣の話は憶えておいででしょうか」
 充國は笑い、頷いた。
「うむ。しかし、もう一度聞きたい」

 彼は白い魔物について、再度充國に話した。
 あれが何かはよくわからないが、それは山のものと親しく、皓夜叉しろやしゃと呼ぶ亡霊を連れており、なぜか彼に執着している。蜘蛛の姿を取っているのでなければ白い衣を着た人影のように見えることが多いため、彼はそれを白衣と呼んでいる。
 彼らは書庫に籠り、充國は彼の話を聞きながら、あれこれと古い書物を紐解いた。そして崩れ落ちそうな竹簡の一巻を広げると、細い指で書面を指した。
「これだ。有秦ありはた当主に命じられて、巍氏ぎし、つまり今の籠原氏が山神を鎮めた話だ。呪術師は山神を追い払ったものの呪いを被ったとある。前後は文字が掠れてほとんど判読できぬが、白衣はこの山神とかかわりがあるのではないか。それは山のものと親しいのだろう」
 彼は書面を覗き込みながら言った。
「かもしれません。……術者は、どうやって山神を鎮めたんですか」
「例の、二つの力とやらを用いたのではないか。そもそも、その力を使うにも何か別のものの力を借りたようだが、文字が潰れて読み取れん。しかし相手が神霊の類ならば、厄介だぞ。ここの法師たちでは歯が立たぬだろう。人を呪うのがせいぜいの術者しかおらぬ」
「……東鷗とうおう慈爺じじなら?」
 東鷗慈爺は、彼が遠夜通いを始めた時期に充國が雇い入れた異国の魔術師だった。日ノ本の言葉を達者に操る慈爺は、海を越えた大陸の遥か西からやってきたという。
「それを、我も考えておった。十馬どの、明後日また来ぬか? それまでに調べ物をしておこう」
「それでしたら……お言葉に甘えます。感謝に堪えません」
 政務を守十に預けている彼と異なり、熱意はなくとも為政者を務めている充國は多忙である。相手が好きでしていることとは知りつつも、彼は礼を言った。
「ところで十馬、君は最近黒い鬼を使ったか?」
 訊ねられ、彼は首を振った。
「いえ、あれが出るとますます夢見が悪いので」
「黒鬼が消えたということは」
「そうは思いません、あれは私の影みたいなものですから」
 そして彼は銅土あづち城を辞したが、直後、形だけでも充國に礼など言ったことを後悔した。
 充國は部下の化物、赤鬼と呼ばれる九裡耶くりやの忍を、彼にけし掛けたのである。
 怪力の忍は重い鎧で彼の脇差を弾き返し、首を掴んでへし折ろうとした。彼は咄嗟に黒鬼を出し、追ヶ原の外れで赤鬼を殺した。







 翌々日に訪ねた彼に、充國は言い訳も、説明すらしなかった。
 ただ、白衣を退ける方法が見つかったかもしれないと、嬉しそうに言った。
「鬼を散らすのに鬼を使うという方法があるそうだ」
 そう言う充國は、彼が見たこともない異国の文字で記された書物を示し、続けた。
「東鷗慈爺に、君の黒鬼を見せた。慈爺が言うには、黒鬼も大した鬼だそうだ。君は元々魔物を呼ぶし、黒鬼を使うだろう。白衣が恐れるような鬼を呼んで君に憑けることができれば、白衣は君に近付けない」
 無茶な方法に思えた。確かに彼は黒鬼を操ったが、それができるのは黒鬼が彼自身の一部であるからだと、彼は知っている。他の鬼を制御できるとは、到底思えない。
 彼の反応を待たず、充國は喋る。
「鬼神と呼ばれるものは、獣のような魍魎とは違う。あるいはだが、代償を差し出すことで、見返りを得られることもある。小さな犠牲を払う必要はあるだろうが、それで守護を得られるかもしれぬ」
 彼は考えた。
 充國の言う通り、契約が成功することもあれば、失敗することもありうるだろう。
 しかし失敗したところで、どうだというのだろうか。波留を死なせたのは彼であるかもしれず、彼はもう青治せいじに会うこともない。この上何を失うのか、よくわからなかった。
「代償には、何を差し出すのですか」
 彼は訊ねた。
 消え失せる前にひとつ試してみよう、そう思ったのだった。







 東鷗慈爺の力を借りて彼が引き寄せたのは、凶鬼まがおにと呼ばれるものだった。
 それは貪欲で狂暴な鬼だった。ただ凶鬼は、まるで人間のようにその凶暴さを皮肉と怠惰で覆っており、話し方も人間と変わらなかった。
 凶鬼は以前から巍氏ぎし、つまり籠原を知っていると言い、喜んで彼に憑こうと言った。
 その代償に凶鬼が求めたものは三つだった。片目を差し出すこと、今後彼が集めた影を凶鬼に食わせること、籠原家の獣を殺すこと。
 片目は一方的に与えるわけではなく交換するということで、契約の証だという。彼が勝手に契約を破棄しないための担保だと鬼は言った。
 彼が集めた影については、凶鬼が勝手に取って食うということなので、好きにしてくれと彼は言った。
 そして籠原の獣、それは何のことかと訊ねた彼に、鬼はこう答えた。
倶佯ぐようの奴が飼ってた犬が、お前の家に棲み付いてる。そいつを殺せ』
 彼は答えた。
「俺は倶佯なんて名を聞いたこともないし、籠原では犬なんて飼ってない」
 ふんと、巨大な鬼は嗤った。
『倶佯の奴は犬にまじないをかけやがったからな。てめえの家の中に、影のない野郎がいるだろう。影がないのは人じゃねえ。そいつが間違いなく、倶佯の犬だ』
 それを聞き、彼はすぐに気付いた。しかしそれを鬼に悟られぬよう、静かに頷いた。
「わかった、探してみる。……その、倶佯ってのは?」
 すると、鬼は仮面の顔でにやりと笑った。
『それを聞きてえなら、別の何かを頂こうか。そいつは俺が食ってやる。右目でもいいし、左耳でもいい』
 鬼から何かを得るのなら、当然だろう。彼は断った。倶佯が何かわからなくとも彼には問題はない。
 契約が済むと、鬼は姿を消した。







 契約以来、本当に白衣は現れなくなった。
 彼はそれをまるで奇跡のように感じた。絶対に成し得ないと思っていたことの一つが叶ったのである。
 それを充國に報告すると、例によって充國は、凶鬼と契約した彼のことを羨んだ。
 しかし、彼の安寧は束の間のものだった。
 彼はすぐに、恐ろしい空腹を感じるようになった。この空腹は実際の食欲ではなく、影に対する食欲である。
 今まで大して気にしていなかったが、彼あるいは黒鬼は影を引き寄せるだけでなく、それを知らぬ間に食っていたのである。しかしそうして集めた影は、今ではほとんどが凶鬼の胃袋に消えてゆく。
 無性に不安になることや苛立つことは以前からあったが、頻度や程度が酷くなった。戦に呼ばれないだろうかと考えたりした。戦が起きれば大勢が死に、その影つまり魂を、凶鬼も彼も食うことができる。
 彼は影を求めて、再び外へ出るようになった。遊びに出るというよりは、進んで野盗やごろつきが出そうな場所をうろついて、襲われることがあればそれを殺した。
 彼はとうとう、今度こそ本当に心臓が腐ってしまったと感じた。鬼と交換したのは左目だけのはずだったのに、まるで全身に毒が回ったようだった。
 そして何より彼を悩ませたのは、三つ目の約束だった。
 凶鬼が殺せと言ったのは宋十郎である。鬼は期限を明言しなかったが、彼はいつまでそれを引き延ばすことができるのだろうか。



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