月の啼く聲

真田

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越境

第48話 地獄の亡者を

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 日は昇っているが、森の中は薄暗い。
 孔蔵くぞうにも、ここが魔物の領域であるとわかる。
 この森には、怨念の気配が染みついている。
 十馬とおまのあとを歩いている昂輝のぶてるが、辺りの木々を見渡しつつ言った。
「流石に、薄気味の悪い森だな……」
 十馬は、落ち葉を踏み歩きながら答える。
「この辺りは、昔から何度も戦場になったようですね。錆丸さびまるが集めた者たちの幽魂ゆうこんもいくつも漂っているようですから、その辺りの茂みを覗けば、朽ちたむくろが転がっているかもしれません」
 昂輝は眉を寄せると、ぶつぶつと言った。
「そういえば、陣明じんめいがおらんな……なぜ私は、陣明を連れずに出てきたのだろう」
 何やら今更なことを、昂輝は呟いている。
 恐怖や不安といった自身の感情が強くなり、十馬が昂輝にかけた術のようなものが解けつつあるのかもしれないと、孔蔵は思う。
 孔蔵は昂輝に近付き、言った。
「昂輝どの、この先で魔物が出るかもしれませんが、何があっても無茶はせず、俺たちから離れないでくださいね。こういう場所にゃ錆丸以外にも妖物が潜んでるかもしれませんし、あんたに一人でどこかへ行かれたら、俺たちはあんたを守れませんから」
 孔蔵を振り返った昂輝は、二度ほど首を縦に振った。
「もちろんだ。私は魔物退治などできん。化物が出たら、頼んだぞ」
 素直なお役人の言葉に頷き返しつつ、孔蔵はふと前方に嫌な気配を感じ、顔を上げた。
 木々の向こうに、鎧が立っていた。兜の中には武者はなく、虚ろな空洞だけがある。
 明らかに、妖物である。
 その虚ろな鎧が、こちらをのがわかった。
 昂輝が息を呑み、十馬がその昂輝を庇うように足を止め、囁くように言った。
「旦那さまを呼んでますね」
 鎧はすうと、滑るように木々の向こうへ消える。
 十馬が、それを追って歩き始めた。
 昂輝が青褪めた顔で孔蔵を見上げるが、孔蔵は頷き、やんわりと昂輝の背を押した。

 彼らは、誘うように進んでゆく鎧を追った。
 道なき道を進み、やがて、いくらか開けた場所へ辿り着いた。
 落ち葉の下に石垣や礎石の跡が覗いており、かつて建物があったことが見て取れる。
 その奥に、欠けて傾き苔むした小さな石像と、その手前に突き立つ、黒い棒が見えた。
 長い棒は黒く変色しているが、槍の柄のようにも見える。
 あれか、と孔蔵が思うと同時に、鎧が棒の手前でひたりと止まった。
 こちらを向いた兜の中に、禍々しい怒りを湛えた武者の顔が浮かび上がったと思うと、鎧共々すうと消えた。
 蒼白の昂輝が後退さりし、背後に立っていた孔蔵にぶつかった。
「今の、あれが……」
 昂輝が言う。
 鎧は、明らかにこの若殿に視線を送っていた。孔蔵は、声を低くして答えた。
「そうでしょう。こっからが本番です。俺たちが旦那を守りますから、離れねえでくださいよ」
 十馬が黒い棒に向かって歩き始め、途中で一度、振り返った。
「孔蔵さん、さっき言った通りにしてね。あと、もし白いあいつが出て困ったことになったら、もう一人の誰かを呼んで。多分あんたに呼ばれれば、あっちは戻ってこれるから」
 孔蔵は眉を寄せ、質問を繰り出そうとしたが、その前に十馬が歩きだした。
 十馬は石像の手前までゆくと、地面から突き出ている、黒い棒に両手をかけた。
「出るよ」
 その言葉は、孔蔵と昂輝に対する警告だろう。
 孔蔵は昂輝の前へ進み出て、若殿を背後に隠した。
 固く地面に突き立ち動きそうになかった棒を、十馬は簡単に引き抜いた。恐らくそれも、孔蔵が与り知らぬ、十馬の妙な力ゆえなのだろう。
 あっさりと封印を解いた十馬は、黒い槍を手にして地面を見下ろす。
 槍が抜かれた土には崩れたような黒い穴が開き、一瞬、周囲の音が穴に吸われたかのような静寂が漂った。
 次の瞬間、ごうと風が吹き、十馬が後ろに吹き飛ばされた、ように見えた。
 いや、風が吹いたのではなく、穴から魔物が噴き出したのだった。
 十馬はそれを避け、木の葉のように一回転して孔蔵の前に着地した。
 いつの間にか、鎧姿の巨漢の落ち武者が、穴のあった場所に立ち刀を構え、こちらを睨みつけていた。炯々と光る両目に正気の気配はなく、怨念だけがある。
 怨霊は何かを叫んだが、孔蔵には人の言葉に聞こえなかった。
 彼の背後に立っていた昂輝が震え、今にも気絶しそうにたたらを踏んだ。怨念を直接向けられた昂輝には、錆丸の言葉が聞こえたのかもしれない。
 十馬が孔蔵の方を向かず、腕だけ伸ばして彼に槍を押し付けた。孔蔵が槍を掴むなり、十馬は背に差していた脇差を抜く。
 その間にも、錆丸は刀を振り上げて、斬りかかってきた。
 孔蔵は槍を握り、背で昂輝を押しながら退がった。脇差を左手で構えた十馬が前に出る。
 しかし錆丸は十馬の前に届く前に、奇妙に変形を始めた。
 首と背骨が伸び、それに合わせて肩と胴が膨らむ。走る足は、怨念の重みが現世のさかいを越えたように、一歩進むごとに地面に沈む。
 鎧が鱗のように剥がれ落ち、その下から、腐れたからだが露わになる。
 ぞぞぞぞと風が木々を撫でるような音と共に、吹き集まってきたのは木の葉ではなく、無数の怨霊のむれである。
 引き寄せた幽魂を吸って、錆丸のむくろはますます巨大に伸びてゆく。所々破れた腐肉を襤褸のように着たそれは、下半身を地面に埋めた、巨大な髑髏どくろのようになった。
 あははと十馬が笑ったのが聞こえた。
 何が可笑しいのかと思う孔蔵の背後で、怨霊の変態を思わず見つめていたのだろう昂輝が、とうとう正気に返ったらしく、わっと声をあげて駆けだした。
「おい!」
 孔蔵は振り返り、逡巡もわずかに、若殿を追った。
 昂輝は走る。移動に馬を使うお坊ちゃんにしては、昂輝は割に速く走った。しかし歩幅も体力も一回り余る孔蔵はすぐに昂輝に追いつく。
 彼は昂輝の肩を掴んだが、振り払われた。
「おい!」
 もう一度追いつき、思わず若殿の首裏の衿を掴んだ。ぐえっと呻いた昂輝は足を滑らせ、転びそうになったところを孔蔵が槍を持った手で支える。
「何をする!」
 青褪めると同時に赤くなり、若殿は今や紫色の顔をしている。
「離れんなって言ったでしょう、」
 孔蔵が言いかけたところで、隣の茂みが不自然に揺れた。
 現れたのは、朽ちかけて首の落ちた武者である。
「うわあああああっ」
 叫んだ昂輝が、孔蔵の背に飛び付いた。
 孔蔵は咄嗟に片手で印を結び、呪文を唱えた。
オン鍍蕃沙南ドバンシャナン阿弗陀羅アブダラ日磋鍍ニサト韃多頓バダトン薩婆訶ソワカ!」
 呪文に招かれた力が、武者の亡霊を蒸発させる。
 いきく間もなく、昂輝が別の方向を振り向き喚いた。
「おい、おい、おい!」
 昂輝の視線を追うと、彼らの周囲に、ぞろぞろと腐りかけた亡者どもが近付いてきている。
 ざっと見回しただけでも十体、いや二十体はいる。
 孔蔵は再び印を結んで呪文を唱える。
 二、三度繰り返し、視界の中にあった亡者たちが一通り消えたところへ、十馬がってきた。
 どうやら巨大な髑髏に殴り飛ばされたらしい十馬は、彼らに激突する寸前で器用に宙返りすると地面を蹴り、大きく跳ね返るように戻っていった。着物の裾は無残に崩れて傷んでいる。
 木々が覆う天井の上に下に、化物の周りを十馬が跳び回る。大きさはそれこそ馬と小鳥ほど違う。
 十馬は振り下ろされた巨大な刃物を避けその峰に跳び乗ると、刀から魔物の手首へ駆け上がる。目にも止まらぬ速さで腕を行き肩から跳ね上がり、されこうべの額に切り付けた。
 十馬の脇差は、頭蓋骨の表面にくっきりと傷を残した。しかしその傷が、みるみるうちに塞がってゆく。
 さらに十馬は落下ついでに宙返りして髑髏の太い鎖骨を断ったが、それもすぐに元通りに繋がった。
 着地しようとした十馬を、髑髏は虫でも払うように甲で打った。青年は軽々と吹っ飛び、それでも手近な木に激突する手前でまた体を返し、幹を蹴って地面に降りた。
「こいつぁ結構糞野郎だね」
 笑うように言う十馬の台詞は、本当に可笑しいから発されたものではないはずだ。
 一方で髑髏は徐々に、ますますでかくなっている。
 もちろん孔蔵は黙って見ているわけではない。槍を脇に挟むと両手で印を結び、視線の先の魔物を睨み据えた。
南莫ノウマク三曼多サマンダ縛日羅バサラダンカン!」
 力の糸に縛られたように、巨大な髑髏がぎしりと動きを止める。
 落ち葉の上に屈んでいた十馬が魔物を見上げる。
 孔蔵は抵抗する相手の力を感じた。気を抜けば、いや抜かなくとも、今にも魔物は糸を千切りそうである。これは力比べだ。
 孔蔵は呼吸をやめて全身の力と意識を集中させる。
 敵が硬直したのを見て、十馬が再び跳ね上がった。
 十馬はされこうべの頬に切り付けるとさらに昇って髑髏の頭上に乗り、両手で握った脇差を、頭蓋骨の頭頂に突き立てた。
『おおおおおおおおおおお』
 怨霊が咆哮する音が、孔蔵の全身をびりびりと痺れさせた。
 孔蔵の米神からは汗が噴き出している。何か太い紐が切れるような感覚と共に、髑髏が動きを取り戻したのが彼にはわかった。呪文が破られた。
 十馬が髑髏の頭上から飛び降りると同時に、孔蔵はもう一度呪文を唱えた。
南莫ノウマク薩縛サラバ怛他タタ孽帝ギャテイ毗藥ビャク薩縛サラバ目契ボッケイ毗藥ビャク薩縛他サラバタ咀羅咤タラタ讚拏センダ摩河路洒拏マカロシャダケン佉呬佉呬ギャキギャキ薩縛サラバ尾覲南ビギナンウン咀羅咤タラタカンマン!!」
 彼が知り、使える中では最も攻撃性の高い呪文である。
 力は赤黒い炎の姿を取って燃え上がり、巨大な魔物を包み込んだ。
 一方で孔蔵は、突然強烈な疲労感に襲われた。彼はよろめいた上、踏み出した足にも力が入らず、落ち葉の上に膝を突いた。
 気付くと息が上がっており、眩暈がひどく立っていられない。
 常々師や友人から、気力体力底なしだと言われていた孔蔵だが、ここまで大きな呪文を立て続けに使ったのは初めてだった。分不相応に乱用するとこうなるのかと、初めて我が身をもって知ったわけだが、そんなことを得心している場合ではない。
 巨大な魔物は一度火炎に呑まれたように見えたが、やがて炎の中から刃物を握った腕が振り回された。続けて、薄れ消えゆく火の中から、いくらか縮んで骨だけになったものの、変わらず両目に闇を湛えた髑髏の上半身が現れる。
 五百年の怪物を灰燼かいじんに帰すには、孔蔵が明王の劫火ごうかを多少借りた程度では、到底足りなかったということか。
 されこうべの暗い洞の両目が彼らの方を向く。髑髏の手前の地面が盛り上がり、土を散らしながら、骸骨の下半身が現れた。
 足が出た髑髏は、彼らに向かって、走りだした。
「うわああああっ」
 悲鳴をあげて駆けだした昂輝を、誰が責められるだろうか。
 孔蔵は立ち上がろうとして、いつの間にか両手で握っていた槍を、杖のように地面に突いた。
 握った槍が、ぼんやりと黄色く光っているように見える。
 篭が言っていた。孔蔵は影の鎧を着ていて、それは白や黄色に光るという。
 十馬が髑髏の前に飛び出し胸に幾度か切り付けたが、髑髏は胸骨を切られながらも構わず進み、またも手の甲で青年を弾き飛ばした。
 髑髏は昂輝との間に立つ孔蔵に向かって、巨大な獲物を振りかぶった。
 凶器の圧力以前に、魔物の発する陰の気に圧される。
 槍にすがって敵を見上げることしかできない彼の前に、再び十馬が躍り出た。
 十馬は魔物にすれば小鳥のような成りで、小枝にも満たない細い脇差で、振り下ろされた巨大な刃物を受けた。
 当然のように、振り下ろされる刃物と共に十馬は地面に叩きつけられる。
 しかし、落ち葉を吹き散らしながら地面に激突した十馬は、それでも剣を受けたまま、二本の足で立っていた。
「突け!!!!」
 十馬が叫んだ言葉の意味を、孔蔵は瞬時に理解した。
 躊躇している暇はない。
 ないが、突けと命じたものと同じ声が、彼の脳裏に蘇った。
『孔蔵は、人を殺さないほうがいいと思う』
 動かない孔蔵を、十馬の目が振り返った。
 魔物をとどめている青年の足元が滑る。
 咄嗟に、孔蔵は叫んでいた。
オン、」
 残る最後の熱が胸に灯り、それが両腕に向かって走る。
 また同じ声が、彼の中に蘇った。
『おれは死なないし、おれを刺しても、あんたは誰を傷つけたことにもならないから』
 本当に、そうか。傷付くものは、何も肉体だけではないだろう。
 嘘吐きだと名乗ったのは、どこの誰だったか。
 孔蔵は、震える膝を持ち上げる。
 槍を離し、光を灯した両手を、目の前に立つ青年の頭に翳した。
阿謨伽アボキャ尾盧左曩ベイロシャノウ入嚩攞ジンバラ鉢囉韈哆野ハラバリタヤウン!」
 彼の口から飛び出したのは、浄罪の呪文である。まだ幼かった頃、寺を訪れる病者たちに向かって和尚が繰り返し唱えていたものを聞き、最初に憶えたものだった。
 十馬の瞳が見開かれ、驚愕のようなものを映して彼を顧み、次には眠りに落ちるように瞼の下へ隠れた。
 青年の体が崩れ、巨大な刃が降ってくる。
 孔蔵は叫んだ。
「篭どの!!」



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