月の啼く聲

真田

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第21話 影も形も

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 彼は、屋敷の廊下を歩いていた。
 小さな子供の足が床板を踏んでゆく。
 ふと、ひそひそと囁く声を聞いた。
 見ると、廊下の先の角に、二つの影が立っていた。
 喋っているのは二つの影だった。
『ああ、私、今日からあの子をお世話することに』
『ああ、貴女あなた、奥さまに嫌われてしまったのね』
『大丈夫、あの子の目を見なければ』
『もちろん、呪われてなどいなくても、あの子の目を見たりするものですか』
『卑しく穢らわしい、』
 角の先から、二人の下女が歩いてきた。
 影はするすると二人の女に吸い寄せられ、声はんだ。
 あの子というのが自分のことだと、彼は知っている。
 硬直していた彼は、二人の女と目が合う前に、踵を返して駆けだした。
「若さま」
十馬とおまさま」
 女たちの声が呼んだが、彼は振り返らなかった。







 猟師小屋の土の床の上で、ろうは目覚めた。
 胸の辺りに静かな痛みを感じるのは、悲しい夢を見ていたからだろうか。
 彼は涙を流していた。
 孔蔵くぞうの鼾が聞こえた。
 それを聞き、彼はひどく安堵する。
 やっと弛緩した体で、朝の空気を吸った。







 篭と孔蔵は猟師小屋を出ると、山を下りて太畠うずはたへ向かった。
 山道を歩きながら宋十郎そうじゅうろうか、その痕跡を探して歩いた。
 麓まで降り、林道を少し外れた場所に、浪人の亡骸を見た。
 浪人は正面から腹と胸を斬られ、仰向けに倒れていた。
 血はもう錆色に固まりつつあったが、濁った両眼は開いたままだった。
 黒い影が、骸の下で、たゆたっている。
 今にも亡骸が起き上がり、無念の句を唱えそうに思えた。
 この男を殺したのは、恐らく宋十郎だろう。
 不意に、理由のわからない恐怖を感じ、篭は一歩、亡骸から離れた。
 しかし孔蔵は、笠を被った頭をうつむかせると、胸の前で手を合わせた。
 短い念仏を唱える。
 顔を上げると、孔蔵は言った。
「どんな悪人でも、人は人だ。どれだけ憎まれてる奴でも、死んだ時は誰かが憐れんでやらなきゃあ。って、和尚が言ってた」
 そして孔蔵は、何故か眉を下げて微笑した。
 その顔を見て、不思議と、篭は恐怖を忘れた。
 彼も一緒に、死んだ浪人の魂を弔ってやりたいと感じた。
 この男が、十馬のように迷わず、行くべきところへ還ってゆけますように。
 彼が孔蔵を真似て両手を合わせている間、若い僧侶は、黙って待っていた。
 篭が頭を上げると、彼らは再び林道へ向かって歩き始めた。







 宋十郎は、影も形もなかった。
 結局、篭と孔蔵は太畠へ辿り着いた。
 お尋ね者となってしまった宋十郎が太畠へ入れるのかわからないが、まずは約束通りに、街の中を見回ってみようということになった。
 ところで、太畠にも関所はあり、彼らは役人に身分を検められたが、孔蔵は胸を張って堂々と答えた。
「この人には、強い鬼が二匹は憑いている。俺はこの人に憑いた鬼を落とすため、近畿にいる術者に会わねばならんのだ」
 それは宋十郎が、とにかく誰にも言うなと篭に言い聞かせていた事実であった。
 役人は面食らった顔をしたものの、厳つい坊主とぼろぼろの青年を見比べ、何かを納得した面持ちで、彼らを通してくれた。
 太畠へ入った彼らが向かったのは、孔蔵の知り合いが奉公しているという、田原たわらという旅籠だった。
 朝の珍客を迎え入れてくれたのは、乃助のすけという名の、孔蔵の友人だった。
 店の表を掃き清めていた乃助は、訪れた客に気付き、目を瞬かせた。
「おお、孔蔵じゃねえか!」
「よう、乃助。久し振りだな」
 挨拶を交わすが早いか、乃助は笑いながら言う。
「太畠まで出てくるなんざ、お前とうとう破門になったのか」
 孔蔵は濃い眉を寄せつつ、笑い返した。
「違う、違うよ。それよりお前、最近噂を聞かねえからどうしてんのかなと思ってたよ。元気にやってるか」
「おう、元気も元気よ。噂を聞かねえって、そりゃ、多分あれだな」
「なんだよ」
「実は俺、じきに祝言をあげるんだよ」
「なに?!!」
 朝の通りに、孔蔵の大声が響き渡った。
 通りを忙しく往来する人々は、誰も振り返らないが、孔蔵の背後に立っていた篭は、目を丸くした。
 へへへと乃助が笑う。
「ここの娘さんだよ。俺、来月から旅籠の入り婿になるんだ。跡取り息子ってやつだよ」
「おお、そりゃあすごいな!道理で今度は、職も変えずに頑張ってたわけか」
 話す二人を横目に見ながら、篭はふと、開け放された入り口の奥へ目を遣った。
 食べ物の匂いが漂ってくるのである。
 すっかり忘れていたが、彼は昨日の朝から何も食べていない。
 彼の腹がぐううと鳴き声をあげ、孔蔵と乃助が振り返った。
「そちらさんは、お連れさんかい?」
 乃助が訊ね、孔蔵がああと頷く。
「俺は今、和尚の言い付けで、この人が近畿まで行くお供をしてるんだよ。で、もう一人連れがいたんだが、その人が昨晩から行方知れずでな。若い武士なんだが……」
 そこで乃助は何かを思い出したらしく、口を開いた。
「あ、そうだ」
 しかし言いかけて、口を噤む。乃助は声を落として、言った。
「なあ、まずは中へ入っちゃどうだ。積もる話もあることだし」

 乃助は宿の食堂へ彼らを案内し、粥を出してくれた。
 食事をする彼らに、乃助は昨晩起きたことを話した。
 昨日の夜、提灯の明かりを落としに表へ出たところ、乃助は突然呼び止められた。
 呼び止めた男は、孔蔵という名の坊主を知っているかと尋ね、知っていると答えた乃助に、伝言を頼んだ。
 伝言は以下のようなものだった。
「謀計により追われる身となったので、先に青根までゆく。青根で会えなければより西へ。燕をよろしく頼む」
 その男は商人のような恰好をしていたが、刀傷を負っており、話し方から何からして、侍の扮装だろうと乃助は思った。男は伝言を託し礼を言うと、人通りのない夜の通りへ消えた。
「そりゃ、間違いなく宋どのだ。怪我してたのか」
 飯を食う手を止め、孔蔵が言った。
 篭も隣で箸と椀を掴んだまま、乃助の顔を見つめた。
 乃助は答える。
「着物の肩が裂けてるし、顔の汚れも血糊に見えた。手当をするかって聞いたんだが、断られたよ」
 宋十郎が怪我をしていたと聞いて、篭は、食欲が失せてゆくのを感じた。
 その顔に気付いた孔蔵が言う。
「篭どの、心配するな。少なくとも、手当てしないと進めないような酷い傷じゃなかったってことだ。俺たちも、急いで青根へ行こう。とりあえず生きてて、青根に行ったとわかってよかったじゃねえか」
 孔蔵と乃助はその後も少しお喋りをしていたが、食事が終わると、会話も止めた。
 二人は乃助に礼を言い、早々に田原屋を出た。







 青根峠は、京へゆく道のうちでも相当な難所であるという。
 しかし数日前まで子供を背負って歩いており、昨日も山道を駆けていた篭の足は、多少の坂道は気にしない。孔蔵も、長い足でどんどん前へ進んでゆく。
 彼らは足早に進んでいたが、坂の傾斜が緩くなったところで、孔蔵が言った。
「なあ、最初に会った日、盗人と間違えて、悪かったな」
 突然何のことかと思ったが、篭は考えて、すぐに思い出した。
 弾む息の合間に答える。
「孔蔵は、悪くないよ。嘘をついたのは、あの泥棒だろ?」
 孔蔵は首を振った。
「いや。拳をふるうもんは、やっぱり騙されちゃ駄目なんだよ。俺は、昨日も女忍に騙された」
 篭は疑問に思い、単純にそれを口にした。
「でも、騙された方が悪いのは、変じゃない? 悪いのは、嘘をついた人だよね?」
 ううんと、孔蔵は唸った。
「まあ、そうなんだけどな。でもそれだけじゃなくて、俺の場合は、もっと頭を使えってこった。そうしてりゃ、騙されてあんたを殴ることもなかった。それに昨日ももうちょっとで、舟渡しの船頭を脅して、ただ乗りさせるところだった」
 ふうんと頷いたものの、篭はいつものように、わかるようでわからない。
 続きを問う前に、急坂というよりは崖に近いような道が、目前に現れた。
 これは、二本の足で進むのは難しそうである。
 孔蔵が言った。
「この辺ってな、毎年、特に冬は死人が出るらしい。あんた、先に行きな。あんたが落っこちてきても俺は平気だけど、俺があんたの上に転げ落ちたら、二人ともお陀仏だろう」
 そう言われて、そう簡単に落ちないぞという意地のようなものを、篭は珍しく感じた。鳥だった頃は、こんな崖は飛んでしまえば何でもなかった。
 ふとそこで、彼は思い出した。
 自分はとべるのではないか。
 彼は木々の間の細道を睨み、足を置く場所を意識した。
 深く息を吸い、駆け出した。
 急坂の手前で、天を目掛けて跳ねる。
 体が宙に上がり、木々の天井を抜ける。
 しかし思ったほど高く跳べず、中途半端な放物線を描き、斜面の中腹に生えている木に突っ込んだ。
 枝から転落したが幹にしがみつき、坂を転げ落ちることは免れた。
 孔蔵が目を丸くして彼を見上げている。
「おお、そうだったな。あんた、跳ねるんだった」
 彼を追う形で、孔蔵は両手を使いながら、急斜面を登ってきた。
 篭も、残りの斜面は四つ足で登った。
 先に登り切り、あとから這い上ってきた孔蔵を助けようとして、手を差し出した。
 それを見て、孔蔵が眉を上げる。
「おい、触っちゃまずいだろ」
 忘れていた。
 篭は何だかおかしくなり、笑った。
「そうだった」
 彼の顔を見て、孔蔵も笑った。







 正午になる頃には険峻な山道を登り終え、彼らは青根の関所へ辿り着いた。
 検閲を待つ旅人はそれほど多くないが、やはり数人が順番待ちをしている。馬を連れた者もいるので、恐らく篭たちが歩いた道の他に、遠回りでも平坦な道があるのだろう。
 篭は辺りを見渡して言った。
「宋十郎は……?」
 すると、孔蔵が彼の肩をつつく代わりに、声を掛けた。
「おい、篭どの」
 振り返り、孔蔵の視線の先を追う。
 笠を被った男が近付いてきた。
 着物が随分汚れているが、宋十郎だった。
 笠の縁が上がり、白い顔が、彼らに向かって頷く。
 篭は、考えるより先に駆け寄っていた。
「宋十郎!」
 彼にとって一晩は、一月の長さだった。
 肩の傷と、笠がなければ飛びついていただろう。
 宋十郎の着物の肩は大きく裂け、その下に布が巻かれているのが見えた。顔色も良いとは言えない。
「宋どの、大丈夫だったか」
 孔蔵も寄ってくると、肩の傷を目で指した。
 宋十郎は頷いた。
「無傷とは言えないが、何とか剣は握れる。予定を狂わせて申し訳ない。二人とも、太畠で落ち合えたのか」
 そこで、孔蔵と篭は顔を見合わせ、孔蔵が説明を始めた。
 長い話が進むにつれ、宋十郎は顔つきを厳しくした。
「では、あの太畠の娘も、忍だったということか」
 雨巳のことを指しているのだろう。篭は頷き、問い返した。
遠夜えんや充國みつくに公の忍者かな?」
「恐らく。他に、心当たりもない。迂闊だった」
 眉間に深い皺を刻む宋十郎に、孔蔵が訊ねた。
「しかし、なんだってそのお侍は、篭……十馬どのを捕まえようとしてるんですかね? 敵だとしたら、殺したほうが早いでしょう」
 すると、宋十郎は辺りを見回し、彼らを塀のそばへ誘った。木陰に入り、声を落として話し始める。
「今の遠夜当主は、些か変わり者だ。遠夜は古くから公に法師や妖物を使ってきた家だが、充國はその手のものに、殊更強い関心を寄せているそうだ。詳しい事情はわからないが、その辺りのことと関りがあるように思う」
「昨日の女の子、人間に変身する蛇を連れてたよ。それにおれを連れてこうとした忍が、背中を刺されて死んだみたいだったのに、起き上がってまた歩いてた」
 篭が言うと、孔蔵が明らかに不快そうに顔を曲げた。
「そりゃ恐らく、外法の類だ」
 宋十郎が、ちらりと孔蔵の顔を見遣る。
「いずれにしろ、係り合いにならぬほうが良いのは明らかだ。どこまで追ってくるかわからないが、気を抜かぬようにしなければ」
 彼らは頷き合った。







 三人はひたすら青根峠を下り、日暮れ前に国境へ辿り着いた。
 坂を下る間、宋十郎が悪い知らせを明かした。
 路銀が不足しているという。
 浪人の群れを振り切るために、宋十郎はやむなく荷を捨てた。
 宋十郎が持ち歩いていた銭の大半を始め、着物や書物など金になりそうなものは、皆その中に入っていた。
 翌朝に篭と孔蔵が林を探し歩いた時、当然それらは誰ぞに持ち去られて跡形もなかった。
 宋十郎は言った。
「このままでは往路の最中で路銀が尽きる。節約するのはもちろんだが、何らかの方法で金を稼がなければ、京へ辿り着けない」
 孔蔵が彼らに金を貸したとしても、孔蔵も三人分を賄えるほどの小遣いを託されているわけではない。
「いざとなりゃ、俺が托鉢たくはつして喜捨きしゃを頂いてきますよ」
 明るい調子で孔蔵が励ましたが、宋十郎の表情は晴れなかった。
 篭がこの点で役立たずなのは明らかだが、生まれながらに武士である宋十郎も、算盤そろばんは弾けても、賃労働などしたことはない。
 忍者を警戒し、金策に頭を悩ませている間に、彼らは国境にたどり着いた。
 作り話をした上で通行税を支払って何とか関所を抜けると、鴛房おぶさという町に着いた。
 長い二日間を生き延びた彼らは、三者三様の理由で疲れ切っていた。
 その晩は適当な宿に入って食事を済ませると、普段は夜長することが多い宋十郎でさえ、早々に眠りに就いた。







 雨巳あまみは夜の中を走っている。
 黒い影にしか見えない木々の向こうには、富士の山があるはずだ。
 まだ、雨巳は腹を立てていた。
 らいは甘やかされている。
 しかし少し考え、それも仕方なかろうという、いつもの結末へ辿り着く。
 あの餓鬼は自分が何に仕えているのかも、そして自分が何であるかも、全く理解していない。
 気の毒な話ではある。
 結局、後片付けは彼女の役目である。
 割り切って、目前に伸びる夜の街道を見据える。
 この道は、瑞城氏の主城であり彼女の尋ね人の在処でもある、居織ごしきじょうへ続く。
 比良目ひらめには、彼女も数えるほどしか会ったことがない。
 彼女が韋駄天いだてんについて旅できるようになった頃には、あの爺いはもう瑞城に棲んでいた。
 どんな鬼より強いはずの魔物。
 当時の遠夜当主が、抜け殻になった比良目を、密通の証として敵国へ流した。まるで、飾刀かざりがたなを贈るように。
 比良目はその牢獄で、雨巳には何の意味があるのかわからない余生を、細々と繋いでいる。
 妖も、人に近付くと阿呆になるのだろうか。
 走っているのに、溜め息が出るとはどういうことか。
 夜は良い。
 零れた溜め息を聞くものも、月と梟くらいなものである。



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