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追手
第20話 眩暈に落ちる
しおりを挟む突如大地に生えたのは、黒く巨大な鬼の腕である。
女二人が跳び退さり、男は篭を抱えたまま大きく跳んだ。人間の脚力ではない。
「ほれ見ろ馬鹿野郎!」
娘、雨巳が叫んだ。
「黒鬼の腕か!」
男は嬉々として声をあげると、地面の上に篭を投げ捨てた。
彼は全身で鈍い衝撃を感じる。
亥宮の声が聞こえた。
「ちょっと、鬼は出さずに生け捕りでしょ? これじゃこいつに殺されなくても、あたしたち揃って獄門行きよ!」
「亥宮、あんたは隠れてな!」
雨巳の言葉が終わるが早いか、亥宮は早々に木々の向こうへ駆け去る。
來と呼ばれた男と雨巳が、黒い腕と対峙する。
男は背に負っていた長刀を抜く。
雨巳が宙で指先を躍らせると、彼女の両脇に刀を携えた鎧武者が二人、地面から立ち上がった。二人の武者の影は、篭の目に蛇の姿として映っている。
二体の鎧武者と黒装束の男が、既に暴れ回っている腕に斬りかかった。
武者の刀は刃が立たず、一体は鎧ごと弾き飛ばされる。
もう一体の武者がその隙に腕の関節へ近付き刀を振り下ろす。
その刀も、鋼が鳴く音と共に毀れた。
巨大な拳を躱し跳んだ來が、手首の上に降り立った。
振り上げられた長刀が紫色の炎を帯びる。
敵の皮膚を打つと、同じ色の火花を散らした。
「お前の鬼霊じゃ駄目だ!火で火は消せねえっしょ」
距離を取りながら雨巳が叫ぶ。
來は舌打ちすると、振り回される腕を躱しながら、再度、燃える刃を叩き込んだ。
「つんぼか!」
雨巳が叫び、來が怒鳴る。
「じゃあどうすんだよ!」
篭は地面の上に横たわったまま、ほとんど用を成さなくなっていた目を閉じ、また開いた。
眩暈は徐々に薄れつつあり、代わりに馴染みのない感覚が彼の神経を襲っていた。
頭から爪先まで、全身の血が逆流するように感じる。先ほどまでは止まりそうに鈍っていた鼓動が、痺れに似たものとともに、急激に速度を増してゆく。
感覚の洪水に抗いながら、篭は感じた。
あの黒い腕に満ちているものは恐れと怒りだ。十馬の体を媒介として育つ植物のようなものだ。
鼓膜の底で、十馬が呟いた言葉を、彼はもう一度聞いた。
『大嫌いだ』
そして続けて、岩を転がすような声が、耳元で囁いた。
『なら、全部壊しちまうか』
彼の体の中で迸り、遡り始めていた血流が、凍り付いた。
愉悦に満ちた声が、可笑しそうに笑う。
『餓鬼、腹が立たねえか?』
瞬きより早く薙ぎ倒された竹林と木の葉のように散らされた獺忍者の姿が、瞼の裏に蘇った。この恐怖は、強い後悔を伴っていた。
「だめ、だ」
声が出た。自分でも気付かないうちに、彼は喋っていた。
「傷つけたくない」
喘ぎ喘ぎ発された声を聞いたのだろう、雨巳が地面の上の彼を振り返った。
油断した娘を狙って、刀のような黒い爪が振り下ろされる。
鎧武者が飛び出してくると、娘の代わりに爪に裂かれた。
ばしゃあと水音を立てて、鎧武者の姿が崩れる。
娘の顔に怒りが浮かぶ。
「ちきしょう!」
雨巳は叫ぶと、帯の背から小刀を取り出し、腕に飛びかかった。
一方で、黒い腕の上に立った來が叫ぶ。
「やったぞ!」
言葉の通り、青年は黒い指の一本を斬り落としていた。
しかし歓声をあげたのも束の間、落とした指の断面から根が伸びて大地に立つと、天を向いた指先も茎のように伸び、槍となって來の背を貫いた。
青年は呻き声を残して倒れる。
地面に打ちつけられた頭から、狗の面が転がり落ちた。
吊り上がった目をした若い男の顔が露わになる。黒い瞳が徐々に生気を失い、やがて濁った瑠璃玉のようになった。
雨巳が腕を振り、いつからか地を這っていた三匹の蛇を武者の姿に変える。
篭は、感覚の遠い体に操れるだけの力を込めて、身を起こした。
頭が心臓になったように、ごうごうと脈打っている。
震える手足を地面に着くと、腐葉土の上に転がっている黒装束のそばへ這っていった。
敵に取りついていた雨巳が、彼の動きに気付く。
「あんた、何して」
しかし黒い槍が伸びてきて、それを躱す雨巳の言葉を切る。
篭は來の手に握られていた長刀を右手で掴むと、震える切先で、包帯を巻いた左手に切りつけた。
恐怖のあまり彼は呻いたが、痛みはなかった。
刃が退くと、傷つけられた黒い肉は以前と同じく黒い泡を吹きながら、傷口を塞いでゆく。
恐れと悲しみで、彼の腹から嗚咽が漏れた。
「何して……、がっ」
もう一度彼を振り返った雨巳が、娘を庇おうとした鎧武者と共に、巨大な手の平に打たれて吹っ飛んだ。
これ以上躊躇っていてはいけない。
篭は震える両手で剣を握り直すと、それを自分の腿に突き立てようとして持ち上げた。
その時、木々の間に、太い男の声が響いた。
「唵、摩由囉訖蘭帝薩婆訶」
どういうわけか、森の闇の中から孔蔵が現れた。
僧侶は胸の前で印を結んでいる。呪文と共に、巨大な腕の動きが止まる。
篭の目には、闇の中で茫々と光を発する僧侶の影が見えた。
呪文を唱えるごとに光は増し、僧侶は光の華を背負っているようになった。
細い花弁が四方に伸び、黒い腕を標本のように刺し貫く。
僧侶の胸が、呼吸と共に膨らんだ。
「噴!」
唸り声と共に花弁は一斉に弾け、刺し貫いていた腕を粉々に吹き飛ばした。
地面の上で跳ね起きたばかりの雨巳が、唖然とその様を見つめている。
すると孔蔵の背後から、亥宮が駆け出してきた。
「雨巳、退くわよ!」
驚きの顔のまま、雨巳は亥宮を振り返る。
雨巳が手を振ると、鎧武者たちが次々と水飛沫をあげて崩れた。蛇たちは落ち葉の下へもぐってゆく。
「おい、篭どの!」
孔蔵は落ち葉を散らしながら、地面の上の篭に駆け寄ってきた。
篭の手から長刀が落ち、膝の間に突き立った。
「危ねえ」
孔蔵はその剣を抜いて適当に放ると、両手で篭の肩を掴んだ。
僧侶の手はまだ先ほどの白い影を宿している。まるで当然のことであるかのように、彼の皮膚がじゅうと痛々しい音をたてた。
篭は思わず悲鳴をあげ、孔蔵は慌てて両手を引っ込めた。
その背景で、地面の上に倒れていた來の体が、むくりと起き上がった。
黒装束の青年は緩慢な動作で辺りを見回し、孔蔵が放った長刀を拾う。
「馬鹿野郎、来い!」
亥宮と共に立ち去ろうとしていた雨巳が、唸り声で青年を呼んだ。
雨巳がよろめく來の腕を掴んだところで、亥宮が孔蔵の背に声を投げ掛けた。
「孔蔵さま、ありがとうございます。騙してしまってごめんなさいね。またどこかでお会いしましょう」
孔蔵が肩越しに振り返るが早いか、二人の女は青年を支えつつ、森の奥へ消えてしまった。
ぽかんとそれを見送った孔蔵だったが、すぐに我に返ると、慌てて篭に向き直った。
「ああ、すまん篭どの、やっぱ触っちゃまずいのか。他に、怪我とかないか」
篭はぐらつく頭を何とか支えながら、舌を回し、声を絞り出した。
「わかんない、頭が……目が、まわる。体が、うごかない」
相手に触れないよう注意しながら、孔蔵は篭の視点の定まらない右目を覗いた。
「こりゃ、篭どの、何か食ったか飲まされたか」
孔蔵の言葉に、篭はぐらりと頷いた。
「粉みたいなの、かけられた……」
納得したように孔蔵は言った。
「連中、阿呆草かなんか使ったな。おい篭どの、立てるか」
篭は立ち上がろうと全身に力を込めるが、完全に立ち上がる前に、再び地面へ倒れてしまった。
「ごめん……」
彼が呻くと、孔蔵は首を振った。
「いや、なんで謝るんだよ。しかし参ったな。ええと、そうしたら、あの小屋ん中まで這っていけるか。今夜はここで夜明かしするしかない」
再び頷くと、篭は腕と膝で、猟師小屋まで這っていった。
彼を待つ間に孔蔵は小屋に入ると、背負っていた荷を開いて、火打石を取り出した。
孔蔵が器用に火を起こしたそばまで辿り着くと、篭は力尽きたように寝転んだ。
動悸は止まず、気分が悪い。
それでも彼は、先ほどから気になっていることを口にした。
「宋十郎は……」
孔蔵は腰に下げていた水筒を彼に差し出しながら、言った。
「飲めるか? 無理か。すまん、よくわからないんだ。ちょっと待ってろ、薬湯を作るから」
開いた荷から包みやら器やら取り出して、孔蔵は作業を始めた。手を動かしつつ、僧侶は喋る。
「俺の方は、ほら、あの姐さんと一緒に楢濱行ったんだけど、叔父さん一家ってのが揃って物怪だったんだよ。上手く化けてたけど、俺が甥っ子ってやつの頭を撫でようとしたら思い切り避けられて、妙だって気付いたら、連中、蜘蛛の子散らしたみたいに逃げ散ったよ。こりゃおかしいと思って急いであんたらを追いかけて、太畠の手前まで来たら、林の入り口でならず者がたむろしてたんだよ。そいつらに、あんたらを見なかったか聞いたら、賞金首の剣士を追いかけて林に入ったけど、見失ったって言う。聞いた人相も宋どのみたいだし、林に入ったら点々と浪人が切り捨てられてるだろ。で、ひたすら山道を登ってたら日も落ちてきたし、引き返そうと思ったところでさっきの姐さんが現れて」
そこまで喋ったところで、小さな鉄瓶の中で湯が沸いた。
孔蔵は一度言葉を切ると、湯と枯れ草のようなものを器の中で混ぜ合わせ、それを篭に差し出してきた。
「しんどいだろうけど、飲んでみな。和尚の直伝だ。あんたに効くかわかんねえけど」
篭は少し上体を起こすと、まだ震えの収まらない手で木の器を受け取り、中身を啜った。
ぼけた舌では味はわからないが、温かい湯を飲み下すと、体のどこかが弛緩したように感じた。
「ありがとう」
彼は器を孔蔵へ戻しながら、言った。
どこか安堵したように、孔蔵は、ふうと溜め息を吐いた。
「いや。さっきはうっかり触って、悪かった」
「ううん。助けに来てくれて、ありがとう」
それは、篭が今になってやっと実感できた本音だった。
孔蔵が来て黒い腕を始末してくれなかったら、今頃彼は、あの娘たちは、どうなっていたのだろう。
静かに頷くと、孔蔵はまた別な草を器に移しながら、話し始めた。
「あんたらのほうは、何があったんだ。浪人どもが探してるのは宋どのみたいだったから、多分あんたら、連中に追われてるうちに分かれたんだろ」
篭は頷きつつ、補足した。
「林の近くで変な女の子に会って、おれはその子と一緒に逃げてた。宋十郎が太畠に行けって言って……その子はそうするって言ったのに、ここに連れて来て、おれに粉をかけた」
「俺らみんな、嵌められたってことだな。多分、あの姐さんもだけど、どこぞの忍だろう。宋どのが何か言ってた気がするが……」
首を捻る孔蔵に、篭はもう一度付け足した。
「えん……遠夜充國公? の忍?」
「ああ、それそれ」
孔蔵は新しく調合した飲み物をまた篭に差し出しながら、言葉を続けた。
「お侍ってのは、厄介だな。褒賞金かけたのも、多分その連中だろう。もし人相書きまで出回ってるようなら、宋どの、太畠に入れねえかもなあ」
のんびりして聞こえるが、孔蔵の口調には苦みがあった。
篭はまた新たな不安を感じる。
宋十郎が無事かどうかもわからず、無事だったとしても、約束したように太畠で落ち合えないなら、彼らはどうすればいいのだろう。
すると、孔蔵が言った。
「まあ、とにかく明日夜が明けたら、宋どのを探しながら太畠へ行ってみよう。あの人がそこに行けっつったなら、まずは確かめてみようぜ。あとのことは、あとに考えるしかないだろ」
その孔蔵の声を聞いたら、突然疲れが大波のように襲ってきた。
まだ不安は去っていないが、今思い悩んでも解決できないのも、事実ではある。
どこかでほっとしたのだろう、思い悩むべき頭が回らない。
彼の瞼が下がりつつあるのを見て、孔蔵が言う。
「お、薬湯が効いてきたな。篭どの、一回寝た方がいい。寝て起きたら、毒も抜けるだろ」
この眠気には、先ほどまでとは違い、誘う柔らかさと安堵感があった。眠気にも色々あるのだと、篭は頭の隅で変に感心する。
色々な言葉を思い浮かべたが、良い言葉が出てこない。
「孔蔵、おやすみ」
それだけを辛うじて口にすると、篭は目を閉じ、今度こそ意識を手放した。
*
雨巳は、怒っていた。
ついでに疲れている。
あと一歩で籠原十馬を生け捕りにできたのに、來が余計な横槍を入れたせいで、彼女達は獲物を逃した。しかも面が割れてしまったので、もう二度と同じ手は使えない。
鬼を二匹も持つ十馬を生け捕りにするのは至難の業だと、彼女は認識している。もし力ずくでとなれば、殺すより捕らえる方が難しい。あの坊主も十馬と合流してしまった今、彼女が十馬を生け捕りにすることは、ほぼ不可能である。
それに、彼女は蛇を二匹も失った。
地面の上に座り、揺れる焚火の炎を眺めながら、雨巳は溜め息を吐いた。
森の深い闇の中は、旅籠の座敷部屋より、彼女にとってはよほど気の休まる場所である。
焚火の向こう側で、來がこちらに背を向けて寝転がっている。
小石を拾うと、來の背に投げつけた。
「おい、大馬鹿野郎」
來はちらりと振り返ると、拗ねたような目で彼女を見遣った。
「何だよ」
「あんたのせいで、獲物逃がしたよね。このままじゃ連中、太畠越えて瑞城領に入っちまうわな」
「じゃ、その前に片づけりゃいいじゃねえか」
「阿呆。自分で出来もしねえ仕事を、よくもまあそんな簡単に言えるな」
「十馬を殺っちゃまずいのかよ。本体をやれるなら、俺だって負けねえ」
「まずいから、亥宮と苦労して芝居打ってたわけよ。あんたが台無しにしたやつな。手ぶらで帰って、あんたと二人で獄送りならともかく、韋駄天の面目潰すことになる」
「なんで、あんな老犬に拘んだよ」
単純な問いには、悪意も深意もない。
雨巳はまた、溜め息を吐いた。
「わかんねえなら、黙ってな。大人にゃ大人の事情があんのよ」
不可解そうに眉を寄せた青年は、しかし話題を変えることにしたようだった。
「で、どうすんだよ。万策尽きたんだろ。手ぶらで帰るしかねえんじゃねえの」
「簡単に言いやがるね、お子様は。こういう時も、大人は無い知恵絞らなきゃなんねえのよ。こうなったら、比良目んとこ行って拝み倒すくらいしかねえかもね」
來は振り子のように、勢いよく起き上がって胡坐をかいた。
「比良目って、今は瑞城にいんだろ?」
青年は身を乗り出している。釣り目の奥に、興味の明かりが瞬いた。
「んん。しかし、昔の誼ってもんがあるからね」
「誼ねえ」
「そいつをお借りしてみるしかねえわ」
そこで、來は地面の上に寝かせていた長刀を掴んだ。
雨巳は、それを睨みつける。
「あんたは、帰んな。あんたが一人で抜けて戻っても、お咎めなしだろ。それよかこっちゃ、今度こそ手前のお守はご免だよ。ついてくるってなら、蛇千匹使ってでもあんた食い殺してやるかんね」
來は唇を曲げて黙り込むと、がちゃりと音を立てて長刀を地面の上へ置いた。
困った餓鬼だと言うつもりで、ふんと、雨巳は鼻息を吐いた。
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