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追手
第17話 追われる鬼は
しおりを挟む天は秋晴。松の並ぶ野原の向こうに、時折水平線が覗く。
篭は歩きながら、両腕を広げた。
風が彼の顔や指先を撫でてゆく。
その風に乗るための翼はなく、ただ襤褸の小袖が揺れている。
草鞋を履いた二本の足が、彼を前へと運んでゆく。
彼の二十歩ほど後を、宋十郎と孔蔵が歩いている。
正直なところ、篭は孔蔵が苦手だった。
最初に出会った時に殴られかけたし、酒臭かったのも嫌だったし、体も声もでかいからか、何となくそばにいても威圧感があって居心地が悪い。何より触ると火傷するかもしれないときては、わざわざ近くに寄ってゆく理由は、今のところ彼には皆無である。
ところで鎌倉を出てからというもの、孔蔵は喋り続けている。
最初は延々と、自分の生い立ちや身の上について話していた。
それがここへ来て、聞き手つまり宋十郎の、反応の貧しさを咎める気になったようだった。
「宋十郎どの、聞いてます?」
前を向いたまま、宋十郎は笠を被った頭を頷かせる。笠は湫然寺でもらったものである。
「じゃあ何か言ってくださいよ」
少し沈黙したあと、宋十郎は返した。
「何を返せと」
「そりゃ、何か感想とか、相槌とか。俺らはこの先しばらく一緒に旅するんですよ。会話は大事でしょう」
「では、何故大事なのか聞いてもいいだろうか」
「そりゃ、仲良くやりたいからですよ。遊びに行くわけじゃないのは知ってますけど、楽しくやったって御仏も和尚も怒らんでしょう」
「なるほど」
「そうですよ。だから、あんたも何か喋ってくださいよ。武士って別に、皆あんたみたいなわけじゃありませんよね」
「当然、武士も色々だと思うが……、私の仕事は長として、家を守って領民の生活を豊かにしてゆくことだ。上手くやることは必要でも楽しくやることは必須ではない。どちらかというと今は体力を温存したいので、楽しくやりたいなら前を歩いている男を相手にしてはどうかと思うが」
そこで篭がちらりと振り返ると、ちょうど彼の方へ視線を向けた孔蔵と目が合った。
慌てて逸らす。
背後から孔蔵の声がした。
「物怪ですよね」
「だが、人の姿をしていて人の言葉を話す点では、今のところ人と変わりない。恐らく楽しくやりたいと思っている点では、私よりあちらのほうが孔蔵どのに近いと思うが」
「でもほら、俺どう見ても嫌われてますよ」
篭はぎくりとしたが、聞こえないふりをして歩き続けた。
「今のところ、あの者に好かれるのは老人か子供だけだ。話し掛けるうちに、親しみも増すのではないかと」
「話し掛けるっても……あんたらは、普段何を話してるんですか」
「別段何も。私たちは、黙って歩くだけだ。孔蔵どのは退魔の経験が豊富なものと思うが、物怪と言葉を交わしたことはあまりないのか」
「ええ、あまりないですね。魔物にゃ喋らない奴もいるし、お喋りするのは和尚の仕事で、俺は大体、ごっつい奴を退治するのが専門でしたから」
「先の晩のような?」
「いや、あそこまで妙な……厄介なのは、初めて見ましたよ。京の何たら和上ってのに会うまでは、もうあの……特にあんたの兄貴と白夜叉は出すなって、和尚も言ってましたね」
「呼び出さなければ、出ないものだと思いたいが」
二人の視線が背中に刺さるのを感じる。
篭は知らぬふりをしたまま、歩き続けた。
飛ぶ鳥の影を追って目を上げる。
野原の向こうの深い青色の上に、小さな島が浮かんでいた。
*
雨巳は松の並ぶ尾根を走っていた。崖下には海岸が続いている。
岩を飛び、小さな谷を越えて、凡そ人間には不可能な速度で進む。幼少の頃から訓練を受けた忍でなければ、このように走ることはできない。
三人組の男たちは、彼女の後方をのろのろと歩いているはずだ。
崖の向こうの浜辺に建つ、赤い大鳥居を見据えた。
海岸沿いに小さな町があり、その浜辺のそばには離れ島が浮かんでいる。離れ島へ続く参道に建つ鳥居が、今回の相方と落ち合う場所となっていた。
山を下り、やっと速度を落とした。旅人のような顔をして街道へ入り、続いて町の中へ足を進める。
弦ノ島の大鳥居付近は、参詣の旅人や、その客入りを当て込んだ小さな屋台でそれなりに賑わっていた。
松の木陰で休む旅人たちの中に知った顔を見つけて、雨巳はそちらへ近付いてゆく。
待ち人は、華やかさのある小袖を着て艶やかな黒髪を結い上げた、美しい女だった。
亥宮は彼女の顔を見ると、赤いふっくらとしたくちびるで、にっこりと微笑んだ。
「雨巳、久し振り」
豊かな髪で重そうな頭を傾げると、白い項が襟元から覗く。
雨巳は片手を軽く振って応えた。
「ん。叢生はどうよ」
「いいわよ。いいっていうのは、お館さまに悪い知らせは何もないし、あたしの生活も快適ってこと」
「そうみたいよね」
ふふふ、と亥宮は笑った。雨巳は早速用件を切り出した。
「今日のはちいと厄介かもよ」
「いいわよ。たまには厄介もないと、腕が鈍っちゃうもの」
「仔細聞いてるか?」
「人を探してるってとこだけ。ね、歩きましょ」
確かに、ひとところに留まって話すのは賢くない。誰が余計なことを耳にしないとも限らない。
亥宮はすぐそばで餅を売っていた屋台の男に、笑顔を向けて小さく手を振ると、下駄の足で歩き始めた。男は満面の笑みで手を振り返す。
「なんぞ、もらったわけ」
同じように歩き始めた雨巳が問うと、亥宮は手に持っていた餅を半分千切って、差し出してきた。
「ええ。退屈そうに待ってたら、あたしの話し相手になってくれて、ついでにお餅をくれたのよ」
「便利よなぁ」
餅を受け取りながら雨巳が言うと、亥宮はうふふと笑った。
「で、仕事の話だけども」
歩きつつ食べ物を咀嚼する合間に、雨巳は話す。
「今東から、若い男が三人歩いてきてる。お館さまのご命令は、そのうちの一人、籠原十馬を生け捕ってこいってことなんだと。亥宮は黒鬼の話、聞いてるか?」
桜貝のような指先で餅を千切りながら、亥宮が頷いた。
「知ってる。韋駄天とこの洋平をやったのって、黒鬼でしょう。で、黒鬼の正体は籠原十馬」
ふと、喉に押し込んだ餅が食道を逆流してくるように感じた。しかし雨巳はそれを顔に表さず、話し続けた。
「ん、話が早えわな。で、その籠原十馬、ここしばらくは深渓の寺に隠れてたんだけど、なんかあったか出てきたのよ。黒鬼を封じるんだか殺すんだか、京にいる術者を訪ねるらしい。で、当の十馬は隠伏中になんぞあったのか、ぼけて自分が黒鬼だってこともお館さまの名前もとんと忘れちまってるわけ。言うこと為すこと五つの餓鬼と変わんねえから、こいつは大した問題じゃねえのよ。ただ、一回空獺が小突いたら凶鬼呼び出しよったから、そこは気を付けねえといけねえけどね」
「つまり、いじめないように連れてこいってことね。確かにかえって厄介だけど、五つの子供と同じなら、お菓子をあげたらついてくるんじゃない?」
亥宮は弓形の眉を上げつつ、冗談のように言った。雨巳は続ける。
「面倒なのは、お供が二人いることな。深渓から十馬を連れ出したのは籠原宋十郎で、今も一緒に歩いてる。もう一人、昨日から鎌倉の坊主もくっついてきて、こいつは親切で兄弟を護衛してやるようだけど、こっちも随分腕が立ちそうだからどうしたもんかなと」
そこまで言い切ると、雨巳は餅の最後の一片を、口に押し込んだ。
亥宮は首を傾げる。
「宋十郎は、籠原の今の当主ね。好みと弱みは?」
「まあ弱みったら、実家のお家騒動くらいかね。若ぇのに石みたいな堅物だから、金にも情にもぶれそうにねえのよ」
「ふうん。それじゃ、坊主のほうは?」
「そっちは、昨日聞いて回ったとこだと、地元じゃ結構有名なちんぴら小僧って話だったわ。寺で育てられたから一応坊主って体だけど、昼間は町外れで与太者どもと相撲取ったり酒食らったりしてたらしい。侠気はあるけど暴れもんだからって、坊主をかわいがってた和尚も手焼いてたみてえね。ただ、退魔師としては大したもんらしくて、生半可な妖物なら素手で捻り殺すって言ってた奴もいたな」
いつの間にか餅を完食していた亥宮は、そこまで聞いて満足そうに頷いた。
「坊主の方は、あたしで何とかできそうね」
雨巳は怪訝とも取れる表情で、亥宮の横顔を見遣った。
「なに、忍法色仕掛けか? 古典的でねえ? 坊主が衆色だったら?」
彼女の言い様に、亥宮は眉を顰める。
「効くものは効くのよ。坊主は若いんでしょ? 男好きだったら、かえって相撲なんて取れないんじゃない」
「そういうもんかね」
「そういうもんよ。多分」
「じゃ、乗っかろか。武士のほうはどうする?」
「どうせ、考えてあるんでしょ」
「まあ、金で人をわんさと雇うかね。もとより三対二でこっち分が悪ぃんだし」
二人は単調に頷き合う。
詳しい話を詰めながら茶でも飲むかと、手近な暖簾を探しながら、通りを進んでいった。
*
もうじき日が中天に届く。
相変わらず篭は、宋十郎と孔蔵の二十歩前を歩き続けていた。
喜代がいなくなり、彼の歩みは早くなった。半日歩き続けても、以前ほど疲れを感じない。
それでも、いくら肉体が辛かろうと、彼は喜代と一緒に旅を続けたかった。
一緒にいて楽しかったし、安心できたし、助けたいと思った。そして何より、喜代も同じ感情を返してくれたことが、嬉しかった。喜代は、彼にとって初めての友達だった。
ちらりと後方を振り返ると、孔蔵がまた何か話している。
若い坊主は体力が有り余っているのか、自己紹介を終えた後も、思い出したことを雑多に喋る。
「今夜の宿は、太畠ですかね。太畠は今じゃ鎌倉を凌ぐ東の都でしょ。俺の知り合いが、太畠の田原屋って旅籠で奉公してるんですよ」
孔蔵が言う太畠とは、この先にある叢生氏の主城とその城下町のことだろう。今日はそこまで進むのだと、宋十郎が言っていた。
お喋りは続く。
「そいつ、坊主だったのに漁師になって、漁師をやめた今は旅籠で下男をやってるんですよ。所帯を持ちたいって還俗して、漁師でだめだったんで、旅籠ならいろんな娘に出会えるんじゃってことだったのに、未だに独り身なんですよ。宿には女のお客さんだけじゃなく、芸妓のお姐さん方だって出入りするってのに」
宋十郎から反応がないため、坊主は武士を振り返った。
「宋どの、聞いてます?」
ゆるゆると、宋十郎は頷いた。
「ああ……、孔蔵どのは、それで、太畠に着いたらその知人と旧交を温めたいと、そういう話だろうか」
「いや、そういうわけじゃないんですけどね。最近そいつの噂を聞かないんで、とうとう嫁探しは諦めたのかなあと」
「なるほど」
何となく、宋十郎の目が遠い。孔蔵はお構いなしである。
「あ、そういや、宋どのには奥方がいるんですか。ご当主でそのお年なら、そうですよね」
宋十郎は端的に答えた。
「いる」
「どこの、何てお名前のお姫さまですか」
一瞬眉を動かしたが、宋十郎は答えた。
「伊奈姫という。有秦の、三蕊範親どのの娘だ」
孔蔵の疲れを知らない瞳が、妙に輝き始めた。
「お、三蕊家は知ってますよ! 範親公の四娘って鎌倉じゃちょいと有名で、特に二女の沙絵姫はまさに絵に描いたような美人だって。会ったことあります?」
宋十郎の目が、徐々に細くなってゆく。
「三蕊家には何度か出向いたことがあるので、お見掛けしたことはある。が、義姉上は伊奈が我が家へ来る前に三蕊を出られていたので、話したことはない」
「へええ。やっぱり美人でした?」
「巷の噂に興味はない。義姉上は既に他家の妻であるし、義弟の私は、論ずる立場にない」
「ええ? なんですか、宋どの。薄々感じちゃあいましたけど、あんたって何つうか……糞真面目? 言われたことありません?」
今や宋十郎の目は、半分くらいしか開いていない。
「どこかで申し上げたと思うが、私は一家の長だ。そのような話題は酒の肴には適当かもしれないが、家の中でかしましくばらまいても、せいぜい軋轢を生むだけだ」
「要は、奥方が嫉妬されるとか、そういう話ですか?」
なぜ孔蔵が瞳を輝かせているのか、なぜ宋十郎が不機嫌そうなのか、遠目に見ている篭には全く不明である。
宋十郎は答える。
「そんなことは言っていない。私の気が緩んでいては家全体が弛緩する。夫婦の不和は家全体の不和に繋がる。益は何もない。それだけだ」
今度は孔蔵が眉を上げた。
「確かに、そりゃあそうかもしれねえですけど……あ、伊奈姫って末のお姫さんでしたっけ? 伊奈姫も、かわいらしい姫君さまだって、聞いたことありますよ。おお、そうだ、おーい、篭どの!」
突然大声で名前を呼ばれ、先ほどから二人の会話を聞いていたにも関わらず、篭はびくりと跳び上がった。
「ちょい、ちょいこっち」
今まで口をきいたこともなかったのに親しげに手招きされて、それを無視もできず、篭は立ち止まった。自然と、二人が追い付いてくる。
「あんたも、伊奈姫さまは見たことあるんでしょう?」
所在なさげに突っ立っていた篭は、二人が近付いてくると、一緒に歩き始めた。
彼は頷く。
「あるよ」
「どうだった?」
聞かれて、篭は首を傾げた。
「どうって?」
孔蔵の瞳が、生き生きしている。
「かわいかった?」
「かわいいって?」
「美人だった?」
「美人って……」
ふうと、今まで聞いたことのない調子で、宋十郎が溜め息を吐いた。
「篭、お前は人間の美醜の区別などつかないだろう」
そう言われて、篭はやっと孔蔵の質問の意味を理解した。
「あー……うん……。でも、見た目が、好きな人と、そうじゃない人はいるよ」
孔蔵は諦めない。
「で、伊奈姫さまは、好きだった?」
彼はかっくりと頷いた。
「うん。優しそうで、好きだったよ」
それは、単純に事実である。ちなみに孔蔵の見た目は好きではないのだが、それは言わないほうがいいのだろう。
やっと満足したように、孔蔵は日焼けした顔を輝かせた。
「おー、そうか。へっへっへ、宋どの、羨ましいですなあ」
再び、宋十郎の両目が細められる。
唐突に、孔蔵が宋十郎の肩を叩いた。
「太畠着いたら一杯やりましょうよ。酒の一杯くらい、宋どのだって飲みますよね? 篭どの、あんたも人間やってるなら、一回くらい飲まなきゃ損でしょ。美味い酒を教えてやるから」
そして孔蔵は長い腕を伸ばすと、彼の肩まで叩こうとした。
篭は咄嗟に跳び退さる。火傷してはかなわない。
避けられた孔蔵が瞬きしている間に、宋十郎がここぞとばかりに言った。
「もうじき坂見川だ。孔蔵どの、渡し賃の用意はあるか。恐らく舟に乗ることになる」
前方には平野が広がり、小さな町がその一角を埋めている。
舟に乗ると聞いて、篭は期待を込め、先に見える町を見つめた。
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