6 / 78
深渓
第5話 美しい場所
しおりを挟む二度目の朝、篭は肌寒さで目覚めた。
目を開くと、掛け布団を蹴飛ばして床の上に転がっていた。
起き上がり、着崩れた浴衣姿で、しばらく呆然とした。
昨夜、宋十郎が去ったあと、妙なものを見聞きすることはなかった。もしかしたら上手く無視できていたのだろうか。そもそも、無視するとは何をすることだろうか。
その時、廊下を渡る足音がした。
よろめきながら立ち上がり、障子戸を開くと、膳を持って歩いてくる豊松が見えた。
「おはよう、豊松」
彼が笑うと、豊松も笑った。
「おはようございます、若さま」
*
食事と身支度を昨夜の復習を兼ねて終えると、豊松は篭を裏庭へ連れていった。
人気のない裏庭で、老侍は彼に木刀を渡し、握り方から姿勢、足捌きまで順に教えた。
初めは左右の手の区別もつかなかった篭は、言われた通りの動きを繰り返すうちに、剣の型を再現できるようになっていった。
生まれたばかりの赤子ではこうはいかない。十馬の体が動作を覚えているのだろうと、篭は思い始めていた。
昼時までには、豊松を相手に簡単な打ち合いをできるようになっていた。
篭は顎から汗を滴らせ、肩で息をしていた。
一方で豊松は、晴れやかに顔を輝かせた。
「若さま、流石でございますな! 一年眠って全部忘れてしまったお方とは思えません。十日続ければ、戦にだって出られるようになりますよ」
「そうかなあ」
戦には出たくないと思いつつ、彼は地面の上に座り込んだ。
笑顔の豊松が近付いてくる。
「若さま、このあとは乗馬でございますよ。水を持ってまいりますから、しばしお待ちくだされ」
「おれも行っていい?」
「いえ、私一人で行ってまいります」
そう言われて、篭は昨夜の宋十郎の言葉を思い出した。水のある場所には、他の家人がいるのかもしれない。
老侍は篭の木刀を受け取ると、建物の向こうへ歩いていった。
篭はしばらく裏庭で秋の木々を眺めていたが、ふと空を見上げた。
つい先日まで飛んでいた空が遠い。
両腕を伸ばしたが、それは翼ではない。
骨ばった人間の両腕の先にあるのは、羽毛もなければ鱗もない、奇妙な形の両手である。空を飛べないが、箸を使ったり刀を握ったりする。
その時、後頭部に視線を感じた。
振り返ろうとして迷う。鬼ならば、見てはいけない。
娘の声がした。
「義兄上」
彼は振り返った。
回廊に、伊奈が立っていた。侍女を連れておらず、一人だった。
「いな」
彼は慌てた。近付かぬよう宋十郎に言われているのに、まるで約束を守れていない。
「何をなさっているのですか」
丸い瞳で彼を見つめつつ、伊奈が言った。
「何も。空を見てた。伊奈は何してるの?」
「わたくしは、少し町へ出掛けるところです。義兄上も、一緒にいかがですか」
思わず篭は、首を振った。
「宋十郎が……、豊松も、」
「大丈夫です、豊松にも宋十郎さまにも、わたくしが伝えておきますから。それに本当は、貴方は義兄上でなく、篭というのでしょう」
柔らかく微笑みかけられて、篭は拒否の言葉を紡ぎ出せなくなってしまった。
「ええと、おれが鬼に憑かれてるのは知ってる? 危ないって、宋十郎が言ってたよね?」
「今は昼間ですから、大丈夫でしょう。お一人でいるほうが、妖が寄ってくるのではありませんか」
それは確かに真実であるように、彼には思えた。
反論できずに眉を下げた彼を見て、伊奈はにこりと笑った。
「大丈夫、その恰好のままで構いませんから、私のあとについてきてください」
そう言うと、伊奈は回廊の上を進み始めた。
篭が戸惑いながら立ち尽くしていると、伊奈は振り返った。
「篭さま、お早く」
名前を呼ばれ、彼はとうとう断ることができなかった。
草鞋を脱ぐのも忘れて回廊へ上がり、伊奈の背中を追いかけた。
篭を連れた伊奈を見て、家人たちは驚いているように見えた。
「義兄上と、町へ行って参ります。豊松と宋十郎さまには伊奈がそう申していたと伝えてください」
年嵩の侍に向かって伊奈はそう言うと、侍女二人を呼びつけ、門を出ようとした。
侍は明らかに戸惑った様子で、主の妻を追いかけてきた。
「お待ちください。伊奈さま。せめて護衛をお連れください」
「藤柾、心配には及びません。義兄上がご一緒なのですから。代わりに太刀を一振り、義兄上にお貸しください」
ますます戸惑った様子の藤柾は左右を見、結局、そばに立っていた少年に目配せした。
はっとした少年は腰に差していた刀を帯から抜くと、篭の前で跪き、それを差し出した。
篭は藤柾と同じくらい戸惑ったが、伊奈に頷きかけられて、恐る恐る刀に手を伸ばした。
「あの、ありがとう」
篭が太刀を受け取っている間に、伊奈は門の方を向いていた。
「では、行きましょう」
篭は伊奈に促され、彼女の隣を歩いた。
振り返ると、二人の侍女が離れて彼らのあとをついてくる。屋敷の塀は、もう遠かった。
道沿いに家々が並び、低く連なる屋根の向こうには畑があり、谷川と山が見える。
伊奈が言った。
「深渓は治安も良いし、小さな町です。外れへ行かなければ、何も危ないことなどございません」
道の先に続くのは、素朴で整然とした通りである。そこを行く人々も、質素ながら清潔な身なりの者ばかりだった。昨日遭った盗賊のような輩はいない。
落ち着きなく辺りを見回していた篭は、とうとう気になっていたことを口にした。
「あの……どこ行くの?」
「少し、町を歩くだけです。篭さま、貴方と二人でお話したいのです。お茶屋さんへ行きましょう。深渓には一つしかないのですけれど、おいしいお饅頭を出してくださいます」
何か食事をするらしいと察した篭は、あっさりと食欲に負けた。朝から体を動かして、ひどく腹が減っていた。
茶屋らしい店は、間口に暖簾を掛け、軒先に一つだけ床几を置いていた。
伊奈はその床几の上に腰を下ろし、隣に座るよう、篭に促した。
侍女たちは伊奈に命じられ、店の中へ入ってゆく。
すぐに店の中から店主らしき男が現れ、二人に中へ入るよう勧めたが、伊奈は丁寧に断った。
通りを行く人々も、時々彼らに視線を送るが、じろじろと見つめたりするわけではない。
長閑な通りを眺めながら、伊奈が言った。
「私が生まれ育った有秦は、大きな町でしたけれど、貧しい民が大勢いて、このように美しい場所ではありませんでした。以前の私はお屋敷から出たことも、出る日が来るなどと考えたことも、ありませんでした」
篭も、貧しい人間の集落を見たことがある。腹を空かせた者が路上で物乞いをしたり、他の者を傷つけてその食を奪ったりする。
「ここは、道端で寝てる人がいないね」
彼は言った。
通りを眺めながら、伊奈は続けた。
「亡くなった守十さまが整えて、今は宋十郎さまが必死で守っておられる町です。私は深渓へ来てから、以前のように華やかな着物は着られなくなりましたが、以前はこんなふうに、自分の足で出歩くこともできませんでした」
伊奈の言葉は、彼には難しかった。
華やかな着物が何を意味するのか、自分の足で出歩けないとはどういうことか、彼は知らない。伊奈も病気だったということでは、どうやらなさそうだ。
「ありはた……と深渓、伊奈はどっちが好き?」
彼が訊ねたところで、店主と女将が店の中から出てきた。それぞれ膳を捧げ持っている。
「お待たせいたしました」
床几の上に置かれた膳には、湯呑みの他に椀が二つ乗っていた。
篭は自分でした質問など早々と忘れて、箸を掴み上げた。
「ありがとう」
笑顔で彼が言うと、店主と女将は深々と頭を下げて、店の奥へ戻っていった。
箸の練習を数回繰り返した後、篭は早速、食べ物を口に運び始めた。
伊奈も彼の隣で黙々と食事を進める。
椀の中身が空になる頃、何かの合間を計ったように、伊奈が言った。
「篭さまは、本当に、義兄上だった時のことは覚えていらっしゃらぬのですね」
菜饅頭の最後の一片を口に入れた篭は、口を膨らませたまま頷いた。
「うん。でも、体は、十馬の動きを覚えてるよ。そうじゃなきゃ、箸も、こんなにすぐ使えなかったと思う」
「剣も、すぐに使えるようになりそうでしょうか」
「わからない……豊松は、あと十日練習したら、戦に出られるって言ったよ」
そこで、伊奈の目がどこか遠くを向いた。
「……あんなに生き生きとした豊松、わたくしは初めて見ました。義兄上の傅役ですから、やはり嬉しいのでしょう」
「もりやくって?」
饅頭を飲み下して訊ねると、伊奈は彼を見つめ返した。
この娘が時折こうして視線に込める意思のようなものを、篭は感じ始めていた。
しかしそれが何なのか、彼にはわからない。
「傅役は、教育係であり、ある意味では二人目の父のようなものです。義兄上がご病気の間、豊松はいつもどこか暗い顔をしていました」
返答に迷い、篭は箸の先を齧りつつ、曖昧に呟いた。
「そっか……」
気付くと、膳の上の椀は空になっていた。
彼は箸を置いて、手遊びに、すぐそばに置いていた太刀を掴んだ。
「あの、さっき言ってた、話したいことって?」
すると伊奈は手にしていた湯飲みを置いて、茶色い瞳でまた彼を見つめ返した。
「篭さまは、京へ行かれるのですよね」
彼は頷いた。
「うん。十馬の病を治しに行くよ。治ったらおれはどうなるかわからないけど、きっと十馬が戻ってくると思う」
「どうなるかわからないとは、どういうことでございますか」
何と説明したものかと、篭は首を捻った。
「ええと……おれはきっと、茂十に助けられなければ、死んで黄泉へ行ってた。だからきっと病が治って十馬が戻ってくれば、おれはそこへ行くのかな」
すると、伊奈の瞳が初めて、彼にもわかる感情を映した。痛みと悲しみだ。
「それは、……」
言いかけた後、しかし伊奈は何かを決意したように、もう一度唇を開いた。
「篭さま。京のお寺へ行かれたら、もう、戻らないでください」
突然向けられた言葉に、篭は絶句した。
「十馬さまがお戻りになる必要も、ございません。貴方は、そのままでいらっしゃってください」
黒い瞳が湿って見えた。涙の膜のようだった。
戻らないでくれと、なぜ伊奈はそんなことを言うのだろう。
そして彼は、宋十郎の言葉を思い出した。
「宋十郎が、伊奈は十馬を嫌いだって、」
口にする気はなかったのに、気付くと声になって言葉が流れていた。
しかし彼が言い終える前に、伊奈の声が被さった。
「十馬さま、姉様を覚えておいでですか」
おれは十馬じゃない、彼はそう思ったが、目の前の伊奈の形相を見て、彼は声を発することができなかった。
「波留のことです。貴方の妻となって死んだ」
篭はぎくりとした。
よくわからないが、その話は聞きたくなかった。体が強張った。
「貴方が、殺したのです」
伊奈の目から、一筋だけ、涙が零れ落ちた。
篭は感覚が失せるほど手元の太刀を握り締めていることに、自分でも気付かなかった。
茶色の瞳から、目を逸らすことができない。
瞳の虹彩が、魔物の口のように見えた。魔物の口は、底のない闇のように見えた。恐らく鬼はこういう場所に棲むのだろうと、彼の頭のどこかが考えていた。そして伊奈に鬼を見せたのは、恐らく十馬なのだろう。
何か言わなければ、理由もわからないまま彼はそう考え、しかし口の中が乾ききっていた。
必死であがき、掠れた声が発された。
「……ごめん」
そう口にした途端、なぜか彼の瞳からも、涙が溢れてきた。
胸の奥で何かが引き裂かれていた。痛い、と感じた。鋭い痛みが、胸を刺している。
伊奈の目から、二粒目の涙が流れることはなかった。
しばらく彼を見つめていた娘は、ふとその視線を外して、通りの方を向いた。
「篭さま、最後だと思うので、お話しします」
淡々と、娘の声がこぼれた。
「私は、姉様を殺した十馬さまが憎うございます。憎しみは、恐ろしいものです。けれど、もっと恐ろしいのは、私はそれでも、十馬さまのことが嫌いではないのです。貴方を恐ろしいと感じるのに、貴方がお戻りになったことが、豊松のように、嬉しいのです。私の申していることの意味などご存じなくて結構ですから、京へ行ったら、ここへは戻らないでください」
そして再び、娘は彼を顧みて、言った。
「お約束ください」
いつの間にか、篭は床几から立ち上がっていた。全身が冷たく凍り付いているのに、心臓だけが恐ろしくやかましく脈打っている。
彼は、そんな約束はできない。彼は茂十の望みを叶えたかったし、もう既に宋十郎と約束してしまっている。
何より彼は、目の前の娘のことが、今では恐ろしくて仕方なかった。
「ごめん」
干乾びた声で繰り返した。
篭は後退り、そして踵を返して逃げ出した。
目覚めた初めの晩のように、彼は恐怖に駆り立てられていた。
伊奈の言葉の意味はわからなかったが、恐らくこういうことだ。十馬のいるところでは、誰もが死人か鬼になってしまうのだ。
背後で彼の名を呼ぶ娘の声が聞こえたが、彼は振り返らずに走った。
*
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
女子高生は卒業間近の先輩に告白する。全裸で。
矢木羽研
恋愛
図書委員の女子高生(小柄ちっぱい眼鏡)が、卒業間近の先輩男子に告白します。全裸で。
女の子が裸になるだけの話。それ以上の行為はありません。
取って付けたようなバレンタインネタあり。
カクヨムでも同内容で公開しています。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました
フルーツパフェ
大衆娯楽
とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。
曰く、全校生徒はパンツを履くこと。
生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?
史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子
ちひろ
恋愛
マッサージ師にそれっぽい理由をつけられて、乳首とクリトリスをいっぱい弄られた後、ちゃっかり手マンされていっぱい潮吹きしながらイッちゃう女の子の話。
Fantiaでは他にもえっちなお話を書いてます。よかったら遊びに来てね。
13歳女子は男友達のためヌードモデルになる
矢木羽研
青春
写真が趣味の男の子への「プレゼント」として、自らを被写体にする女の子の決意。「脱ぐ」までの過程の描写に力を入れました。裸体描写を含むのでR15にしましたが、性的な接触はありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる