月の啼く聲

真田

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深渓

第5話 美しい場所

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 二度目の朝、ろうは肌寒さで目覚めた。
 目を開くと、掛け布団を蹴飛ばして床の上に転がっていた。
 起き上がり、着崩れた浴衣姿で、しばらく呆然とした。
 昨夜、宋十郎そうじゅうろうが去ったあと、妙なものを見聞きすることはなかった。もしかしたら上手く無視できていたのだろうか。そもそも、無視するとは何をすることだろうか。
 その時、廊下を渡る足音がした。
 よろめきながら立ち上がり、障子戸を開くと、膳を持って歩いてくる豊松とよまつが見えた。
「おはよう、豊松」
 彼が笑うと、豊松も笑った。
「おはようございます、若さま」







 食事と身支度を昨夜の復習を兼ねて終えると、豊松は篭を裏庭へ連れていった。
 人気のない裏庭で、老侍は彼に木刀を渡し、握り方から姿勢、足捌きまで順に教えた。
 初めは左右の手の区別もつかなかった篭は、言われた通りの動きを繰り返すうちに、剣の型を再現できるようになっていった。
 生まれたばかりの赤子ではこうはいかない。十馬とおまの体が動作を覚えているのだろうと、篭は思い始めていた。
 昼時までには、豊松を相手に簡単な打ち合いをできるようになっていた。


 篭は顎から汗を滴らせ、肩で息をしていた。
 一方で豊松は、晴れやかに顔を輝かせた。
「若さま、流石でございますな! 一年眠って全部忘れてしまったお方とは思えません。十日続ければ、戦にだって出られるようになりますよ」
「そうかなあ」
 戦には出たくないと思いつつ、彼は地面の上に座り込んだ。
 笑顔の豊松が近付いてくる。
「若さま、このあとは乗馬でございますよ。水を持ってまいりますから、しばしお待ちくだされ」
「おれも行っていい?」
「いえ、私一人で行ってまいります」
 そう言われて、篭は昨夜の宋十郎の言葉を思い出した。水のある場所には、他の家人がいるのかもしれない。
 老侍は篭の木刀を受け取ると、建物の向こうへ歩いていった。

 篭はしばらく裏庭で秋の木々を眺めていたが、ふと空を見上げた。
 つい先日まで飛んでいた空が遠い。
 両腕を伸ばしたが、それは翼ではない。
 骨ばった人間の両腕の先にあるのは、羽毛もなければ鱗もない、奇妙な形の両手である。空を飛べないが、箸を使ったり刀を握ったりする。
 その時、後頭部に視線を感じた。
 振り返ろうとして迷う。鬼ならば、見てはいけない。
 娘の声がした。
義兄あにうえ
 彼は振り返った。
 回廊に、伊奈いなが立っていた。侍女を連れておらず、一人だった。
「いな」
 彼は慌てた。近付かぬよう宋十郎に言われているのに、まるで約束を守れていない。
「何をなさっているのですか」
 丸い瞳で彼を見つめつつ、伊奈が言った。
「何も。空を見てた。伊奈は何してるの?」
「わたくしは、少し町へ出掛けるところです。義兄上も、一緒にいかがですか」
 思わず篭は、首を振った。
「宋十郎が……、豊松も、」
「大丈夫です、豊松にも宋十郎さまにも、わたくしが伝えておきますから。それに本当は、貴方は義兄上でなく、篭というのでしょう」
 柔らかく微笑みかけられて、篭は拒否の言葉を紡ぎ出せなくなってしまった。
「ええと、おれが鬼に憑かれてるのは知ってる? 危ないって、宋十郎が言ってたよね?」
「今は昼間ですから、大丈夫でしょう。お一人でいるほうが、あやかしが寄ってくるのではありませんか」
 それは確かに真実であるように、彼には思えた。
 反論できずに眉を下げた彼を見て、伊奈はにこりと笑った。
「大丈夫、その恰好のままで構いませんから、私のあとについてきてください」
 そう言うと、伊奈は回廊の上を進み始めた。
 篭が戸惑いながら立ち尽くしていると、伊奈は振り返った。
「篭さま、お早く」
 名前を呼ばれ、彼はとうとう断ることができなかった。
 草鞋を脱ぐのも忘れて回廊へ上がり、伊奈の背中を追いかけた。

 篭を連れた伊奈を見て、家人たちは驚いているように見えた。
「義兄上と、町へ行って参ります。豊松と宋十郎さまには伊奈がそう申していたと伝えてください」
 年嵩としかさの侍に向かって伊奈はそう言うと、侍女二人を呼びつけ、門を出ようとした。
 侍は明らかに戸惑った様子で、主の妻を追いかけてきた。
「お待ちください。伊奈さま。せめて護衛をお連れください」
藤柾ふじまさ、心配には及びません。義兄上がご一緒なのですから。代わりに太刀を一振り、義兄上にお貸しください」
 ますます戸惑った様子の藤柾は左右を見、結局、そばに立っていた少年に目配せした。
 はっとした少年は腰に差していた刀を帯から抜くと、篭の前で跪き、それを差し出した。
 篭は藤柾と同じくらい戸惑ったが、伊奈に頷きかけられて、恐る恐る刀に手を伸ばした。
「あの、ありがとう」
 篭が太刀を受け取っている間に、伊奈は門の方を向いていた。
「では、行きましょう」

 篭は伊奈に促され、彼女の隣を歩いた。
 振り返ると、二人の侍女が離れて彼らのあとをついてくる。屋敷の塀は、もう遠かった。
 道沿いに家々が並び、低く連なる屋根の向こうには畑があり、谷川と山が見える。
 伊奈が言った。
深渓みたには治安も良いし、小さな町です。外れへ行かなければ、何も危ないことなどございません」
 道の先に続くのは、素朴で整然とした通りである。そこを行く人々も、質素ながら清潔な身なりの者ばかりだった。昨日遭った盗賊のような輩はいない。
 落ち着きなく辺りを見回していた篭は、とうとう気になっていたことを口にした。
「あの……どこ行くの?」
「少し、町を歩くだけです。篭さま、貴方と二人でお話したいのです。お茶屋さんへ行きましょう。深渓には一つしかないのですけれど、おいしいお饅頭を出してくださいます」
 何か食事をするらしいと察した篭は、あっさりと食欲に負けた。朝から体を動かして、ひどく腹が減っていた。

 茶屋らしい店は、間口に暖簾を掛け、軒先に一つだけ床几しょうぎを置いていた。
 伊奈はその床几の上に腰を下ろし、隣に座るよう、篭に促した。
 侍女たちは伊奈に命じられ、店の中へ入ってゆく。
 すぐに店の中から店主らしき男が現れ、二人に中へ入るよう勧めたが、伊奈は丁寧に断った。
 通りを行く人々も、時々彼らに視線を送るが、じろじろと見つめたりするわけではない。
 長閑のどかな通りを眺めながら、伊奈が言った。
「私が生まれ育った有秦ありはたは、大きな町でしたけれど、貧しい民が大勢いて、このように美しい場所ではありませんでした。以前の私はお屋敷から出たことも、出る日が来るなどと考えたことも、ありませんでした」
 篭も、貧しい人間の集落を見たことがある。腹を空かせた者が路上で物乞いをしたり、他の者を傷つけてその食を奪ったりする。
「ここは、道端で寝てる人がいないね」
 彼は言った。
 通りを眺めながら、伊奈は続けた。
「亡くなった守十もりとみさまが整えて、今は宋十郎さまが必死で守っておられる町です。私は深渓へ来てから、以前のように華やかな着物は着られなくなりましたが、以前はこんなふうに、自分の足で出歩くこともできませんでした」
 伊奈の言葉は、彼には難しかった。
 華やかな着物が何を意味するのか、自分の足で出歩けないとはどういうことか、彼は知らない。伊奈も病気だったということでは、どうやらなさそうだ。
「ありはた……と深渓、伊奈はどっちが好き?」
 彼が訊ねたところで、店主と女将が店の中から出てきた。それぞれ膳を捧げ持っている。
「お待たせいたしました」
 床几の上に置かれた膳には、湯呑みの他に椀が二つ乗っていた。
 篭は自分でした質問など早々と忘れて、箸を掴み上げた。
「ありがとう」
 笑顔で彼が言うと、店主と女将は深々と頭を下げて、店の奥へ戻っていった。
 箸の練習を数回繰り返した後、篭は早速、食べ物を口に運び始めた。
 伊奈も彼の隣で黙々と食事を進める。
 椀の中身が空になる頃、何かの合間を計ったように、伊奈が言った。
「篭さまは、本当に、義兄上だった時のことは覚えていらっしゃらぬのですね」
 菜饅頭の最後の一片を口に入れた篭は、口を膨らませたまま頷いた。
「うん。でも、体は、十馬の動きを覚えてるよ。そうじゃなきゃ、箸も、こんなにすぐ使えなかったと思う」
「剣も、すぐに使えるようになりそうでしょうか」
「わからない……豊松は、あと十日練習したら、戦に出られるって言ったよ」
 そこで、伊奈の目がどこか遠くを向いた。
「……あんなに生き生きとした豊松、わたくしは初めて見ました。義兄上の傅役もりやくですから、やはり嬉しいのでしょう」
「もりやくって?」
 饅頭を飲み下して訊ねると、伊奈は彼を見つめ返した。
 この娘が時折こうして視線に込める意思のようなものを、篭は感じ始めていた。
 しかしそれが何なのか、彼にはわからない。
「傅役は、教育係であり、ある意味では二人目の父のようなものです。義兄上がご病気の間、豊松はいつもどこか暗い顔をしていました」
 返答に迷い、篭は箸の先を齧りつつ、曖昧に呟いた。
「そっか……」
 気付くと、膳の上の椀は空になっていた。
 彼は箸を置いて、手遊てすさびに、すぐそばに置いていた太刀を掴んだ。
「あの、さっき言ってた、話したいことって?」
 すると伊奈は手にしていた湯飲みを置いて、茶色い瞳でまた彼を見つめ返した。
「篭さまは、京へ行かれるのですよね」
 彼は頷いた。
「うん。十馬の病を治しに行くよ。治ったらおれはどうなるかわからないけど、きっと十馬が戻ってくると思う」
「どうなるかわからないとは、どういうことでございますか」
 何と説明したものかと、篭は首を捻った。
「ええと……おれはきっと、茂十に助けられなければ、死んで黄泉よみへ行ってた。だからきっと病が治って十馬が戻ってくれば、おれはそこへ行くのかな」
 すると、伊奈の瞳が初めて、彼にもわかる感情を映した。痛みと悲しみだ。
「それは、……」
 言いかけた後、しかし伊奈は何かを決意したように、もう一度唇を開いた。
「篭さま。京のお寺へ行かれたら、もう、戻らないでください」
 突然向けられた言葉に、篭は絶句した。
「十馬さまがお戻りになる必要も、ございません。貴方は、そのままでいらっしゃってください」
 黒い瞳が湿って見えた。涙の膜のようだった。
 戻らないでくれと、なぜ伊奈はそんなことを言うのだろう。
 そして彼は、宋十郎の言葉を思い出した。
「宋十郎が、伊奈は十馬を嫌いだって、」
 口にする気はなかったのに、気付くと声になって言葉が流れていた。
 しかし彼が言い終える前に、伊奈の声が被さった。
「十馬さま、姉様あねさまを覚えておいでですか」
 おれは十馬じゃない、彼はそう思ったが、目の前の伊奈の形相を見て、彼は声を発することができなかった。
波留はるのことです。貴方の妻となって死んだ」
 篭はぎくりとした。
 よくわからないが、その話は聞きたくなかった。体が強張った。
「貴方が、殺したのです」
 伊奈の目から、一筋だけ、涙が零れ落ちた。
 篭は感覚が失せるほど手元の太刀を握り締めていることに、自分でも気付かなかった。
 茶色の瞳から、目を逸らすことができない。
 瞳の虹彩が、魔物の口のように見えた。魔物の口は、底のない闇のように見えた。恐らく鬼はこういう場所に棲むのだろうと、彼の頭のどこかが考えていた。そして伊奈に鬼を見せたのは、恐らく十馬なのだろう。
 何か言わなければ、理由もわからないまま彼はそう考え、しかし口の中が乾ききっていた。
 必死であがき、掠れた声が発された。
「……ごめん」
 そう口にした途端、なぜか彼の瞳からも、涙が溢れてきた。
 胸の奥で何かが引き裂かれていた。痛い、と感じた。鋭い痛みが、胸を刺している。
 伊奈の目から、二粒目の涙が流れることはなかった。
 しばらく彼を見つめていた娘は、ふとその視線を外して、通りの方を向いた。
「篭さま、最後だと思うので、お話しします」
 淡々と、娘の声がこぼれた。
「私は、姉様を殺した十馬さまが憎うございます。憎しみは、恐ろしいものです。けれど、もっと恐ろしいのは、私はそれでも、十馬さまのことが嫌いではないのです。貴方を恐ろしいと感じるのに、貴方がお戻りになったことが、豊松のように、嬉しいのです。私の申していることの意味などご存じなくて結構ですから、京へ行ったら、ここへは戻らないでください」
 そして再び、娘は彼を顧みて、言った。
「お約束ください」
 いつの間にか、篭は床几から立ち上がっていた。全身が冷たく凍り付いているのに、心臓だけが恐ろしくやかましく脈打っている。
 彼は、そんな約束はできない。彼は茂十しげとみの望みを叶えたかったし、もう既に宋十郎と約束してしまっている。
 何より彼は、目の前の娘のことが、今では恐ろしくて仕方なかった。
「ごめん」
 干乾びた声で繰り返した。
 篭は後退り、そして踵を返して逃げ出した。
 目覚めた初めの晩のように、彼は恐怖に駆り立てられていた。
 伊奈の言葉の意味はわからなかったが、恐らくこういうことだ。十馬のいるところでは、誰もが死人か鬼になってしまうのだ。
 背後で彼の名を呼ぶ娘の声が聞こえたが、彼は振り返らずに走った。



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