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深渓
第3話 郷を訪う
しおりを挟む人間とは不便なものだ。飛ぶことができない。
篭は宋十郎の駆る馬に一緒に乗り、籠原家の屋敷へ向けて街道を進んだ。
宋十郎の背に張り付いて馬上で弾み続けるのは、馬に慣れない篭には苦行のようなものだった。
降りて歩きたいと訴えたが、それでは日が暮れてしまうと宋十郎は言った。
「しかし、馬が疲れてきている。少し休むか」
そう言うと宋十郎は手綱を引いて速度を落とし、馬から降りた。
篭も宋十郎の助けを借りて馬から降りたが、地面に着地するなり膝から崩れ落ちた。
「大丈夫か」
宋十郎は彼が立ち上がるのも手伝った。
「おれの体がうまく動かないのも、もしかして鬼の病かな」
不安げにぼやくと、宋十郎は首を振った。
「いや、長いこと寝たきりだったから手足が萎えているだけだろう。昨夜はよくあの距離を出歩いたものだ」
宋十郎は篭を立たせると、街道の脇に広がる林の中へ馬を連れて進んでゆく。
篭も落ち葉を踏みつつそれを追った。
「どこ行くの?」
彼が問うと、宋十郎は答えた。
「この先に小川がある」
実際に、少し進んだ場所には細い川と、池とも言えない小さな水溜まりがあった。宋十郎はそこで馬に水を飲ませ、篭もそこで水を飲んだ。
ふと水面近くを飛ぶ蜉蝣を見かけ、篭はほとんど無意識に手を伸ばしていた。
羽虫はするりと、彼の指先を躱して飛んでゆく。
呆然と羽虫の姿を目で追っているうちに、ひどい空腹を感じていることに気付いた。彼は昨日目覚めてから、水しか口にしていない。
その時、背後で落ち葉を踏む音を聞いた。
振り返ると、木々の向こうから四人の男が近づいていた。汚れた身なりをしている。
いつの間にか宋十郎は馬の手綱を離し、腰の太刀に手を掛けていた。
それを見て篭は事態を察した。男たちは盗賊だ。
「お武家さま、馬と荷物と刀と着てるもんを置いてきな。そしたら命は取らねえよ」
盗賊たちも、それほど立派でないにしろ、それぞれ鉈や刀を手にしている。篭は武器を持っていない。四対一ではあまりに分が悪いのを、わかって言っているのだろう。
しかし宋十郎は男の声など聞こえないかのように、黙って刀を抜いた。盗賊たちを見たまま言う。
「馬を連れて走れ」
それを聞くなり、盗賊たちが武器を振りかざして走り込んできた。
「行け!」
宋十郎の声に弾かれたように、篭は跳び上がって駆け出す。
馬の手綱に飛びつき、駆け始めていた馬に半ば引きずられるようにして走った。
二人が篭を追い、二人が宋十郎に斬りかかってきた。
宋十郎は一人目の刀を刃で受け流すと、続けざまに振り下ろされた鉈を刃で弾く。盗賊たちが体勢を崩している隙に、身を返して剣を構え直した。
相手が手強いとわかって、盗賊たちは視線を交差させる。
じりじりと間合いを測っていた刀の男が、一歩踏み出し斬りかかってきた。
もう一人がほぼ同時に動いたのを視界の端に捕らえながら、宋十郎は男の刀を再度受け流し、流した刃を、鉈を振り下ろそうとしていた男の胴に叩き込んだ。
落ち葉の上を走っていた篭は、男の悲鳴を聞いた。
背後に盗賊の気配が迫ると同時に、「斬るな、着物がだめになっちまう」という声も聞いた。
「この餓鬼」という呻き声と共に、盗賊の一人が背後から掴みかかってきた。
篭は男ともつれ合いながら街道に出た。
馬の手綱を掴んだままだったので地面に倒れ込むのは免れたものの、大きくよろめいた篭に盗賊は殴り掛かってきた。
顔面を狙った一撃は咄嗟に避けたが、次に叩き込まれた腹への一撃は躱すことができなかった。手綱を離して体を折ったところに体当たりを食らい、今度こそ地面へ倒れた。
二人目が追い付いてきて篭の背中を蹴った。続いて一人目も彼の肩を踏みつけた。篭は悲鳴をあげる間もなく、自分を庇おうとして芋虫のように丸くなった。
ただしそれはいくらも続かず、盗賊たちは篭から離れた。剣を携えた宋十郎が走ってきたからである。
二人の盗賊は、若い剣士が返り血を浴びているのを見て仲間の敗北を悟ったらしく、全力疾走で逃げ去っていった。
「大丈夫か」
刀を鞘に収めてから、宋十郎は地面の上の篭を覗き込んだ。
「い、痛かったけど、大丈夫」
それよりも篭は、昨夜とはまた違った種類の恐怖を感じていた。隼に追われた時と同じで、心臓が跳ねている。こぶしや膝が震えるのを無視しようとしながら、彼は立ち上がった。
宋十郎は馬を追って駆けていったが、すぐに手綱を引いて戻ってきた。
「あの水場を使ったのは久し振りだった。賊の狩場になっていたとは知らなかった」
「……宋十郎、強いね」
赤い染みのついた着物や手を見ながら、篭は言った。宋十郎は頷くでもなく、淡々と答えた。
「武士として、必要な稽古をしている。十馬は、私より強かった」
それは、鬼になりかけていたから強かったということではなさそうだ。
篭は砂で汚れた自分の手の平を見つめた。
「行くぞ」
宋十郎が言った。
*
深渓と呼ばれる地が、籠原家の領地である。
そこにある集落は街道沿いの宿場町としてわずかな賑わいを見せてはいるが、ごく小さな町を外れれば、続くのは畑と牧舎と山ばかりである。
二人を乗せた馬は集落に入ると歩をゆるめた。
すれ違う領民たちは馬上の宋十郎を見ると、頭を下げて会釈をする。一方で、宋十郎の背後にいる篭を見て、目を丸くしている者もいた。
「十馬は、皮膚と熱の病で療養しているということになっていた」
周囲に人影が見えなくなった頃を見て、宋十郎が言った。
「元当主が鬼に憑かれたと聞かされたら領民がおびえる。家の者にも、病のことは伏せている」
篭は頷いた。
「だが、お前は正直、十馬の姿をしていても十馬に見えない。家人には、十馬は病で頭をやられたとでも伝えるしかない」
篭は迷ったが、結局頷いた。
「ただ、私の妻の伊奈にだけは、十馬の病について話していた。伊奈は十馬を嫌っていたし、妻をおびえさせたくない。伊奈には近付かないでほしい」
会ったこともない人に嫌われていると聞いて、篭は内心複雑だった。三度目に頷きながら、彼は言った。
「宋十郎はつま……奥さんがいるんだ?」
「当然だ。十馬にも妻がいたが、うちへ来て一年ほどで亡くなった」
それ以上篭は喋らなかった。伊奈には近付かないでおこうと思った。
「屋敷に長居はしない。旅支度をする数日の間だけだ。伯父上から伝え聞いた術者が近畿にいる。ここからは鎌倉へ上り、東海沿いに京へ向かって進むことになる。馬を使えば十日で着く」
十日ならばそれほど長い旅にはなりそうにないと、海を渡ったことのある篭は思った。
「ただ、先ほどのような有様では心許ない。この数日の間に、少なくとも剣の構え方と馬の乗り方くらいは覚えておく必要があるだろう」
そうして宋十郎は少し間をおいて、訊ねた。
「名前は、篭といったか」
篭は、四度目に頷いた。
「篭、家人はお前を十馬と呼ぶだろう。お前は誰のこともわからぬだろうし十馬のふりをする必要はない。自分が鳥だったという話をしてもかまわない。狂人だと思われるかもしれないが。ただ叔父上――守十どのを殺したのが十馬だという話、鬼の病やお前が見聞きした奇妙なものの話をしてはいけない。それを約束できないなら、私はお前を屋敷の中へ入れられない。約束するか?」
屋敷の中へ入れなければ旅の準備をできず、宋十郎について近畿の術者のところへ行くこともできない。
「約束する」
篭は五度目に頷いた。
*
先に人を遣って伝言させていたらしく、宋十郎がもう一人を連れて到着しても、屋敷の者たちは驚かなかった。
ただ誰もが、窺うようにちらちらと篭を見遣る。まるで、見てはいけないものを、好奇心や不安から盗み見るような態度だった。
門の中で馬を降り、彼は宋十郎に案内されて、屋敷の中へ入った。
庭に面した座敷に通され、そこで少し待つように言われた。宋十郎は家の者と話す必要があるという。
宋十郎が去り、一人で部屋に残される。
為すことなく、夕日に染まりつつある庭を眺めていると、秋の蜻蛉が迷い込んできた。
腹が鳴った。
篭は考える前に、草鞋も履かぬまま、回廊を横切って庭へ下りていた。
不規則な線を描きながら飛ぶ昆虫に近付いて無心に腕を伸ばす。
次の瞬間、彼の指は蜻蛉を掴んでいた。
捕らえた虫を口の中へ入れた。ばりりと咀嚼して、ふと横顔に刺さる視線に気付いた。
振り返ると、回廊に裾長の小袖を羽織った女が二人立っていた。
彼の口からはみ出している虫の翅と腹を見て、奥に立っていた女がひっと声をあげた。
手前の娘は茶色い瞳を丸々と目を見開き、しかし何か腹を括ったように、声を発した。
「お帰りなさいませ、……あにうえ」
娘は丸い輪郭に優しげな造りの顔をのせていたが、瞳に灯る光は強い。
ごくりと餌を飲み下しながら、篭は自分が失敗したらしいと悟った。恐らく人間は蜻蛉を食わない。
「あ、ありがとう……」
彼は笑いつつも、片手で口元を覆い、慌てて回廊の上へ飛び乗った。また背後の侍女がひっと声をあげる。
手前の娘が恐る恐る訊ねた。
「もうお加減はよろしいのですか?」
鬼の病のことは話してはいけないと宋十郎は言っていた。篭は口をもごもごさせながら答えた。
「うん、もう熱もないし、よくなったよ。でも、色々思い出せないんだ。……ええと、あんたは、誰?」
娘は大きな瞳を見開いて言った。
「伊奈でございます、義兄上」
*
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