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6 私と彼女と石のつゆざむ
#2(β版)
しおりを挟む妙齢の女と少女の二人連れがアクアリウムの仄暗い回廊を進む。
彼女たちの関係性は傍目には母と娘、姉と妹に見えなくもない、だが、その実態を見破るのは極めて困難であろう。
水族館には直通の往復バスで小一時間。道中では取り立てて語るような物語は起こらなかった。
最初に二人はクラゲ館へ向かった。
照明を落とした室内は、大小様々な形をした半透明の刺胞動物に満たされた水槽で、光源を吸収した展示物が幻想的に揺らめく。ワカはこの空間が嫌いではなかった。
うーん、うーん…、ふと隣を見る、クロエが分厚いガラスの向こうで天気図の台風みたいに回るクラゲを凝視して唸っていた。
「どうしました?大丈夫ですか」
「うーん、うーん」
「大丈夫ですか?クロエさん」
「……いやさ、あいつら、目ェ回さないのかなァ、って思って見てたら、アタシ自身の目が回っちまってさぁ、ちょっと肩貸してくんない?」
「バカですねえ、本当にもう」
ワカは呆れ顔で、彼女に肩を貸した、少し離れた通路脇の長椅子に並んで腰掛ける。
「あんがとよ」
そう言って微笑むクロエは優しげで、普段見せる粗野な態度とのギャップについドキリとしてしまう。彼女は時折こんな顔をする。
……うーん、うーん……。
「クロエさん、今度はどうしました?」
腰まで沈みそうになる柔らか過ぎるソファに身を沈めて
クロエが背を丸めて再び唸り始めた。
「ごめん……頼みたいことがあんだけど……」
「はい?」
「……背中さすってくんねぇか?」
なんか甘えてる…みたいで悪いんだけどさ……。
俯いて呟く彼女の顔は、薄暗い照明の所為でよく見えない、けれど心なしか照れ臭さそうだ。
「いいですよ」
ワカは大きな瞳の端を下げ、柔らかい表情で笑うと、クロエの小さな背中をゆっくりとさすってやった。
「……ありがとな、助かった」
「……いえ」
「なんでだろ?」
「何がです?」
「実はアタシ、他人に身体ふれられるのスゲえ苦手なんだけど、アンタに触れられるのは全然平気なんだ」
─どうしてだろうね。
クロエは下を向いたまま尋ねる。
「なぜでしょうね…」
ワカは間近にあるクロエの銀色のつむじを見つめながら答える。
その時だった。
『…だのじぐない』
何者かが一言だけ発して背後を通り過ぎた。ワカは咄嗟に振り返った。だが、声の主を特定できなかった。イルカショーの予定を告げる館内放送が流れる。
「うーん、充電が完了したって感じだぜ。さて、次はショーでも見に行くか」
復調したクロエの顔には覇気が戻っている。現金なものだ。
「あの、さっき変な声が……」
「ショーで水浴びても平気なようにアタシがポンチョ買ってやるよ♪」
「楽しくない、って」
「気にすんな、背中さすってくれたお礼だから」
クロエはワカの話をまったく聞いていない様子で、立ち上がると、忙しげに彼女の手を引いてクラゲ館を出た。
「イルカって、よく見るとすごく狂暴な歯並びしてますねえ」
イルカショーも山場、クルーに選ばれた、数人の子どもがイルカにアジだかイワシだかを餌付けしているところを見てワカが言った。
「お前も行けばよかったじゃねえか」
「イヤです」
「ナニ遠慮してんだよ」
「あのステージで最後にポラロイド撮影するでしょう?この時代にわざわざ。わたしはなるべくカメラに写らないようにしておきたいんです」
「なんでだよ?」
そ、それは…、ワカが珍しいことに言葉を濁した。直後。
『だのじい?』
またあの声だ。しっかり聞こえた。間違いなく数メートル以内に声の主は潜んでいる。
「…!?」
バッ!という音が聞こえそうな勢いでワカは後ろの客席を振り仰いだ。
ここは先頭の水かぶり、客席はよく見渡せる。しかし、やはり不審な人物は見当たらない。
「なんだよ急に?どうかしちま、きゃああ」
クロエが振り向き、すぐに悲鳴を上げた。ワカが驚いたのは彼女が突然抱きついてきたからだ。しかも強く。理由は至極単純、何頭かのイルカが勢い良く跳ね、その勢いで水飛沫が二人に襲いかかったからだ。
「…よそ見してんじゃあ、ねえよ」
「……ポンチョ着ておいて正解でしたね、それにても、きゃあって、バカみたいな悲鳴を上げないでください、目立つんですよ、なまじ容貌がいいから」
「な…!?オメーがいきなり後ろ向くから悪いんだろうが、目ぇつけてねえのかよ?後ろに」
「こほっ、こほっ、こほっ!」
「……あのォ~~~」
二人が言い合いをしていると、ショーのアシスタントの一人が割って入った。彼は穏やかな笑顔を貼り付け、二人に水族館のロゴが入ったタオルを手渡す。
「お客様にこの様な事を申し上げるのは誠に恐縮なのですが……、どうぞ最後までステージの方へご注目頂けましたら幸いですゥ~~~」
「「……すいませんでした!!」」
二人は深々と頭を垂れ、いそいそと濡れた髪や手足を拭いて、ショーを最後まで静かに観賞した。
お楽しみの時間が過ぎ、二人はカフェで寛いでいた。店内は率直に言って非常にいい雰囲気で、カウンターやテーブル席が適度な暗さの中、巨大水槽の青い光が揺らめいている。
「誰かに追跡されてる?」
クロエがワカの言葉を反復する。
「恐らくは……でも気配を感じるだけで姿は見えません」
「いつから?」
「クラゲ館で休憩した時…いえ、もしかしたら…入館した時からずっと、かもしれません」
ワカはアイスコーヒーフロートを口に運びながら答える。少しだけ苦い。
「……心当たりは?」
「一般人の軽犯罪者なら逆に安心なんですよ、なんだ、ああいう手合いか、って納得できますし」
「……」
「問題なのは追跡者が、助平なカス、とかじゃあなかった場合です」
「カス…何だって?」
クロエがメロンクリームソーダをストローでかき混ぜ、アイスクリームを溶かし、一口飲んで尋ねる。
「えーと……」
「そんな汚い言葉、使っちゃダメだ…オマエらしくねぇよ」
「……そうですね」
ワカは困り顔で微笑む。
「……実は、カスタードクリームって言おうとしたんです、なんと、ミュージアムショップに海の生物を象ったかわいいカスタード味の大福が売ってるみたいなんです」
「……前から言おうと思ってたんだけどさァ、お前、失言しても謝らないタイプだな?」
「もちろんです」
ワカはにっこりと満面の笑みを浮かべて答えた。
不思議な事にカフェとミュージアムショップではワカを尾行する何者かの気配は希薄になった。
二人はぬいぐるみを手に取りあーだこーだ言い合い、お揃いのキーホルダーを買った。このデザインは当館で研究している原始生物の核、だの、原始の海水結晶のレプリカ、だのと何故か店員に力説されてしまったが二人は曖昧に返事をしてやり過ごした。海の生き物を象ったカスタード大福は売り切れだった、以外と人気の商品らしい。
「本当にストーカーだったら、もうちょっとこう、グン!と距離詰めて来ると思うぜ」
「その点は同感です、でも向こうの目的が依然不明、という点が不気味です」
「あいだに挟まりてえんじゃねーの?エビサンドのエビみたいに」
クロエは冗談めかして言う。─ダメだ、まるで緊張感が無い……。ワカはふぅっと溜め息をつく。
ワカはうつむいたまま何も答えない。透明感のある横顔に、魚群の青い陰が落ちる。二人が足を止めて海底の石のように固まって数分…。
「……ゴメン、もしかして、魚雷踏んじまった?」
「…それを言うなら、地雷、ですよ」
ワカにはそれがクロエ流の気遣いだとわかった。彼女はどこまでも優しいのだ。
ふと、ワカは思った。はた目に自分達はどういう関係に映るのだろう?
姉妹にしては年が離れすぎているように見えるかもしれない。まさか親子?無難に親戚の子守りを任された従姉妹?どれもハズレ。なぜなら「私」は……。
「…おい、そろそろトンネルの出口だぜ、この禅問答みたいな話、ここで打ち切りにしようぜ」
クロエはカラッした顔でと微笑んだ。この話はここまで。彼女なりに話題に区切りをつけたのだろう、ワカの手を気持ち強めに握っていたクロエの力が緩む、その時だった。
『だのじい!』
ワカは斜め後ろから突き飛ばされ、バランスを崩した。そして倒れるまいとした拍子に前のめりに転倒してしまった。
全身に冷たくて酸っぱい液体がぶちまけられた───。
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