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5 I will kill this lamb (A)

#3

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男は焦っていた。
市電を降りしばらく歩いたところで、ズボンのポケットの中のスマートフォンが忽然と消えていることに気がついたからだ。

男は街の反社会的勢力の構成員でその日は勢力の経営する
<店>の売上金を回収する仕事にあたっていた。
<異形>は現実、サイバー空間を問わず全ての繋がりを破壊してしまった。
それもあり再び紙媒体、電子メモ、フロッピーディスクでのデータの受け渡しなど、いわゆるスタンドアローンな道具が普及する結果となった。
そのため持ち運び易さを極限まで追及した今日日のスマートフォンは薄くて小型で頑丈なカード型が主流となっている。
(流石に現在は市内に限って通信インフラは回復している。)

しばらく立ち止まり考えてみる。どうやら無造作にポケットに突っ込んでおいた端末を車内でスラれてしまったらしい。男は直感で物を考えるタイプだった。だから端末を盗んだ犯人にもすぐ目星がついた。車内をうろついていたり気のない
少女に間違いない。結論から言うと、少女は顔見知りらしき親子連れとじゃれあってから終点の一つ前の停車場で下車していった。

どうやら少女はキセルの常習犯でもあるらしい。クソッ!よりによって……!端末には顧客名簿が入力されている。顧客にはT市の議員、T大病院の次長クラス、T県警幹部などそうそうたる顔ぶれだ。
非常にマズい…。特に顧客名簿が流出するような事態にでもなれば男も、男の家族も危険に晒される……。
一刻も早く取り戻さなければならない。幸いなことに相手は子供だ。多少凄んでみせればすぐに手放すだろう。それで警察に通報されたとしても痛くも痒くもない。

「あら、シーガーさん」
K倉教会の前を通りかかった時、声を掛けられた。
「あっ、こんにちわ」
振り返るとそこには小さな紙袋を手にしたこの教会のシスターが立っていた。
「まあまあまぁまぁ……すごい汗、何か急ぎのおつかいかしら?」
「ええ、ちょっとね……」

男は特に敬虔な基督教の信者ではなかったが日曜の礼拝は欠かさずに参加していた。このシスターが美しく上品な雰囲気だから。というのも理由のひとつだ。

「──あの、先ほど来客に召し上がって頂いた余り物ですけどよかったらいかかですか?甘くて癒されすよ。……ほら、たぬきケーキ」
そう言ってシスターは清楚可憐なお顔をふわりと綻ばせる。
(……ああ、やっぱりかわいい)
こんな笑顔を見せられてはどんなワルもイチコロであろう。

この教会は組織との繋がりも深い。加えて彼女は組織の幹部の<お気に入り>らしい。まるで高嶺の花が汚されているようなくやしみを男は自覚していたが───今はそれどころではない。

「…ありがとうございます。では急ぎの用がありますので僕はこれで」
「待ってください!コイケさん」
紙袋を受け取り足早に立ち去ろうとする男の手を、突然
シスターが優しく握る。
「はい!?」
「これ」
目の前に差し出されたのは何の変哲もない黒いハンカチだった。

「使ってください。見つかるといいですね。さがしもの」
「あ、はい……」
それだけ言い残しシスターはくるりと背を向けると教会の敷地へ姿を消した。

「みなさ~ん、おはようございま~す」
見渡す限りゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミの山……。広大なゴミ山を背にジェミミの甘ったるい声が拡声器で響き渡る。
「は~い、ちゃんと皆配置についたわね。じゃあ今からチーム毎に別れて作業に取り掛かってちょうだい。みんな怪我だけはしないように~……それとぉ!」

(……)
昨日ジェミミはクロエ達に戸籍作成の<対価>に3つの交換条件を突きつけた。
1、土曜日早朝の<清掃活動>への二人の参加。
2、清掃の後、クロエ、ワカ、ジェミミを交えた三名で教会の大浴場、もとい近所の銭湯で汗を流すべし。
そして3つ目の条件はとても<奇妙>なものだった。
曰く、『異形を意のままに操る『調教師』と呼ばれる者がいるらしい。その者の謎を解いて、私に聞かせてください。あっ、それは別に明日じゃなくていいですよ、気が向いたらで構いません』とのこと。

ワカにとって条件3以外は多少の我慢でどうにかなりそうな試練だったが存外クロエには条件1のハードルが高かったようだ。休日に早起きすると、頭痛、めまい、吐き気に襲われるタイプらしい。今もワカの隣で端正な顔を自嘲するように歪めて、じーっ、とジェミミを睨みつけている。

「───それとぉ!作業の途中で変な事が起きたら必ずシスターに報告すること。危険ですからねぇ、労災下りませんからねぇ──はいっ!まずは3時間、頑張りましょう!」

ジェミミはピシャリといい放つとっとそれきり拡声器を下ろし、天幕内のアウトドアチェアに腰掛けてしまう。
…あれ?現場で指示を出すんじゃないの? そんなワカの疑問を他所に他の参加者たちはテキパキとそれぞれの持ち場に移動していく。

(それにしても…)
参加者は作業しやすい格好で来てくださいね、との事だったからてっきりジャージとかスウェットで作業するもんだと思ってたんだけど何でだ。何故か自分とクロエは着古された修道服を貸与された。ジェミミとお揃いの格好。これなら汚れても構わないだろう。しかし動きにくいことこの上ない。

「お姉はん達、ここははじめてか?あんぎょう、サボらんようにな」
見た目はワカと同じ頃の少女がこちらにやって来て釘を刺す。
ゴミの悪臭や埃から喉や肺を守るためだろうか。身なりに不釣り合いなシルクのマスクを着けている。
彼女、目だけは笑っているがマスクに覆われて本当の気持ちは読みとれない。

「「よろしくお願いします!」」
ペコリ、頭を下げる二人。
「よし。わてらは西地区担当や。ついてきて」
そう言うと少女は道案内するように何かのスクラップが黒い森のように散乱するゴミ山へと二人を誘った。

男は血眼になっててスマホを探し続けていた。ちなみに昨晩は一睡もしていない。
男はこと自分に降りかかる災いに関する直感は恐ろしく鋭かった。
昨日の時点で<スリ娘>が街外れの埋め立て処理場を根城にしている浮浪児の仲間だとアタリをつけていたのだ。
だが、今日に至るまで奴の尻尾を掴むことは出来なかった。子供というのは実に巧みに<盗み>をこなすものだ。昨夜も家に帰る途中、後ろから迫っていた自分の気配に気づいていたはずなのに最後まで逃げおおせてしまった。その直後にジョアンと出くわしたのだ。男の手は自然にポケットの中のお守り─黒いハンカチ─に触れ、あの時触れた<すべらかな>手の感触を思い出す。
(絶対に見つけ出してやる)
男は唇を強く噛み締めた。

つづく
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