私の邪悪な魔法使いの友人

ロキ

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シーズン1 魔法使いの塔

第六章 5)医務室の夜

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 医務室を出て、私は北の塔のバルコニーで風に当たっていた。
 アビュが一人で歌をうたっていた場所だ。
 しばらくそこで待っていたら、やがて彼女が私を呼びに来た。

 「いいよ、もう来ても」

 少し外に出て落ち着いたと思う。
 風が私の頭の中のモヤモヤをきれいに吹き飛ばしてくれた気がする。

 しかしアビュの後に続いて医務室に入り、ベッドに寝ているフローリアを見ると、またさっきの光景が甦ってきて頬が赤くなった。
 フローリアの胸が、彼女の呼吸と共に上下している。
 もちろん今は服を着ているが、その膨らみは生々しい。

 私はフローリアに引き寄せられる自分を我慢して、咳払いをしてから事務的な口調で医師に尋ねた。

 「よくなるんですか?」

 「はあ?」

 「彼女のこの症状、ちゃんと治るんですかって聞いたんです!」

 「えっ?」

 私は医者の耳元にまでしゃがみ込み、大きな声で怒鳴った。
 すると、どうにか通じたようだ。

 「ああ、治るかどうか聞いておるのか? それはわからない、何か悪質なものが彼女の身体の奥深くまで侵入しているような気がする・・・。まあ、いずれにしろ、あんなに酷い環境にいたら、どんなに身体が丈夫な戦士でも病に倒れるだろうな」

 ミオンおじさんは椅子に座り、緑色の草をすり鉢で摺り潰していた。「とりあえずこの薬で様子を見よう。出来れば朝までに、もう一度飲ませたほうがいいのだが」

 そう言いながら、老医師はその摺り潰した薬草の中に水を加えていった。
 そしてそれを自らの口に含んだかと思うと、やにわにフローリアに口移しで飲ませ始めた。

 私はミオンおじさんの診察の模様を何気なく見ていたのだけど、いきなりこんなことをし始めたのを見て、また激しく取り乱してしまった。
 手に何かを持っていたら、間違いなく落としていただろう。

 フローリアの小さな唇がかすかに開き、そこに老人のひび割れた唇が重なる。
 彼女の喉がゆっくりと動き、ときおりこぼれ落ちるようにして、緑色の液体が口の横を流れていった。

 老医師はそれを何度か繰り返した。

 「ねえねえ、羨ましいって思ってるでしょ?」

 私が呆然とその様子を見ていたら、何だか嬉しそうな様子でアビュが言ってきた。「だってキスと同じじゃん、あれ」

 「か、彼女は病気で倒れてるんだぞ」

 私はフローリアから目を逸らし、アビュをにらんだ。「少し不謹慎だ、もういい加減にしろよ」

 「はいはい」

 「おい、そこの君」

 ミオンおじさんが私に言ってきた。「わしはもう寝るから、後はあんたに任せたぞ。あんたも同じようにして薬を飲ませるんだ」

 「えっ? 同じようにして?」

 私はきっと驚きのあまり、間の抜けた声を発したんだと思う。
 そんな私に呆れたのか、アビュが押しのけるようにして言った。

 「いい、私がやるから」

 「まあ、誰がやってもよいが、ちゃんと夜明け前に、同じようにして薬を飲ましてやるんだ」

 「はい」

 「何かまた異変があったら、わしを起こせばいい」

 老医師は来たときと同じように、トボトボとした足取りで部屋に帰っていった。

 「はあーあ、今夜は眠れないのか」

 アビュが大きな欠伸をしながら言った。

 「眠りたかったら眠ってもいいぞ。薬の時間に起こすから」

 「いいよ」

 するとアビュが何とも嫌みな微笑みを浮かべながら言ってきた。「ボスの前で、安心して眠れないよ。寝ている間に、私の服を脱がせて裸を見ようとしてくるからかもしれないから」

 「馬鹿なことを言うんじゃないよ。そんなことするわけないだろ!」

 「そうかな、到底信用出来ないよ。だってフローリアさんの裸を見てたときのボスの視線、どんな切れ味の良い剣よりも鋭かったよ」

 「あ、あれは、少し驚いただけさ・・・」

 「まあ、そういうことにしておいてあげてもいいけど」

 本気で私という人間のことをそう思っているのか、それともただ面白くて私をからかっているだけなのかわからないが、いずれにしろアビュにあんな自分を見られたのは不覚だった。
 確かにあのときアビュがいなければ、私はフローリアの素肌からいつまでも目を逸らすことが出来なかったかもしれない。
 アビュが私にこういうことを言ってくるのも仕方がないだろう。

 しかし思い起こせば、私の胸に倒れ込んできたフローリアを抱きかかえていたときから、私はいつもの冷静さを完全に失していたかもしれない。
 あのとき非常事態に心は焦りながらも、フローリアの身体の柔らかさと、その体温のあたたかさに陶然となっていた。
 何ならずっとこのまま、フローリアを抱きかかえていたいと思っていたかもしれない。
 フローリアがあんなに苦しそうな息使いをしていなければ、私はいつまでそうしていたことか。

 「でもこの人、こんな奇麗だったっけ?」

 アビュは、さっきまでの私を嘲笑するような口調とはうって変わり、ふと見つけた蝶の美しさに心から感嘆するような声で言った。「この髪の毛、櫛を通すと凄く綺麗になるよ。それに今、顔色は悪いけど肌は白くて奇麗だし。まあ、ボスがおかしくなっちゃうのも仕方ないね」

 ねえ、そう思わない? 

 面倒だから何も応えないでいると、アビュが腹立ち気に声を上げた。

 「ああ、確かにそうだね」

 私は仕方なくそう言った。

 「でも同時に、何だか汚らしい・・・」

 アビュが真剣な面持ちで、少し悲しそうに言った。

 「ど、どういうことだよ?」

 確かに服は、汗や垢で変色しているくらい汚れているようだし、もしかしたらこの塔に拉致されてから水浴びすらしていないかもしれない。
 それどころかあのグロテスクな人たちと生活を共にしていたからか、彼らの腐臭も沁みついている。
 しかしそんなのは仕方ないではないか。

 「そういうことじゃなくて、この人の行動がよ」

 私が反論すると、アビュは少し苛立つようにして言ってきた。

 「確かに、あのグロテスクに改造された人たちも元は人間で、何の罪がないというのはわかるし、あの人たちが犠牲になったから彼女が助かったっていうのもは事実かもしれないけど。でも人間には我慢出来る範囲があるでしょ? この人の行動はそういうのを越えてるよ。凄いというより理解出来ない。いえ、それどころか生理的に何か気持ち悪い。なんて言うか、どんな人とでも平気で寝る娼婦みたい・・・」

 「・・・プラーヌスもそう言ってたな。君みたいなことを」

 私は冷たく言い放った。

 「えっ?」

 「彼も彼女のことが理解出来ないって言ってた。君が嫌いなプラーヌスと同意見みたいだね」

 アビュはプラーヌスが苦手なようだった。
 どうにもあの冷たそうな性格が耐えられないらしい。
 彼の前だと態度が硬くなるのはそのせいだ。

 「な、何よ、その言い方・・・」

 アビュは少し傷ついたように言った。「別に私、ここのご主人様のこと、前ほど嫌いじゃなくなったし・・・」

 「そう? だったら良かったじゃないか、怒ることじゃない」

 「な、何よ、・・・もう、いいわよ」

 アビュはそう言って私に背を向けた。
 私もアビュの怒りを和らげる気にもならず、そのままにしておいた。
 医務室の中はずっと沈黙が続いた。
 アビュはその空気に疲れたのか、「薬の時間になったら起こして」と不貞腐れたように言って、医務室のもう一つのベッドで横になった。
 しばらくして寝息が聞こえてきたので本当に眠ってしまったようだ。

 私は少し迷ったが、医務室を出て、北の塔のバルコニーで夜明けを待つことにした。
 私も眠気を抑えられそうになかったからだ。
 寝てしまうと、フローリアの薬の時間を寝過ごしてしまうかもしれない。
 だからといってこの部屋で眠気と戦うのも疲れる。

 それに二人の若い女性たちが無防備に眠っているのだ。
 もちろん眠っている間に何かおかしなことをする気などさらさらないが、変な緊張感や欲望に耐えるよりもバルコニーにいるほうがいい。

 バルコニーに向かう途中、私は大切なことを思い出した。そもそも私がフローリアの部屋を訪れた訳を。
 私はあの泣き声の正体を探りに行ったのだ。
 もしかしたらフローリアと、あのグロテスクに改造されたあの人たちから、何か少しでも情報を得られはしないかって。

 フローリアがこのような状態でそれどころではなくなったけど、いつか健康が戻れば改めて尋ねておかなければいけないことである。
 目下のところ彼女ぐらいしか、新しい情報を得られる相手はいないから。

 しかしフローリアに尋ねたからといって、何かわかるとも思えないが。
 むしろ、このような怪奇現象を解決することなど不可能だってことを、改めて認識させられただけのような気がする。

 そんなことを考えながら、待ち疲れるくらい待って、ようやく地平線が明るくなってきた。
 今夜の夜明けは南のようだ。気まぐれな太陽は南から空に昇り始めた。

 私は医務室に行ってアビュを起こし、彼女が例のやり方でフローリアに薬を飲ませたのを見届けたあと、自分の部屋に戻って眠ることにした。

 まあ、フローリアの様態はいくらか安静になったようだし、隣でアビュが寝ていればそれで事足りるだろう。
 いつまでも私が付き添っていても仕方ないという判断だ。

 ところでアビュを起こしたとき、彼女の寝起きは悪く、なかなか目覚めてくれなかったけど、しかし私は改めてアビュのさっぱりした性格に感心した。

 「なあに? もう朝なの?」

 「違うよ。薬を飲ませてあげないといけないだろ?」

 「あっ、そうだった。はい、やります」

 まあ、もしかしたら寝起きで、まだ頭が回っていなくて、その前に何があったのか忘れていただけかもしれないが。しかし先程の諍いを引きずった様子もなく、いつもの彼女に戻っていたのだ。

 そういうアビュを見てしまうと、さっきはあまりに冷たくし過ぎた気がした。
 そんなことを反省しながら私はすぐに眠りに落ちた。
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