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第四章 アリス――鏡の中の
アリス――鏡の中の(13)
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「記憶喪失……そうなんですね?」
「ん。まあ、そうだな」
あたしはすっかり空になった缶を手に、白兎さんのいるところまで歩み寄ります。
「おいおい。煙草の臭い、服についちまうだろうが。せっかく――」
「別に良いんです、そんなこと。だって……」
「だって――なんだよ?」
言えませんよ。
言えません。
何故だか急に、白兎さんがここからいなくなってしまう気がして怖かったから、だなんて。
がらん――ぶるり――空き缶をゴミ箱に捨てた拍子にまた寒気が。すると、白兎さんは着ていたジャケットを脱ぎ、あたしを包むように肩に乗せてくれたのです。
「別に良いんだろ? じゃあそれでも着とけ」
すん――白兎さんの匂い。
煙草臭くって、でも、不思議と心地よくって暖かくって。
「祥子ちゃんの言うとおりだ。医師の診断結果は、高次脳機能障害――つまるところ記憶喪失だよ。回復する見込みは無い。もうあの人は事故のことなんか覚えちゃいないし、それどころかこの俺が誰なのかさえまるで分からない状態だ。ただ一つ……奇妙なことが起こり始めた」
「奇妙なこと、ですか?」
「そうだ」
白兎さんは言います。
「さっき祥子ちゃんも見たとおり、この一〇年間、お袋はほとんどああやってぼんやり何処かを見つめているだけだ。何も言葉を話さないし、何も感じない。けれど、木曜日――決まって木曜日になるとお袋は、あの事故のあった夜に戻るらしい」
「事故の夜に……戻る……ですか?」
戻る?
それって一体……どういう意味なのでしょう。
「説明が難しいんだ、とても。俺だってすべてを理解している訳じゃない」
白兎さんは夜空を見上げ、考えを巡らすように、ぽり、と顎を掻きます。
「緊急病院からここの病院に移されてしばらくはお袋の様子を見に毎日通っていた。でも、絶望するまで時間はさほどかからなかった。理由は……さっき言ったとおりだ。高校生のガキには到底受け入れ難い、厳しすぎる現実だった。だが、二週間経ったある日、変化が起こった」
「変化……?」
「さすがに驚いたよ。それまで一言も喋ろうとしなかったお袋が、突然こう叫んだんだからな――安里寿は何処、何処にいるの!? 目の前に息子の俺がいるのもまるで目に入らない様子で、喉も張り裂けんばかりに何度も繰返し叫んでは、俺の肩に爪を立てて物凄い力で握り締めて揺さぶるのさ。正直殺される覚悟をしたくらい恐ろしかった。そして、俺はまた絶望した」
「白兎さんのこと……覚えてなかったからです?」
「そうじゃないさ。そうじゃない。そんなことはもうどうだって良かったし、その頃には諦めもついていた。そうじゃない、そうじゃないんだ……」
白兎さんは何度も首を振ってあたしの言葉を否定したのですけれど――寂しそうで。
「俺が絶望を感じたのは、どれだけ安里寿の名を呼ぼうともあいつはもうこの世に存在しない、という覆しようのない現実があったからだ。俺にできたことといえば、狂ったように安里寿の名を呼び、髪を振り乱し暴れ続けるお袋を無言で抱き締めることだった。それだけだった」
「大変……だったんですね」
「はははっ。もう昔の話さ」
いつもなら華麗に見事に騙して躱してくれる白兎さんなのに、なんて下手な嘘。
「でも、あの時はさすがに堪えたよ……。一週間、二週間と経つうちに、お袋の様子はますます酷くなってくる。木曜日が来るのが憂鬱だった。けれど、拘束衣なんて代物を着させるのは絶対に嫌だ、だから何があっても木曜だけは面会に行く。具合が悪かろうが意地でも行った。だが、やがて俺の方までだんだんおかしくなっていった。夜眠れなくなった。食欲がなくなった。他人と話せなくなった。誰かが悪口や噂を囁いている気がする。いつも誰かに見られているみたいで落ち着かない。誰にも相談できないし、もうどうしたら良いのか分からない……」
不思議なことに、そこで白兎さんは微笑んだのです。
「――その時だった。誰もいない家の中で電気も点けずに塞ぎ込んでいた俺の目の前に、安里寿が現れたんだ。俺は驚くより怖がるより、何よりもう一度会えたことが言葉にできないくらい嬉しかった。けれど、安里寿は哀しそうな顔をしてるんだ。やつれて細くなったようにも見えた。きっと俺が呪いをかけたことを知って、かんかんに怒ってやがるんだな、そう思った」
「安里寿さんの……ゆ、幽霊、なんです?」
「ところが、だ」
にやりと口元だけで笑ってみせた白兎さんは続けます。
「何度話しかけても返事が返ってこない。パクパクするだけでさっぱりだ。妙だと思ってよくよく見ると、それはなんと三面鏡に映った俺自身の顔だったって訳さ。だが、その時俺は閃いた。安里寿が死んだのは俺のせいだ、だったら人生の残り半分を安里寿にくれてやろうって」
確かに安里寿さんと白兎さんは良く似ています。
けれど、男女ゆえの違いは明確で。
「顔、髪型、ボディライン、話し方から歩き方、ちょっとした仕草や癖まで――俺は、俺の頭の中にある安里寿の記憶と思い出のかけらを必死で拾い集め、何とかそれを形にしようと悪戦苦闘した。それまで女装どころかメイクなんてしたこともなかった。けれど、それすら記憶と思い出から無理矢理捻り出して安里寿を再構築しようとした。気付けば一年が過ぎていた」
何も調べず、誰にも頼らず、たった一人で――。
「そして、俺はようやく『あたし』になった。辛うじて及第点ってレベルだったが、俺は早速あの夜と同じように三面鏡の前に座って鏡を覗き込んでみた。そうしたらさ……嘘だ、オカルトだと言われたって構わない、けれど、鏡の中に安里寿がいて、本当に話しかけてきたんだ」
果たしてそれは現実の出来事なのでしょうか。
「だが、安里寿の声は小さく掠れて途切れ途切れだった。だから俺はさらに『安里寿らしく』なるための研究と実践を重ねた。この頃から病院にも安里寿の姿で通った。その効果かお袋の容態も安定してきた。誰にも気付かれなかったよ。その一方で、俺は新たな悩みを抱えた」
「新たな悩み?」
「ああ」
白兎さんは真剣な眼差しで頷きます。
「どうしても俺が求める安里寿にあと一歩届かない。あと少しなのにもう俺には打つ手がなかった。今更誰かを頼ろうとしても、安里寿になった俺には相談できる相手がいない。それで、何となくインターネットの掲示板を巡回していた。その時だ、俺はある人物の噂を見つけた」
ぶるり――白兎さんのジャケットを貫いて、あたしを震わせる冷気が駆けた気がしました。
「彼は――いや彼女は、心理構築士と名乗っていた。ただそれは、ネット上のやりとりを見て直感的に女性だと俺がイメージしたってだけだ。本名も顔も分からない。それでも俺は何とか彼女とコンタクトを取ることに成功し、抱えている悩みを残らず打ち明けた。彼女は真剣に耳を傾け、いくつかのアドバイスをくれたんだ。おかげで俺の中の安里寿は飛躍的に成長した」
どうして寒気が治まらないのでしょうか。
どうして――何故?
「もはや完璧と言っても過言じゃないくらいだった。俺は俺であり、同時に『あたし』は『安里寿』でもあった。だが、それでもまだ何かが足りない、そんな思いが頭を離れなかった。俺が再び彼女に教えを乞うと、彼女はこう答えた――幸せになるには一つになるしかない、と」
どくん――その台詞はあたしの胸の鼓動をひときわ大きく脈打たせたのでした。
「……けれど、それだけはどうしてもできなかった。俺が安里寿にあげられるのは半分だけ。もしも俺が消えちまったら、甘えん坊で寂しがり屋の安里寿は悲しむに決まってる。だから俺は、もう安里寿を追い駆けることをやめた。同時に、彼女とのやりとりもそれきりになった」
じゃりっ――しゅぼっ――ふぅ。
「以前祥子ちゃんに言った台詞、まだ覚えてるか? 誰かがそう望む限り安里寿は確かに存在していなければいけない――そう、これが俺たちの望みと、安里寿がここに存在する理由だ」
火のついた煙草を口端に貼り付かせ、全ての告白を終えた白兎さんは最後にこう告げたのです。
「さて……綺麗な白百合の園を掻き分けて進んだ先に、祥子ちゃんは誰の罪を見たんだい?」
「ん。まあ、そうだな」
あたしはすっかり空になった缶を手に、白兎さんのいるところまで歩み寄ります。
「おいおい。煙草の臭い、服についちまうだろうが。せっかく――」
「別に良いんです、そんなこと。だって……」
「だって――なんだよ?」
言えませんよ。
言えません。
何故だか急に、白兎さんがここからいなくなってしまう気がして怖かったから、だなんて。
がらん――ぶるり――空き缶をゴミ箱に捨てた拍子にまた寒気が。すると、白兎さんは着ていたジャケットを脱ぎ、あたしを包むように肩に乗せてくれたのです。
「別に良いんだろ? じゃあそれでも着とけ」
すん――白兎さんの匂い。
煙草臭くって、でも、不思議と心地よくって暖かくって。
「祥子ちゃんの言うとおりだ。医師の診断結果は、高次脳機能障害――つまるところ記憶喪失だよ。回復する見込みは無い。もうあの人は事故のことなんか覚えちゃいないし、それどころかこの俺が誰なのかさえまるで分からない状態だ。ただ一つ……奇妙なことが起こり始めた」
「奇妙なこと、ですか?」
「そうだ」
白兎さんは言います。
「さっき祥子ちゃんも見たとおり、この一〇年間、お袋はほとんどああやってぼんやり何処かを見つめているだけだ。何も言葉を話さないし、何も感じない。けれど、木曜日――決まって木曜日になるとお袋は、あの事故のあった夜に戻るらしい」
「事故の夜に……戻る……ですか?」
戻る?
それって一体……どういう意味なのでしょう。
「説明が難しいんだ、とても。俺だってすべてを理解している訳じゃない」
白兎さんは夜空を見上げ、考えを巡らすように、ぽり、と顎を掻きます。
「緊急病院からここの病院に移されてしばらくはお袋の様子を見に毎日通っていた。でも、絶望するまで時間はさほどかからなかった。理由は……さっき言ったとおりだ。高校生のガキには到底受け入れ難い、厳しすぎる現実だった。だが、二週間経ったある日、変化が起こった」
「変化……?」
「さすがに驚いたよ。それまで一言も喋ろうとしなかったお袋が、突然こう叫んだんだからな――安里寿は何処、何処にいるの!? 目の前に息子の俺がいるのもまるで目に入らない様子で、喉も張り裂けんばかりに何度も繰返し叫んでは、俺の肩に爪を立てて物凄い力で握り締めて揺さぶるのさ。正直殺される覚悟をしたくらい恐ろしかった。そして、俺はまた絶望した」
「白兎さんのこと……覚えてなかったからです?」
「そうじゃないさ。そうじゃない。そんなことはもうどうだって良かったし、その頃には諦めもついていた。そうじゃない、そうじゃないんだ……」
白兎さんは何度も首を振ってあたしの言葉を否定したのですけれど――寂しそうで。
「俺が絶望を感じたのは、どれだけ安里寿の名を呼ぼうともあいつはもうこの世に存在しない、という覆しようのない現実があったからだ。俺にできたことといえば、狂ったように安里寿の名を呼び、髪を振り乱し暴れ続けるお袋を無言で抱き締めることだった。それだけだった」
「大変……だったんですね」
「はははっ。もう昔の話さ」
いつもなら華麗に見事に騙して躱してくれる白兎さんなのに、なんて下手な嘘。
「でも、あの時はさすがに堪えたよ……。一週間、二週間と経つうちに、お袋の様子はますます酷くなってくる。木曜日が来るのが憂鬱だった。けれど、拘束衣なんて代物を着させるのは絶対に嫌だ、だから何があっても木曜だけは面会に行く。具合が悪かろうが意地でも行った。だが、やがて俺の方までだんだんおかしくなっていった。夜眠れなくなった。食欲がなくなった。他人と話せなくなった。誰かが悪口や噂を囁いている気がする。いつも誰かに見られているみたいで落ち着かない。誰にも相談できないし、もうどうしたら良いのか分からない……」
不思議なことに、そこで白兎さんは微笑んだのです。
「――その時だった。誰もいない家の中で電気も点けずに塞ぎ込んでいた俺の目の前に、安里寿が現れたんだ。俺は驚くより怖がるより、何よりもう一度会えたことが言葉にできないくらい嬉しかった。けれど、安里寿は哀しそうな顔をしてるんだ。やつれて細くなったようにも見えた。きっと俺が呪いをかけたことを知って、かんかんに怒ってやがるんだな、そう思った」
「安里寿さんの……ゆ、幽霊、なんです?」
「ところが、だ」
にやりと口元だけで笑ってみせた白兎さんは続けます。
「何度話しかけても返事が返ってこない。パクパクするだけでさっぱりだ。妙だと思ってよくよく見ると、それはなんと三面鏡に映った俺自身の顔だったって訳さ。だが、その時俺は閃いた。安里寿が死んだのは俺のせいだ、だったら人生の残り半分を安里寿にくれてやろうって」
確かに安里寿さんと白兎さんは良く似ています。
けれど、男女ゆえの違いは明確で。
「顔、髪型、ボディライン、話し方から歩き方、ちょっとした仕草や癖まで――俺は、俺の頭の中にある安里寿の記憶と思い出のかけらを必死で拾い集め、何とかそれを形にしようと悪戦苦闘した。それまで女装どころかメイクなんてしたこともなかった。けれど、それすら記憶と思い出から無理矢理捻り出して安里寿を再構築しようとした。気付けば一年が過ぎていた」
何も調べず、誰にも頼らず、たった一人で――。
「そして、俺はようやく『あたし』になった。辛うじて及第点ってレベルだったが、俺は早速あの夜と同じように三面鏡の前に座って鏡を覗き込んでみた。そうしたらさ……嘘だ、オカルトだと言われたって構わない、けれど、鏡の中に安里寿がいて、本当に話しかけてきたんだ」
果たしてそれは現実の出来事なのでしょうか。
「だが、安里寿の声は小さく掠れて途切れ途切れだった。だから俺はさらに『安里寿らしく』なるための研究と実践を重ねた。この頃から病院にも安里寿の姿で通った。その効果かお袋の容態も安定してきた。誰にも気付かれなかったよ。その一方で、俺は新たな悩みを抱えた」
「新たな悩み?」
「ああ」
白兎さんは真剣な眼差しで頷きます。
「どうしても俺が求める安里寿にあと一歩届かない。あと少しなのにもう俺には打つ手がなかった。今更誰かを頼ろうとしても、安里寿になった俺には相談できる相手がいない。それで、何となくインターネットの掲示板を巡回していた。その時だ、俺はある人物の噂を見つけた」
ぶるり――白兎さんのジャケットを貫いて、あたしを震わせる冷気が駆けた気がしました。
「彼は――いや彼女は、心理構築士と名乗っていた。ただそれは、ネット上のやりとりを見て直感的に女性だと俺がイメージしたってだけだ。本名も顔も分からない。それでも俺は何とか彼女とコンタクトを取ることに成功し、抱えている悩みを残らず打ち明けた。彼女は真剣に耳を傾け、いくつかのアドバイスをくれたんだ。おかげで俺の中の安里寿は飛躍的に成長した」
どうして寒気が治まらないのでしょうか。
どうして――何故?
「もはや完璧と言っても過言じゃないくらいだった。俺は俺であり、同時に『あたし』は『安里寿』でもあった。だが、それでもまだ何かが足りない、そんな思いが頭を離れなかった。俺が再び彼女に教えを乞うと、彼女はこう答えた――幸せになるには一つになるしかない、と」
どくん――その台詞はあたしの胸の鼓動をひときわ大きく脈打たせたのでした。
「……けれど、それだけはどうしてもできなかった。俺が安里寿にあげられるのは半分だけ。もしも俺が消えちまったら、甘えん坊で寂しがり屋の安里寿は悲しむに決まってる。だから俺は、もう安里寿を追い駆けることをやめた。同時に、彼女とのやりとりもそれきりになった」
じゃりっ――しゅぼっ――ふぅ。
「以前祥子ちゃんに言った台詞、まだ覚えてるか? 誰かがそう望む限り安里寿は確かに存在していなければいけない――そう、これが俺たちの望みと、安里寿がここに存在する理由だ」
火のついた煙草を口端に貼り付かせ、全ての告白を終えた白兎さんは最後にこう告げたのです。
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