上 下
51 / 55
第四章 アリス――鏡の中の

アリス――鏡の中の(12)

しおりを挟む
 その日は朝から雨だった。
 忘れもしない。冷たい雨が降る夏の終わりのある木曜日のことだ。


「ねえ、行くんでしょ? 行くのよね、お墓参り?」
「俺は……行かない」
「ひょっとして……まだ怒ってる? 昨日のこと」


 俺はそれには答えずに、低く唸るような声を漏らしてベッドの上でごろりと背を向ける。


「具合が悪いんだ。吐き気がするし、痛い」


 具合が悪いんじゃないだろ、罰が悪いだけ。
 吐き気がするのは、守られ弱い自分自身に。
 しくしくと痛むのは、ちっぽけなプライド。


「えっ!? 大丈夫? もう熱計った? 痛いのはどのへん? 頭とかお腹とか――」
「良いって。寝てれば夜までには治ると思うから。だから、俺は行かない。行けない」
「そっか」


 その時あいつは寂しそうに呟いたんだ。

 いつもそうだった。
 甘えん坊で寂しがり屋の、黒づくめの不吉なアリス。


「じゃあ、代わりにあたしからママに伝えておくね。白兎はくとは家でお留守番するって」


 じゃあね――困ったように眉根を寄せた笑みを浮かべた安里寿ありすは控え目に手を振ってドアを閉める。俺はそれが妙にかんさわって仕方がない。あいつは――そう、あいつはきっと、俺が仮病をつかっていることも、墓参りに行きたくない本当の理由も分かってる。気付いてるんだ。



 糞っ、良い子ちゃんぶりやがって。



 俺は苛立いらだちささくれ立つ気持ちを押さえつけようと、ブランケットをすっぽりかぶったまま胎児のように身体を丸める。が、押さえ込もうと、隠そうとすればするほど頭の血管はどくどくと脈打ち、しまいにはずきずきとうずき出した。不満と不平が混じり合ううめきを飲み下し、息を殺して潜めば潜むほど胸のつかえは大きく育ち、しまいにはきりきりと胃袋を締め上げた。


「えっ? …………じゃあ…………そうね…………がいいわね」


 お袋の声が階下から途切れ途切れに聴こえてくる。ときおり相槌を打っているのはもちろん安里寿だ。あいつのことだ、当の本人が言うよりよっぽど上手く説明してくれることだろう。



 糞、糞、糞っ。

 こん、こん、こん。



「それじゃあ、ママとあたしの二人でパパに会ってくるね。具合、酷くなったら病院に――」
「行くって。子供じゃない。大丈夫だって言ったろ」
「うん。……ごめんね?」


 とんとんとん、と安里寿が小走りで階段を降りていく音がして、俺はようやっと息をついた。



 何だよ、ごめんね、って。

 ごめんね、置き去りで出掛けてってことかよ。
 ごめんね、子供扱いしちゃってってことかよ。



 じきセルの廻る音が響き、水溜まりを蹴り上げるようにしてエンジン音が遠ざかっていく。俺は締めきったカーテンの隙間からそれを見届けると、まだ降り止まない陰鬱にくらくけぶるにび色の空に視線を向けた。

 残ったのは――後ろめたさと罪悪感。
 残されたのは――俺ただ一人。

 すがるように差し伸ばした俺の手と指は、自然と覚えたての奇妙なサインを形造っていた。両手の親指と人差し指を合わせ、そこにできた三角形から遠い曇天どんてんを睨み付けて吐き捨てる。


「……全て糞ったれだ。優等生で偽善者のアリス。お前なんかこの世からいなくなればいい」





 ◆ ◆ ◆





「その日……安里寿とお袋は夜になっても帰ってこなかった。俺が吐き出した呪いどおりに」


 ぼつり、と呟いた白兎さんの声は、まるで老人のそれであるかのように皺枯しわがれていました。


「俺はいつの間にか眠っていたらしい。夢の中で俺は、騒々しい目覚ましの音の止め方が分からなくて部屋の中をうろつき回っていた。やがてその音の正体が、電話のベルだと気付いて仕方なく階段を降りて行った。が……まだ、止まない。溜息を吐いて受話器を取ることにした」


 ぶるり、あたしは唐突に襲ってきた寒気に身を震わせます。


「そうしたら、やけに平坦な男の声でこう言われたんだ――ご家族に、四十九院つるしいん祥歌しょうかさんという方はいらっしゃいますか、と。それは母です、そう答えた。男はひと呼吸置いてこう続けた――祥歌さんと同乗者の方が交通事故に遭われ現在〇〇救急病院に搬送されています、すぐ来ていただけますか、と。病院の住所も言われたが、もう俺にはまるで聴こえていなかった」


 同乗者・・・、という単語が妙に耳朶じだの中でひっかかりましたが、あたしは無言で頷きます。


「どうやってそこへ辿り着いたのか、正直俺はまったく覚えていない。タクシーに乗れたのか、行先を伝えられたのか、それすらさっぱり分からない。気付いたら集中治療室ICUの前にいた。分厚いガラスの向こう側に血塗れの女が横たわっていた。両脇に立つ男たちが言う。あれがお前の母親だ、と。俺は愕然としつつも、より優先度の高い質問をした――安里寿はどこだ?」



 じゃりっ――しゅぼっ――ふぅ。



「両脇に立ついかつい男の一人が済まなそうに身を縮こませてこう言った――検視解剖中なので、それが終わるまで同乗者には会わせることも帰すこともできない、と。もちろん納得いかなくて喰い下がった。同乗者なんてどうでも良いから安里寿に会わせてくれ、と。すると男はこう言ったのさ――会っても誰か分からないくらいに遺体の損傷度合が酷かったんです、と」



 はは。
 ははは――。

 白兎さんの感情に欠けた乾いた笑いがあたしたちを取り囲む闇に滲んで消えていきます。



「あとで聞いた話だ。俺はその直後、その警官に殴りかかったんだそうだ。だってそうだろ? 安里寿は『同乗者』でも『遺体』でもない。ちゃんとした安里寿って立派な名前があるんだ。けれど、なぜ警察の連中が揃ってそんな言葉を口にしたのか、あとになって俺にも分かった」


 白兎さんはジャケットの内ポケットから使い込まれた手帳を取り出すと、ページに挟まれていた一枚の古びた写真を探し出してあたしにも見えるようにかざします。


「……これが事故直後の写真。現場は見通しの良い直線道路。トレーラーと正面衝突、乗用車の助手席はぐしゃぐしゃだ。トレーラーの運転席も電柱に激突して跡形もなく潰れている。生存者はお袋だけ。そのお袋も衝突の衝撃で頭蓋骨が砕けて、脳の一部に甚大な損傷を負った」


 白兎さんが、ちょんちょん、と指先で指し示したのは額のあたり――前頭葉周辺でした。


「それでやっと分かった。どうして警察の連中があんな言い方をしたのか。それは、助手席に乗っていた人間が、果たして人間だったのかすら分からなくなっちまうほどのひどい有様だったからだ、って。検視解剖をしたのも身元が特定できなかったからだ、って。それが分かった」
「――っ!」
「けれど、どうしてそうなったのかは誰にも分からなかった。双方ともに通い慣れた道だったことが事情聴取から分かった。だが、事故当時は雨の勢いが一段と激しかったらしくってな。ワイパーをフル稼働させてもまともに前が見えなかったに違いない。どちらにもブレーキ痕は無し。きっと衝突寸前まで相手の存在に気付いてなかったんだろうな。そして――どんっ!」



 突如悪意を伴って飛び出したその音に耐え切れず、あたしは思わず目を閉じ耳を塞ぎます。



 なんて――なんてこと。
 あたしはがくがくとただ震えるばかりでした。



 じゃりっ――しゅぼっ――ふぅ。



「唯一の生き残りとなったお袋は、その時、その瞬間、そこで何が起こったのか知っている。だが……事故で負った頭部へのダメージは深刻だった。お袋は……過去の一切を失ったんだ」
しおりを挟む
感想 9

あなたにおすすめの小説

蠍の舌─アル・ギーラ─

希彗まゆ
ミステリー
……三十九。三十八、三十七 結珂の通う高校で、人が殺された。 もしかしたら、自分の大事な友だちが関わっているかもしれない。 調べていくうちに、やがて結珂は哀しい真実を知ることになる──。 双子の因縁の物語。

呪配

真霜ナオ
ホラー
ある晩。いつものように夕食のデリバリーを利用した比嘉慧斗は、初めての誤配を経験する。 デリバリー専用アプリは、続けてある通知を送り付けてきた。 『比嘉慧斗様、死をお届けに向かっています』 その日から不可解な出来事に見舞われ始める慧斗は、高野來という美しい青年と衝撃的な出会い方をする。 不思議な力を持った來と共に死の呪いを解く方法を探す慧斗だが、周囲では連続怪死事件も起こっていて……? 「第7回ホラー・ミステリー小説大賞」オカルト賞を受賞しました!

陽キャグループを追放されたので、ひとりで気ままに大学生活を送ることにしたんだが……なぜか、ぼっちになってから毎日美女たちが話しかけてくる。

電脳ピエロ
恋愛
藤堂 薫は大学で共に行動している陽キャグループの男子2人、大熊 快児と蜂羽 強太から理不尽に追い出されてしまう。 ひとりで気ままに大学生活を送ることを決める薫だったが、薫が以前関わっていた陽キャグループの女子2人、七瀬 瑠奈と宮波 美緒は男子2人が理不尽に薫を追放した事実を知り、彼らと縁を切って薫と積極的に関わろうとしてくる。 しかも、なぜか今まで関わりのなかった同じ大学の美女たちが寄ってくるようになり……。 薫を上手く追放したはずなのにグループの女子全員から縁を切られる性格最悪な男子2人。彼らは瑠奈や美緒を呼び戻そうとするがことごとく無視され、それからも散々な目にあって行くことになる。 やがて自分たちが女子たちと関われていたのは薫のおかげだと気が付き、グループに戻ってくれと言うがもう遅い。薫は居心地のいいグループで楽しく大学生活を送っているのだから。

学園の美人三姉妹に告白して断られたけど、わたしが義妹になったら溺愛してくるようになった

白藍まこと
恋愛
 主人公の花野明莉は、学園のアイドル 月森三姉妹を崇拝していた。  クールな長女の月森千夜、おっとり系な二女の月森日和、ポジティブ三女の月森華凛。  明莉は遠くからその姿を見守ることが出来れば満足だった。  しかし、その情熱を恋愛感情と捉えられたクラスメイトによって、明莉は月森三姉妹に告白を強いられてしまう。結果フラれて、クラスの居場所すらも失うことに。  そんな絶望に拍車をかけるように、親の再婚により明莉は月森三姉妹と一つ屋根の下で暮らす事になってしまう。義妹としてスタートした新生活は最悪な展開になると思われたが、徐々に明莉は三姉妹との距離を縮めていく。  三姉妹に溺愛されていく共同生活が始まろうとしていた。 ※他サイトでも掲載中です。

【第一部完結】保健室におっさんは似合わない!

ウサギテイマーTK
キャラ文芸
加藤誠作は私立男子校の養護教諭である。元々は、某旧帝大の医学部の学生だったが、動物実験に嫌気がさして、医学部から教育学部に転部し、全国でも70人くらいしかいない、男性の養護教諭となった、と本人は言っている。有名な推理小説の探偵役のプロフを、真似ているとしか言えない人物である。とはいえ、公立の教員採用試験では、何度受けても採点すらしてもらえない過去を持ち、勤務態度も決して良いとは言えない。ただ、生徒の心身の問題に直面すると、人が変わったように能力を発揮する。これは加藤と加藤の同僚の白根澤が、学校で起こった事件を解決していく、かもしれない物語である。 第一部完結。 現在エピソード追加中。

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

高校では誰とも関わらず平穏に過ごしたい陰キャぼっち、美少女たちのせいで実はハイスペックなことが発覚して成りあがってしまう

電脳ピエロ
恋愛
中学時代の経験から、五十嵐 純二は高校では誰とも関わらず陰キャぼっちとして学校生活を送りたいと思っていた。 そのため入学試験でも実力を隠し、最底辺としてスタートした高校生活。 しかし純二の周りには彼の実力隠しを疑う同級生の美少女や、真の実力を知る謎の美人教師など、平穏を脅かす存在が現れ始め……。 「俺は絶対に平穏な高校生活を守り抜く」 そんな純二の願いも虚しく、彼がハイスペックであるという噂は徐々に学校中へと広まっていく。 やがて純二の真の実力に危機感を覚えた生徒会までもが動き始めてしまい……。 実力を隠して平穏に過ごしたい実はハイスペックな陰キャぼっち VS 彼の真の実力を暴きたい美少女たち。 彼らの心理戦は、やがて学校全体を巻き込むほどの大きな戦いへと発展していく。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...