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第四章 アリス――鏡の中の

アリス――鏡の中の(5)

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「……はい? そしてその後どうなったか、ですって? それ、聞くんです?」



 今日は土曜日。天気は微妙な晴れ。
 只今の時刻、朝の九時三〇分です。



 もう一度言いますね。
 現在、朝の九時三〇分なのです。



 なのに、この前の埋め合わせをしたいから九時にウチまで来い、と呼び付けた張本人が寝ぼけまなこをけだるげにすりすりしている状況に若干苛立いらだちつつも、あたしこと嬉野うれしの祥子しょうこなかば時間稼ぎの目的で投げかけられた質問にいかにも面倒臭そうにそう返答したのです。

 この期に及んで、無理して急ごうが寝坊は寝坊だから罪は確定、変わらんだろう、と特段急ぐ素振りもなく、マイペースで淡々とモーニング・ルーティーンをこなしていく白兎はくとさんは言います。


「いや、だって気になるだろうが。腐っても他所様よそさまの大事なお嬢さんをお預かりした訳だし、ウチのペットが余計な手出ししたせいで、純潔に傷が付きでもしたらそりゃ一大事だからな」
「腐っても、っていう表現は、普通他人には使わないと思うんですけど」


 事務所で寝泊まりしているってのは本当だったんですね。っていうか、あたしがお手伝いに来る時間までは、いつもこんな混沌の極みたる光景が広がってるんでしょうか。いや、さすがにお昼頃までには片付けます……よね?


「それはいいとして。さっきから言ってるじゃないですか、何もありませんでしたよ、って」
「いやいやいや。あんだけ思わせぶりな誘い文句連発で、結局何もなかったなんてだな――」
「ですよね……あたしだって悪い夢だと思ったくらいですし」


 はぁ……と魂が漏れ出そうなほど長く息を吐き、あたしは虚ろな目を窓の方へ向けます。


「でも、あれだろ? お望みどおり『抱き合って眠れた』そうじゃないか?」
美弥みやさんにとってはそうなんでしょうね。かなり一方的に『抱かれた』だけですけど」
「お、おい……まさか、それってもしや……!」
もしや・・・もやし・・・もないですよ、もう」


 あたしはあまりにも差のある互いのテンションに一層げんなりしながら続けます。


「変な勘繰りしなくていいですから。ホントに文字どおり『抱かれた』だけなんですから。はぁ……何で教えてくれなかったんです? 美弥さんにあんな『抱きつき癖』があるだなんて」
「な……っ!? おま……っ! ししし知る訳ないだろ!?」


 意外にも顔を真っ赤にして金髪ツンツン頭を振る白兎さん。


「何で俺がみゃあと一緒に寝たことがある前提なんだよ!? あいつはあくまでペットだ!」
「? ペットと一緒に寝る人だって、フツーにいるんじゃないですか?」
「フツーのペットだったらな! みゃあはどう見てもフツーのペットじゃないだろうが!?」


 えと……。
自己言及うそつきのパラドックス』って哲学用語、ご存知ないんでしょうかね……。





 それはさておき。
 結局あの夜、何が起こったか、についてお話ししておきましょう。





 シャワーを済ませるのが『待ちきれなかった』美弥さんは、出て来るや否や髪を乾かす暇も与えずに、お借りしたローライズのショーツに白いシルクのルームウェアの上だけ羽織ったあたしを、半ば強引に真っ赤なカウチソファーへと引きずり込んで、んふ、と吐息を漏らしたのでした。


「え、えと……まだあたし、あちこち濡れてまして……」
「んふ。あたしも。濡れてる。ほら。ここ?」
「は? ……ぴゃあああああ!」
「んふ。ちょこ。かわい。ちゅ」
「へ? ……ぽぇえええええ!」
「んふ。ね。ちょこ。今日は。大変だったね」
「は、はい……。というか、そ、そこは……! あのぅ……」
「んふ。ちょこ。偉かった。良い子。良い子」
「そ、そんな……ひゃっ!? くすぐったい……ですぅ」
「んふ。ちょ……こ。ぎゅ……っ」
「ふぁあああああ! や、柔らかいですぅううううう!」
「ん……ふ。ちょ……こ……。すぅ……」
「えとえとえと! あたし、こういうの未経験なので!」
「すぅ……。すぅ……。むにゃ……」
「どどどどのようなご要望にも精一杯お応えする所存で……って。あの、美弥さん? もしかして寝てます? っていうか……この体勢で? 嘘ですよね冗談ですよね生殺しですよぅ!」


 そうして嬉野は、美弥さんにがっちりと抱きつかれた体勢で、ほぼ身動き一つ取れずに魅惑的でむせ返るほど甘苦しく官能的な肢体したいを零距離からただ眺めるだけ、というこの世の生き地獄に放り込まれた状態のまま、朝まで夢とうつつを行き来しながら一人悶々と過ごしたのでした。



 はい?

 触ったりくらいはできたんじゃないかですって?



 あの……ホント、冗談は止してください。あの巧みな組み方クラッチ、レスリングだったら向かうところ敵なしです。文字どおり指一本――は言い過ぎにしろ――動かせなかったんですってば。



 えと……。
 はい。嬉野、正直にここに懺悔します。

 おっぱいは何回か触りました。ふよん、って。

 本当にそう聴こえるんですよ。ふよん、って。





「なーんだ、そうなのか。頑張ってくれた祥子ちゃんへの御褒美、って思ってたんだけどな」


 かなりくたびれた毛布を畳んでしまい込み、それなりに身住まいを正してからようやく最後の仕上げにと鏡に向かって歯磨きをし始めた白兎さんは笑いを押し殺して言ったのでした。


「まったく、嘘ばっかり。っていうかですね、朝九時遅刻厳禁だとか言ってませんでした?」
「おいおいおい。そりゃあひどい捏造だ」


 白兎さんは手を止め、鏡越しに背後に突っ立ったままのあたしに不満げな顔を見せます。


「俺は『集合時間は九時だ』って言っただけだ。『異論は認めない』とも言ったが、『遅刻厳禁』ってのだけは絶対に言ってないぞ。なんたって、そもそもそんなの俺が守れないからな」
「そんなの自慢にならないですよ……まったくもう」


 念入りに歯を磨き、濡れた手で適当に髪を整えてから煙草を一本取り出して――ぺちん!――即座に手の甲を引っ叩かれた白兎さんは、渋々箱の中へとしまい込んで向き直ります。


「ったく、自分の事務所だってのに……。煙草の一本くらいケチケチするなよ、祥子ちゃん」
「そういう問題じゃありません! それよりも……もしかして白兎さんと出掛けるんです?」
「は? どういう――ははぁん。なるほど。安里寿ありすと出掛けられると思って期待してたのか」
「当たり前じゃないですか。あたしですよ?」
「迷惑かけたのは俺だからな。それにだ――」


 白兎さんは何かを言いかけ、思い直したかのように別の言葉に切り替えます。


「まあ、いいじゃないか。それとも俺だと不満だってのか?」
「そ、そりゃあ……まあ、不満です……けど」


 あたしがわずかに言い淀むと、白兎さんはちょっと面白がっているような顔をします。


「っていうか! も、もしそうだとしても! もうちょっとこう……そ、それなりの恰好を」
「ん? これか?」


 白兎さんは事も無げに自分の姿を見下ろします。いつもと同じ白いワイシャツに、いつもと同じ黒いベストとスーツパンツ。手にはポールハンガーからひったくった黒いジャケット。


「し、仕方ないだろ。衣装持ちの安里寿と違ってだな、俺は最小限主義ミニマリストなんだ。同じ物しか持ってないし、着ない。ちゃんとクリーニングだってこまめにしてるんだから問題ないだろ?」
「さっきまでそれ、着たまま寝てたじゃないですか……。はぁ……それでいいですよ、もう」
「よ、よし。じゃあ出掛けるぞ。ついてこい」


 ついてこい、って……。

 呆れたように溜息を一つつきながら、あたしはちょっぴりの期待を胸に後を追うのでした。
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