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第十一話 お手並み拝見
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しゅっ。
しゅっ。
(銀さんの字ってね――)
しゅっ。
しゅっ。
(ちっともうまかないんだけど、何処か味があってさ、あたしは好きなのよ)
黙々と硯で墨を磨る銀次郎の脳裏にふとよぎったのは、今は亡き妻、善子がいつか言っていた言葉だった。
「ったく。素直に褒めてくれりゃあ、男なんてモンは馬鹿みたいに喜んじまうってのにな」
それでも本人は決して認めないだろうが、銀次郎は実に嬉しそうな微笑みを浮かべていた。
「さて、これくらいでいいか」
墨と筆。
テーブルの上に置かれたその二つを目の前に、銀次郎は背筋を伸ばした。
すう。
すすす。
す。
「うーん……」
どうやらそれらしく書けたのだが、書いた本人がちっとも読めないので評価の下しようがない。
この世界の文字は銀次郎にはちんぷんかんぷんである。一応、何処から何処までが珈琲で、何処がグレイル鉄貨で――と、一通りゴードンに文字の説明はしてもらったものの、一杯、五枚という数字の部分までもが慣れ親しんだ日本語とは文字体系そのものが違ってしまっていて、皆目見当もつかない。
「弱ったな、こりゃ……」
からん。
その時、カウベルが鳴った。
「あんたがギンジローさんだね?」
良く通る女の声だ。
「ウチの旦那がご馳走になったんだって? 何だか済まなかったわね。ほら、これ」
肉感的な尻で店の扉を器用に押し退けながら両手で捧げ持ってきたトレイをもう一つのテーブルの上に置くと、掛けてあった清潔そうな布を取り払う。
「どうせ何も喰ってないだろって。何だか張り切ってこしらえてたよ。こいつはウチの自慢の一品なの。さあ、食べて頂戴!」
どうやらこの女性がゴードンの妻、シリルらしい。
胸元が大きく開いた足首まで丈のある深緑のワンピースは、胸も腰回りもずどんずどんとせり出していてスタイルがいい。というよりゴードンに似て肉付きが大変よろしい。栗色の長い髪をくるくるとまとめ、頭のてっぺんでお団子にしている。
だが、どうも銀次郎はいささか不躾に観察しすぎていたらしい。シリルはそばかす混じりの顔を顰めると、眉を聳やかして言った。
「あら、お腹減ってないの? それとも……あらやだ、あたしの恰好、何処か変?」
「い、いや。済まん済まん」
しどろもどろになるのは銀次郎の方である。
「じゃ、食べるわね?」
「ああ、頂くとしようか」
手早く硯と筆を片付けてしまうと、銀次郎はカウンターの奥で入念に手を洗う。
その間にシリルはトレイの上の料理をテーブルの上に丁寧に並べていた。恐らく店で出す時と同じ要領なのだろう、木製のナイフとフォークが料理の右隣に綺麗に整列している様を見て、感心すると同時にほっとしていた。箸がいいとまでは言わないものの、それがまだ少しは馴染のある食器だったからである。
「うむ。こりゃあ美味そうだ」
料理の方も同じくで、食べた経験はないものの、テレビや雑誌で見かけたことのあるような他所の国の郷土料理風、と言った品々が並べられていた。
中央に置かれた何とも香ばしい良い匂いが漂うパイ生地に包まれているのは魚だろう。ご丁寧に表面にはその形を模した飾りが施されていた。
さくり。
フォークで突くと、中からは色とりどりの季節の野菜とともに油ののった白身が姿を見せ、途端に銀次郎の腹が歓喜の悲鳴を上げ始めた。いろいろなことがあったせいで気付きもしていなかったが、すっかり腹ぺこだったようだ。
しばし、がつがつと無言で喰う。
隣にあったのは何とも懐かしい気持ちになるパン。銀次郎の記憶の中で一番近いのはコッペパンだろう。一口齧ると、ほわりと湯気の立つ生地は黒っぽい。ライ麦か何かだろうか。バターなどの添え物は何一つなかったが、そんな物は不要だった。ゆっくりと何度も噛み締めるたびに、じゅっじゅっ、と生地の奥の奥から旨味を凝縮したエキスが沁み出してくる。それが先行して銀次郎の胃袋深く潜入していた白身魚のパイ包みと真っ向からぶつかり合って、それはもう大変な騒ぎになっていた。
さらにその反対に置かれていたのはスープ。
見たところはさして取り上げるべき所も見つからないかのように見えたが、一口啜ってみたら目が丸くなった。色も薄く、表面には油一滴なく、具もほとんど見つからない。最初はただの白湯かと思ってしまったくらいの有様だ。だがどうだろう、一口含んだだけでとんだ勘違いをしでかした自分の惚けかかった頭を殴り付けたくなる衝動に駆られたほどだ。うっすらと塩味を利かせたそれは、銀次郎の引き出しの中にある物で一番近かったのは牛テールスープだ。
美味い。美味い。
それしか感想が出てこない自分の語彙の貧困さに嫌気が差す程に美味かった。複雑でかつ繊細極まりない味だ。それでいて野趣溢れる荒っぽさも感じ取れる。その二つを上手く手なずけて一つの皿の上にまとめ上げているのはさすがゴードンとその手並みに唸るしかなかった。
銀次郎対ゴードンお手製フルコースの一戦にそろそろホイッスルが鳴らされようとする頃、ようやっと銀次郎は目の前で何とも嬉しそうに自分を見つめている女性がいることに気付く。正直に言えば、彼女がいることをすっかり忘れてしまっていたのだった。
「――ご感想は?」
目が合い、んふ、と笑う。
「参った。降参だ!」
そう言って銀次郎は照れたように笑ってみせた。
それを見て、シリルは小鳩のようにくすくすと笑いたてた。
「良かった! ちょっと心配だったの。だって、あなたは他の世界から来た人なんでしょ? 口に合うかしらって」
「口に合うも何も」
テーブルの上にあるのが皿だけになったのと同時に、銀次郎はきっちりと満腹になっていた。そこまでもが計算ずくなのだろうか。
ただ一点、心残りがないではないが――。
「さすがはゴードンだ。こいつは勝てる気がしねえ。いや、こんな敗北なら何度味わったってちっとも後悔はしねえさ。俺が保証しよう、あっちの世界でも勝てる奴は――たった一人だけだぜ」
「え……それは誰?」
瞬間、ぱあっ、と綻んだシリルの顔が一転不安げに曇る。
が、そこで銀次郎は不器用なウインクを一つした。
それは彼流のジョークだった。
「そいつはな、俺の死んだかみさんだよ」
「はぁ……それじゃあ、勝てっこないわね」
大袈裟に肩を竦めてシリルが溢すと、一拍の間の後、二人揃って声を上げて笑い合うのだった。
しゅっ。
(銀さんの字ってね――)
しゅっ。
しゅっ。
(ちっともうまかないんだけど、何処か味があってさ、あたしは好きなのよ)
黙々と硯で墨を磨る銀次郎の脳裏にふとよぎったのは、今は亡き妻、善子がいつか言っていた言葉だった。
「ったく。素直に褒めてくれりゃあ、男なんてモンは馬鹿みたいに喜んじまうってのにな」
それでも本人は決して認めないだろうが、銀次郎は実に嬉しそうな微笑みを浮かべていた。
「さて、これくらいでいいか」
墨と筆。
テーブルの上に置かれたその二つを目の前に、銀次郎は背筋を伸ばした。
すう。
すすす。
す。
「うーん……」
どうやらそれらしく書けたのだが、書いた本人がちっとも読めないので評価の下しようがない。
この世界の文字は銀次郎にはちんぷんかんぷんである。一応、何処から何処までが珈琲で、何処がグレイル鉄貨で――と、一通りゴードンに文字の説明はしてもらったものの、一杯、五枚という数字の部分までもが慣れ親しんだ日本語とは文字体系そのものが違ってしまっていて、皆目見当もつかない。
「弱ったな、こりゃ……」
からん。
その時、カウベルが鳴った。
「あんたがギンジローさんだね?」
良く通る女の声だ。
「ウチの旦那がご馳走になったんだって? 何だか済まなかったわね。ほら、これ」
肉感的な尻で店の扉を器用に押し退けながら両手で捧げ持ってきたトレイをもう一つのテーブルの上に置くと、掛けてあった清潔そうな布を取り払う。
「どうせ何も喰ってないだろって。何だか張り切ってこしらえてたよ。こいつはウチの自慢の一品なの。さあ、食べて頂戴!」
どうやらこの女性がゴードンの妻、シリルらしい。
胸元が大きく開いた足首まで丈のある深緑のワンピースは、胸も腰回りもずどんずどんとせり出していてスタイルがいい。というよりゴードンに似て肉付きが大変よろしい。栗色の長い髪をくるくるとまとめ、頭のてっぺんでお団子にしている。
だが、どうも銀次郎はいささか不躾に観察しすぎていたらしい。シリルはそばかす混じりの顔を顰めると、眉を聳やかして言った。
「あら、お腹減ってないの? それとも……あらやだ、あたしの恰好、何処か変?」
「い、いや。済まん済まん」
しどろもどろになるのは銀次郎の方である。
「じゃ、食べるわね?」
「ああ、頂くとしようか」
手早く硯と筆を片付けてしまうと、銀次郎はカウンターの奥で入念に手を洗う。
その間にシリルはトレイの上の料理をテーブルの上に丁寧に並べていた。恐らく店で出す時と同じ要領なのだろう、木製のナイフとフォークが料理の右隣に綺麗に整列している様を見て、感心すると同時にほっとしていた。箸がいいとまでは言わないものの、それがまだ少しは馴染のある食器だったからである。
「うむ。こりゃあ美味そうだ」
料理の方も同じくで、食べた経験はないものの、テレビや雑誌で見かけたことのあるような他所の国の郷土料理風、と言った品々が並べられていた。
中央に置かれた何とも香ばしい良い匂いが漂うパイ生地に包まれているのは魚だろう。ご丁寧に表面にはその形を模した飾りが施されていた。
さくり。
フォークで突くと、中からは色とりどりの季節の野菜とともに油ののった白身が姿を見せ、途端に銀次郎の腹が歓喜の悲鳴を上げ始めた。いろいろなことがあったせいで気付きもしていなかったが、すっかり腹ぺこだったようだ。
しばし、がつがつと無言で喰う。
隣にあったのは何とも懐かしい気持ちになるパン。銀次郎の記憶の中で一番近いのはコッペパンだろう。一口齧ると、ほわりと湯気の立つ生地は黒っぽい。ライ麦か何かだろうか。バターなどの添え物は何一つなかったが、そんな物は不要だった。ゆっくりと何度も噛み締めるたびに、じゅっじゅっ、と生地の奥の奥から旨味を凝縮したエキスが沁み出してくる。それが先行して銀次郎の胃袋深く潜入していた白身魚のパイ包みと真っ向からぶつかり合って、それはもう大変な騒ぎになっていた。
さらにその反対に置かれていたのはスープ。
見たところはさして取り上げるべき所も見つからないかのように見えたが、一口啜ってみたら目が丸くなった。色も薄く、表面には油一滴なく、具もほとんど見つからない。最初はただの白湯かと思ってしまったくらいの有様だ。だがどうだろう、一口含んだだけでとんだ勘違いをしでかした自分の惚けかかった頭を殴り付けたくなる衝動に駆られたほどだ。うっすらと塩味を利かせたそれは、銀次郎の引き出しの中にある物で一番近かったのは牛テールスープだ。
美味い。美味い。
それしか感想が出てこない自分の語彙の貧困さに嫌気が差す程に美味かった。複雑でかつ繊細極まりない味だ。それでいて野趣溢れる荒っぽさも感じ取れる。その二つを上手く手なずけて一つの皿の上にまとめ上げているのはさすがゴードンとその手並みに唸るしかなかった。
銀次郎対ゴードンお手製フルコースの一戦にそろそろホイッスルが鳴らされようとする頃、ようやっと銀次郎は目の前で何とも嬉しそうに自分を見つめている女性がいることに気付く。正直に言えば、彼女がいることをすっかり忘れてしまっていたのだった。
「――ご感想は?」
目が合い、んふ、と笑う。
「参った。降参だ!」
そう言って銀次郎は照れたように笑ってみせた。
それを見て、シリルは小鳩のようにくすくすと笑いたてた。
「良かった! ちょっと心配だったの。だって、あなたは他の世界から来た人なんでしょ? 口に合うかしらって」
「口に合うも何も」
テーブルの上にあるのが皿だけになったのと同時に、銀次郎はきっちりと満腹になっていた。そこまでもが計算ずくなのだろうか。
ただ一点、心残りがないではないが――。
「さすがはゴードンだ。こいつは勝てる気がしねえ。いや、こんな敗北なら何度味わったってちっとも後悔はしねえさ。俺が保証しよう、あっちの世界でも勝てる奴は――たった一人だけだぜ」
「え……それは誰?」
瞬間、ぱあっ、と綻んだシリルの顔が一転不安げに曇る。
が、そこで銀次郎は不器用なウインクを一つした。
それは彼流のジョークだった。
「そいつはな、俺の死んだかみさんだよ」
「はぁ……それじゃあ、勝てっこないわね」
大袈裟に肩を竦めてシリルが溢すと、一拍の間の後、二人揃って声を上げて笑い合うのだった。
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