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第170話 されど道のりは遠く(2) at 1995/8/4

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「怖いなあ、ハカセ……。まるで超一流の、頑固で偏屈な建築家みたいな気難しさだよ……」


 すごすご退散せざるを得なかった僕は、自分の居場所であるちゃぶ台に戻ろうとしつつ、カタカタタタタ……というリズミカルな打鍵音を耳にして吸い寄せられるように文机へ近寄った。

 音の主は、水無月さんである。


「もぅ……こ、ここも変なカンジです……こ、こうして……うん、この方が……ぶつぶつ……」

「えーっと……、ツ、ツッキーさん?」

「こ、ここはぁ……やっぱり、こっちにした方が……う、うん、いいカンジ……ぶつぶつ……」

「お、おーい! ツッキー? 聴こえてるー?」

「ぶつぶつ……え? あ! は、はいっ! な、なんでしょう、古ノ森リーダー?」


 女子特有のぺたんこ座りのまま、座布団ごとくるりと僕の方を振り返った水無月さんの顔は、もうすっかりいつものやわらかい微笑みを浮かべていた。けれど、ほんのついさっきまでは鬼気迫るカンジで、ちょっと狂気じみて見えたんだけど……。

 うん、たぶん気のせいだ気のせい。


「進捗、どうかなって。そっちのプログラムはほぼ完成してるから、あとはチェックだけ――」

「ま、まだ結構……かかっちゃいますね……た、たぶん……ですけど」

「ええ!? どうして! もしかして、動かなかった? 僕が見た時には――」

「あ、いえ……う、動きます。動いてました。けど……ち、ちょっと……」


 う……。

 まさかとは思うんだけれど、デバッグの延長であちこちいじってるうちに動かなくしちゃったのかな? それは結構な痛手だ。早いところ、新しいプログラムの方を進めたいのに……。


「あ、あの、ソ、ソースが……う、美しくなくて。ど、どうしても、気になってしまって……」

「………………え? じゃあ動くの?」

「あ、当たり前じゃないですか!」


 僕が思わず安堵の声を上げると、水無月さんは見るからに傷ついたような表情で声を上げた。


「いやいやいや! ご、ごめんよ、ツッキー! もしかしてー……とか思っちゃったもんで」

「ひ、ひどいです……あたし……ショックです……ううう……」

「ちょ――泣かないで泣かないで! 今のは僕が悪い! ごめん! すみませんでしたー!」


 僕はすんすん鼻を鳴らし始めた水無月さんの前で、その場飛び着地をするように即座に土下座の姿勢をとった。水無月さんの繊細な心にダメージを負わせてしまったこともあったけれど、それよりなにより背後から突き刺さる真冬の月光のごとき冷たく鋭い視線に、全身の産毛が総毛立ったからだ。『』を怒らせたら、将来、物理的にも社会的にも抹殺されかねない……。

 と、顔を伏せていた水無月さんが顔を上げた。
 なぜか満面の笑みである。

 あ、あれ?


「な、なーんちゃって……い、今のは泣き真似です……お、驚きました……?」

「あー! もー! やめてよぉ!? そんな子じゃないでしょ、ツッキーは!」

「ロ、ロコちゃんに……お、教えてもらいました……! えへ……えへへ……」

「くっそ! とっても嬉しそうすぎて怒るに怒れない!」


 普通の女の子としての日々を再出発したばかりの水無月さんだ。今までは友達すらまともにいなかったけれど、こうやって一緒に部活をしているどころか軽い冗談まで口にできるようになった。これはとっても喜ばしい、うん。

 確かにそうなんだけど……今じゃないだろ感が凄い。


「ともかく、早めにソース整理を完了させて欲しいんだ。次のプログラムに取りかからないと」

「わ、わかりました! い、急ぎます!」


 水無月さんは新兵のようにぎこちない仕草で額に手を添え敬礼すると、再び座布団ごとぐるりと回転するようにして『98キューハチ』の画面に目を通しはじめた。もうこれで……大丈夫そうだ。

 そして僕は、部室の真ん中に置かれたちゃぶ台の前に正座をし、視線を原稿用紙に落とす。


「……」


 少し時間を置いてみたものの、特に変化もなく、まったくの白紙であったりする。


「とか言って、一番進捗危ないの、僕だよなぁ……はぁ」


 と、ふと気づいてしまった。





 佐倉君が、火曜日以降一度も部活に参加していない、という事実に。


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