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第73話 その9「好きな子と鎌倉の町を散策しよう」(6) at 1995/5/31
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鎌倉の史跡は、どこも見どころが多くて時間があっという間に過ぎてしまう。僕たちは円覚寺見学を切り上げて次へ向かうことにした。谷あいに建てられた円覚寺の境内を下って再び総門まで出てから、今度は線路の反対側に渡って南の、鎌倉駅方面へと僕たちは進んで行く。
じき『縁切寺』としても知られる東慶寺に到着した。僕個人としては、純美子との恋愛をなんとしても成就させようと奮闘しているところに縁切りだなんて……という気持ちもなくはなかったけれど、ここも北条氏ゆかりの寺院としては外せない、重要な場所なのである。
やはり思うところがあるのか、純美子とロコが複雑な表情で顔を見合わせてから声を潜めた。
「どんなに悪い夫でも、妻側から離婚を申し出ることができないなんて、ちょっと可哀想だね」
「なんかムカつくよねー。でもさ、離婚するためには尼さんになんなきゃなんでしょ?」
「いいえ。それは違いますよ」
五十嵐君はいつものアルカイックスマイルを浮かべて静かに首を振る。その慈愛に満ちた笑みはまるで仏像の仲間入りをしたかのようで、鎌倉というロケーションに実にマッチしていた。
「既婚女性が離婚を求めて駆け込んだ場合、それを寺役所が受け付け、離婚裁判が行われたのです。ほとんどの場合、呼び出された夫はあらかじめ『三行半』を持参したそうですよ」
「三行半……っていうと、離婚状みたいなものだっけ?」
「はい。さすがは古ノ森リーダー」
五十嵐君はうんうんとうなずいた。
ちょっと嬉しくなっちゃうとっても単純な僕である。
「しかしですね……離縁を夫が不服とした場合には『縁切寺法』が適用されます。するとその女性は、三年間寺に留まって奉公することになるのですが、出家する必要まではないのです」
「と、当時の女の人にとっては、頼みの綱みたいなものだったんですね。勉強になるなあ」
円覚寺の流れをくむ臨済宗の禅寺だけれど、こっちはずいぶんこじんまりとして、まるで隠れ宿のようだ。境内には見どころのひとつである花菖蒲があったが、まだほころびかけだった。
東慶寺を後にした僕らは、さらに線路沿いを南へ進んで行き、やがて見えた看板を目印に山側の方へと進んで行った。すると、最初に僕らを出迎えたのは小さな苔むした井戸だった。
「こ、これ、鎌倉十井のひとつに挙げられる『甘露の井』です。甘く、不老不死になれるとか」
「へー。……あ、そっか! 佐倉君が最初に言ってたのって、その『鎌倉十井』だったよね?」
「そ、そうなんですよー。えへ、えへへへ」
もうすぐそこに目指す浄智寺の山門が見えるが、ここは木々に覆われてさっきよりも涼し気だ。それでもほんのり頬を赤く染めている佐倉君には水分補給を勧めておくとしよう。
ここ浄智寺も、同じく円覚寺の流れをくむ臨済宗の禅寺だ。ただし先程見学した二つの寺院と比べると、どことなく中国――宋の影響が色濃いように感じる。門の上に鐘楼を吊るして鐘撞き堂を兼ねている『鐘楼門』を見ると、花頭窓をあしらった中国風の意匠が実に特徴的だ。
(そっか……インターネットがないから、撮影か図書館でおさらいするかしかないのか……)
そう思った僕は、こっそりポケットに忍ばせているスマホのカメラを使って、重要そうな碑文や説明書き、少々罰当たりかもしれないけれどときには御本尊まで撮影しておくことにする。
「次で、四ヶ所目だね。スケジュールどおりなのかな。どう、ケンタ君?」
「予定よりはほんの少し遅れているけど……。まあ、問題ないよ。うん」
続いて、線路を挟んで反対側に位置するのが、『あじさい寺』として有名な明月院だ。
その始まりを辿れば、五代執権・時頼が出家した折にそれまでの私邸を最明寺と改め、時頼の死後廃寺となっていたものを八代・時宗が再興して禅興寺としたものだ。しかし、この禅興寺も明治元年には廃寺となり、残ったのは明月院のみ、というわけである。見どころはなんと言っても紫陽花だけれど、これも物資の少なかった戦後の話らしく、その歴史は意外と新しい。
こころゆくまま散策を済ませたメンバーに向けて僕は提案する。時刻はもうじき十二時だ。
「さて。次からはちょっと長めに歩くことになるんだけど、その前に腹ごしらえしよっか」
「「「さんせーい!」」」
じき『縁切寺』としても知られる東慶寺に到着した。僕個人としては、純美子との恋愛をなんとしても成就させようと奮闘しているところに縁切りだなんて……という気持ちもなくはなかったけれど、ここも北条氏ゆかりの寺院としては外せない、重要な場所なのである。
やはり思うところがあるのか、純美子とロコが複雑な表情で顔を見合わせてから声を潜めた。
「どんなに悪い夫でも、妻側から離婚を申し出ることができないなんて、ちょっと可哀想だね」
「なんかムカつくよねー。でもさ、離婚するためには尼さんになんなきゃなんでしょ?」
「いいえ。それは違いますよ」
五十嵐君はいつものアルカイックスマイルを浮かべて静かに首を振る。その慈愛に満ちた笑みはまるで仏像の仲間入りをしたかのようで、鎌倉というロケーションに実にマッチしていた。
「既婚女性が離婚を求めて駆け込んだ場合、それを寺役所が受け付け、離婚裁判が行われたのです。ほとんどの場合、呼び出された夫はあらかじめ『三行半』を持参したそうですよ」
「三行半……っていうと、離婚状みたいなものだっけ?」
「はい。さすがは古ノ森リーダー」
五十嵐君はうんうんとうなずいた。
ちょっと嬉しくなっちゃうとっても単純な僕である。
「しかしですね……離縁を夫が不服とした場合には『縁切寺法』が適用されます。するとその女性は、三年間寺に留まって奉公することになるのですが、出家する必要まではないのです」
「と、当時の女の人にとっては、頼みの綱みたいなものだったんですね。勉強になるなあ」
円覚寺の流れをくむ臨済宗の禅寺だけれど、こっちはずいぶんこじんまりとして、まるで隠れ宿のようだ。境内には見どころのひとつである花菖蒲があったが、まだほころびかけだった。
東慶寺を後にした僕らは、さらに線路沿いを南へ進んで行き、やがて見えた看板を目印に山側の方へと進んで行った。すると、最初に僕らを出迎えたのは小さな苔むした井戸だった。
「こ、これ、鎌倉十井のひとつに挙げられる『甘露の井』です。甘く、不老不死になれるとか」
「へー。……あ、そっか! 佐倉君が最初に言ってたのって、その『鎌倉十井』だったよね?」
「そ、そうなんですよー。えへ、えへへへ」
もうすぐそこに目指す浄智寺の山門が見えるが、ここは木々に覆われてさっきよりも涼し気だ。それでもほんのり頬を赤く染めている佐倉君には水分補給を勧めておくとしよう。
ここ浄智寺も、同じく円覚寺の流れをくむ臨済宗の禅寺だ。ただし先程見学した二つの寺院と比べると、どことなく中国――宋の影響が色濃いように感じる。門の上に鐘楼を吊るして鐘撞き堂を兼ねている『鐘楼門』を見ると、花頭窓をあしらった中国風の意匠が実に特徴的だ。
(そっか……インターネットがないから、撮影か図書館でおさらいするかしかないのか……)
そう思った僕は、こっそりポケットに忍ばせているスマホのカメラを使って、重要そうな碑文や説明書き、少々罰当たりかもしれないけれどときには御本尊まで撮影しておくことにする。
「次で、四ヶ所目だね。スケジュールどおりなのかな。どう、ケンタ君?」
「予定よりはほんの少し遅れているけど……。まあ、問題ないよ。うん」
続いて、線路を挟んで反対側に位置するのが、『あじさい寺』として有名な明月院だ。
その始まりを辿れば、五代執権・時頼が出家した折にそれまでの私邸を最明寺と改め、時頼の死後廃寺となっていたものを八代・時宗が再興して禅興寺としたものだ。しかし、この禅興寺も明治元年には廃寺となり、残ったのは明月院のみ、というわけである。見どころはなんと言っても紫陽花だけれど、これも物資の少なかった戦後の話らしく、その歴史は意外と新しい。
こころゆくまま散策を済ませたメンバーに向けて僕は提案する。時刻はもうじき十二時だ。
「さて。次からはちょっと長めに歩くことになるんだけど、その前に腹ごしらえしよっか」
「「「さんせーい!」」」
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