11 / 14
第11話 St. Christina and St. Rita
しおりを挟む
(こ、ここでいい? どう? マッティ?)
あたしは今、どこの誰かも知らない赤の他人の立派なお家の屋根の上にいます。
(問題ないとマッティは判断する。ここからであれば彼らの動きが捉えられる。では、次だ)
次、次、次。
もう、これで五台目なんですけど、と声に出さずに文句を言うあたし。
この先に横たわる環状七号線の交差点に控えている人たち――多分、自衛隊と警察の合同部隊だ――により築かれた検問を突破するため、マッティが考案した作戦のうちのひとつが『彼らの動きを観察すること』だった。
大規模な編成と人員で展開されているのは、国道4号線と交差する『梅島陸橋』の検問。そして、その周辺の主要な交差点という交差点にも、はじめに目にした物と同じような蛇腹の形をした白いバリケードが、東京へ向かう道路をくまなく封鎖していた。
「ね、ねえ? マッティ?」
あたしは、密集した民家の屋根から屋根へと飛び移り、駆けながら、後ろ前に背負ったサブバッグの中にちょこんと鎮座しているミルクティー色のハンサムなくまのぬいぐるみ――マッティに尋ねる。
「どうした? アオイ?」
「これってさ――」
指さしたのは、バッテリー充電済みのハンディタイプのデジタルビデオカメラだ。
「あといくつ設置したら終わりなの?」
「その回答は難しい、とマッティは言う。『敵』の展開数にもよるからだ」
「『敵』って……」
「アオイが大事な者を救う妨げになっている者たちだ。ならば『敵』だとマッティは判断する」
「……っ」
ついつい、今この瞬間を切り抜けることだけに精一杯になってしまっていたけれど、あたしのするべきことは、奴ら――『ノグド』に連れ去られてしまった弟の、櫂君を助け出すことだ。
「マッティの考え方はシンプルなんだね」
「イエス」
次の家の屋根までは少し距離がありそうだ。
たたた――たん!
小さな歩幅で一気に加速して踏み切ると、宙でくるりと一回転して隣家の屋根に着地した。
「よっと。どう? 着地もバッチリでしょう?」
「……素晴らしい。次からはなるべく音を小さくして欲しいとマッティは懇願する」
「ご、ごめんなさい……」
でも、中等部の頃から体操部で厳しい練習を重ねてきたのが、こんなところで役に立つとは思ってもなかった。はじめ、マッティに『アオイは猫のように屋根を散歩できるか?』と尋ねられた時には、あたしの頭の中はクエスチョンマークだらけになった。まさか、こんなことを。
「次も飛ぶよ。しっかり掴まっててね、マッティ」
たたた――たん!
たたた――たん!
あたしは集中し、できるだけ速く、できるだけ音を立てず、できるだけ正確に飛ぶ。
『次の大会は――クリスティーナ――暮森碧さん、あなたがチームキャプテンです。できる?』
『え……!? は、はい! ありがとうございます! 頑張ります!』
顧問でありコーチでもある山咲のばら先生は、ミッションスクールである浦和暁月女子高等学校の教員であるのと同時に、敬虔な信徒でもあった。でもあたしは、正直自分の洗礼名があんまり好きじゃなかった。だから、山咲先生がことあるたびに洗礼名で部員たちを呼ぶ習慣があるのがちょっぴり嫌いだった。
ああ、クリスティーナ――聖クリスティーナ。
その信仰ゆえに、貴族だった実の父親から数多くの残酷な拷問を受け、裁判によって裁かれた挙句、最後は矢に射抜かれて絶命したと伝えられる殉教者であり聖人。弓の射手、粉屋、船乗りの守護聖人。
もっと良いのだってあったと思うのに。
最後は弓矢に射抜かれて死ぬ、だなんて!
はじめて聖クリスティーナについて調べてみた時に、まだ小等部だったあたしは愕然としてしまったのだ。その悩める心の裡を正直に打ち明けた時、山咲先生はこう言って笑ってたっけ。
『きっと神父様が、生まれたてのアオイさんを見た時に、聖クリスティーナの強さや信念があなたの中に宿っている、とお感じになられたのよ。でも、そこまで神経質になることもないわ』
『そう……ですけど……』
『だったら、あたしはリタよ』
『リタ?』
そう聞き返すと山咲先生はおどけた仕草で肩を竦めて笑ってみせた。
『そう。カッシアのリタ。DVに苦しみながらも夫を改心させたけれど、結局は夫もその復讐を決意した息子ふたりも失って、修道院に入ったそうよ。でも、その頃にはだいぶ歳をとっていたから断られてしまって、懲りずに通い続けて、四回目でやっと!』
いつも厳しくて怖い、という印象だった山咲先生の、今まで見たことのない悪戯っ子のようなころころと変わる表情に、つい、あたしもつられてくすくすと笑ってしまった。
『イエス様の像から飛んできた棘で顔にできた傷が膿んでしまって、悪臭に困った彼女は独房で生涯を遂げるの。でも、遺体から立ちこめる芳香が聖人としての評判を高めて、五五七年後に列聖されたってワケ。そう、暮森さんとおんなじ。あたしも思ったわ。なんて――酷い!』
そう言って、ぐるり、と目玉を回してみせると、優しい微笑みを浮かべながらあたしの身体を抱きかかえるようにして、山咲先生はこう囁いた。
『……でもね? 今は意外と好きよ? このクリスチャンネーム。……だって、暮森さんを笑顔にすることができたもの。それだけでもラッキーだわ!』
『それに……先生は良い匂いがします』
『あら、嬉しいわ!』
それから山咲先生は、急に表情を引き締めるとこう告げた。
『それにね? リタは、絶望的状況、必死の状態、望みがない時の守護聖人なの。大好きなみんなを救うチカラが、あたしの中のどこかにあるって考えたら、とても素敵なことじゃない?』
『ええ、そうですね』
『次の大会、きっと優勝できるわ! このあたしがついてるんだから、ね、暮森キャプテン?』
あの時から。
山咲先生は、あたしの憧れの存在になったんだ。
また……会えるかな。
ううん、山咲先生はリタなんだもの。こんな『絶望的状況』だからこそ、きっと――。
たたた――たん!
「……よし。これで持ってきたビデオカメラは全部設置できたよ、マッティ」
「では戻ろう、アオイ」
静かに明けていく空を見上げながら、あたしは猫のように屋根から屋根へと飛び移る。
あたしは今、どこの誰かも知らない赤の他人の立派なお家の屋根の上にいます。
(問題ないとマッティは判断する。ここからであれば彼らの動きが捉えられる。では、次だ)
次、次、次。
もう、これで五台目なんですけど、と声に出さずに文句を言うあたし。
この先に横たわる環状七号線の交差点に控えている人たち――多分、自衛隊と警察の合同部隊だ――により築かれた検問を突破するため、マッティが考案した作戦のうちのひとつが『彼らの動きを観察すること』だった。
大規模な編成と人員で展開されているのは、国道4号線と交差する『梅島陸橋』の検問。そして、その周辺の主要な交差点という交差点にも、はじめに目にした物と同じような蛇腹の形をした白いバリケードが、東京へ向かう道路をくまなく封鎖していた。
「ね、ねえ? マッティ?」
あたしは、密集した民家の屋根から屋根へと飛び移り、駆けながら、後ろ前に背負ったサブバッグの中にちょこんと鎮座しているミルクティー色のハンサムなくまのぬいぐるみ――マッティに尋ねる。
「どうした? アオイ?」
「これってさ――」
指さしたのは、バッテリー充電済みのハンディタイプのデジタルビデオカメラだ。
「あといくつ設置したら終わりなの?」
「その回答は難しい、とマッティは言う。『敵』の展開数にもよるからだ」
「『敵』って……」
「アオイが大事な者を救う妨げになっている者たちだ。ならば『敵』だとマッティは判断する」
「……っ」
ついつい、今この瞬間を切り抜けることだけに精一杯になってしまっていたけれど、あたしのするべきことは、奴ら――『ノグド』に連れ去られてしまった弟の、櫂君を助け出すことだ。
「マッティの考え方はシンプルなんだね」
「イエス」
次の家の屋根までは少し距離がありそうだ。
たたた――たん!
小さな歩幅で一気に加速して踏み切ると、宙でくるりと一回転して隣家の屋根に着地した。
「よっと。どう? 着地もバッチリでしょう?」
「……素晴らしい。次からはなるべく音を小さくして欲しいとマッティは懇願する」
「ご、ごめんなさい……」
でも、中等部の頃から体操部で厳しい練習を重ねてきたのが、こんなところで役に立つとは思ってもなかった。はじめ、マッティに『アオイは猫のように屋根を散歩できるか?』と尋ねられた時には、あたしの頭の中はクエスチョンマークだらけになった。まさか、こんなことを。
「次も飛ぶよ。しっかり掴まっててね、マッティ」
たたた――たん!
たたた――たん!
あたしは集中し、できるだけ速く、できるだけ音を立てず、できるだけ正確に飛ぶ。
『次の大会は――クリスティーナ――暮森碧さん、あなたがチームキャプテンです。できる?』
『え……!? は、はい! ありがとうございます! 頑張ります!』
顧問でありコーチでもある山咲のばら先生は、ミッションスクールである浦和暁月女子高等学校の教員であるのと同時に、敬虔な信徒でもあった。でもあたしは、正直自分の洗礼名があんまり好きじゃなかった。だから、山咲先生がことあるたびに洗礼名で部員たちを呼ぶ習慣があるのがちょっぴり嫌いだった。
ああ、クリスティーナ――聖クリスティーナ。
その信仰ゆえに、貴族だった実の父親から数多くの残酷な拷問を受け、裁判によって裁かれた挙句、最後は矢に射抜かれて絶命したと伝えられる殉教者であり聖人。弓の射手、粉屋、船乗りの守護聖人。
もっと良いのだってあったと思うのに。
最後は弓矢に射抜かれて死ぬ、だなんて!
はじめて聖クリスティーナについて調べてみた時に、まだ小等部だったあたしは愕然としてしまったのだ。その悩める心の裡を正直に打ち明けた時、山咲先生はこう言って笑ってたっけ。
『きっと神父様が、生まれたてのアオイさんを見た時に、聖クリスティーナの強さや信念があなたの中に宿っている、とお感じになられたのよ。でも、そこまで神経質になることもないわ』
『そう……ですけど……』
『だったら、あたしはリタよ』
『リタ?』
そう聞き返すと山咲先生はおどけた仕草で肩を竦めて笑ってみせた。
『そう。カッシアのリタ。DVに苦しみながらも夫を改心させたけれど、結局は夫もその復讐を決意した息子ふたりも失って、修道院に入ったそうよ。でも、その頃にはだいぶ歳をとっていたから断られてしまって、懲りずに通い続けて、四回目でやっと!』
いつも厳しくて怖い、という印象だった山咲先生の、今まで見たことのない悪戯っ子のようなころころと変わる表情に、つい、あたしもつられてくすくすと笑ってしまった。
『イエス様の像から飛んできた棘で顔にできた傷が膿んでしまって、悪臭に困った彼女は独房で生涯を遂げるの。でも、遺体から立ちこめる芳香が聖人としての評判を高めて、五五七年後に列聖されたってワケ。そう、暮森さんとおんなじ。あたしも思ったわ。なんて――酷い!』
そう言って、ぐるり、と目玉を回してみせると、優しい微笑みを浮かべながらあたしの身体を抱きかかえるようにして、山咲先生はこう囁いた。
『……でもね? 今は意外と好きよ? このクリスチャンネーム。……だって、暮森さんを笑顔にすることができたもの。それだけでもラッキーだわ!』
『それに……先生は良い匂いがします』
『あら、嬉しいわ!』
それから山咲先生は、急に表情を引き締めるとこう告げた。
『それにね? リタは、絶望的状況、必死の状態、望みがない時の守護聖人なの。大好きなみんなを救うチカラが、あたしの中のどこかにあるって考えたら、とても素敵なことじゃない?』
『ええ、そうですね』
『次の大会、きっと優勝できるわ! このあたしがついてるんだから、ね、暮森キャプテン?』
あの時から。
山咲先生は、あたしの憧れの存在になったんだ。
また……会えるかな。
ううん、山咲先生はリタなんだもの。こんな『絶望的状況』だからこそ、きっと――。
たたた――たん!
「……よし。これで持ってきたビデオカメラは全部設置できたよ、マッティ」
「では戻ろう、アオイ」
静かに明けていく空を見上げながら、あたしは猫のように屋根から屋根へと飛び移る。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
小学生最後の夏休みに近所に住む2つ上のお姉さんとお風呂に入った話
矢木羽研
青春
「……もしよかったら先輩もご一緒に、どうですか?」
「あら、いいのかしら」
夕食を作りに来てくれた近所のお姉さんを冗談のつもりでお風呂に誘ったら……?
微笑ましくも甘酸っぱい、ひと夏の思い出。
※性的なシーンはありませんが裸体描写があるのでR15にしています。
※小説家になろうでも同内容で投稿しています。
※2022年8月の「第5回ほっこり・じんわり大賞」にエントリーしていました。
忘却の艦隊
KeyBow
SF
新設された超弩級砲艦を旗艦とし新造艦と老朽艦の入れ替え任務に就いていたが、駐留基地に入るには数が多く、月の1つにて物資と人員の入れ替えを行っていた。
大型輸送艦は工作艦を兼ねた。
総勢250艦の航宙艦は退役艦が110艦、入れ替え用が同数。
残り30艦は増強に伴い新規配備される艦だった。
輸送任務の最先任士官は大佐。
新造砲艦の設計にも関わり、旗艦の引き渡しのついでに他の艦の指揮も執り行っていた。
本来艦隊の指揮は少将以上だが、輸送任務の為、設計に関わった大佐が任命された。
他に星系防衛の指揮官として少将と、退役間近の大将とその副官や副長が視察の為便乗していた。
公安に近い監査だった。
しかし、この2名とその側近はこの艦隊及び駐留艦隊の指揮系統から外れている。
そんな人員の載せ替えが半分ほど行われた時に中緊急警報が鳴り、ライナン星系第3惑星より緊急の救援要請が入る。
機転を利かせ砲艦で敵の大半を仕留めるも、苦し紛れに敵は主系列星を人口ブラックホールにしてしまった。
完全にブラックホールに成長し、その重力から逃れられないようになるまで数分しか猶予が無かった。
意図しない戦闘の影響から士気はだだ下がり。そのブラックホールから逃れる為、禁止されている重力ジャンプを敢行する。
恒星から近い距離では禁止されているし、システム的にも不可だった。
なんとか制限内に解除し、重力ジャンプを敢行した。
しかし、禁止されているその理由通りの状況に陥った。
艦隊ごとセットした座標からズレ、恒星から数光年離れた所にジャンプし【ワープのような架空の移動方法】、再び重力ジャンプ可能な所まで移動するのに33年程掛かる。
そんな中忘れ去られた艦隊が33年の月日の後、本星へと帰還を目指す。
果たして彼らは帰還できるのか?
帰還出来たとして彼らに待ち受ける運命は?
【VRMMO】イースターエッグ・オンライン【RPG】
一樹
SF
ちょっと色々あって、オンラインゲームを始めることとなった主人公。
しかし、オンラインゲームのことなんてほとんど知らない主人公は、スレ立てをしてオススメのオンラインゲームを、スレ民に聞くのだった。
ゲーム初心者の活字中毒高校生が、オンラインゲームをする話です。
以前投稿した短編
【緩募】ゲーム初心者にもオススメのオンラインゲーム教えて
の連載版です。
連載するにあたり、短編は削除しました。
[恥辱]りみの強制おむつ生活
rei
大衆娯楽
中学三年生になる主人公倉持りみが集会中にお漏らしをしてしまい、おむつを当てられる。
保健室の先生におむつを当ててもらうようにお願い、クラスメイトの前でおむつ着用宣言、お漏らしで小学一年生へ落第など恥辱にあふれた作品です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる