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第7話 Departure of Night Darkness

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「ど、どうして――」

 あたしたちはが落ちるのに合わせて、移動を開始した。

「どうしてこんなに出発を急ぐんですか? マッティ?」
「マッティは、アオイの大切な者を取り戻すためだ、とひとつ目の理由を提示する」
「それは……! もちろん、それがあたしの、たったひとつの望みですから」

 ボストンバッグのショルダーベルトが肩に喰い込んで痛い。

 新体操部の去年の夏合宿にあわせて買ってもらった、校章がデザインされたそのバッグの中に、辛うじて原形を留めていた食料や衣服や、災害時用にと準備されていた避難袋を無理やり、ありったけ詰め込んだのだから重くて当然だった。いらない物は途中で捨ててしまってもいいかもしれない。そのくらい重い。

 念のためもっと小さくて、ショルダーバッグにもリュックとしても使えるロリータ風デザインのサブバッグを持ってきた。女の子に必要最低限なアイテムくらいしか入らないサイズだけれど、うまく使い分ければなんとかなりそう。今はマッティが、ちょこん、と収まっている。

 あーあ。
 もしもマッティが手伝ってくれるのなら、こんな重い思いしなくてもいいのに。

 あたしと同じくらい、いや、もっと背が高くなったマッティがよいしょよいしょとカバンを担いでいる姿を想像したら、思わず顔がにやけてしまった。慌てて口元を引き締めて尋ねる。

「ひとつ目の理由――って言ってました――けど――まだ他にもあるん――ですか?」
「このエリア一帯にスフィアが飛来した。つまり、すでに『ノグド』がいる可能性が高い」

 それって……。
『ノグド』に寄生された人間がいるかもしれない、ってことだよね。

「その……見分ける方法はあるんでしょうか? 『ノグド』なのか、そうでないのか?」
「もっとも確実な方法は、頭部を破壊することだ。無論、それ以外にもある」
「で――できません! そんなこと――!!」

 当たり前のように、マッティの口から聞くのも怖ろしいアイディアを聞かされて震えた。そんなことをすれば、普通の人間を……殺してしまうことになるじゃない。思わず十字を切る。

 マッティは平然としたまま、落ち着き払った口調でこう続けた。

「『ノグド』がのであれば、見た目にも変化が現れる。近づかなければ無理だが」
「それは……どういう変化なんです?」
「脳へ侵入する際、組織の一部を傷つける。それは柔らかく、損傷の影響を受けやすい箇所に体液が流れ込むことを意味する。それはたとえば――目だろう」
「眼球に血液が流れ込んで、赤くなる……そういうことですか?」
「マッティは、そう考えても問題ないと判断する」

 なるほど。

 なら、あたし自身はどうなんだろう? 辛うじて阻止できたとはいえ、一度は『リンクした』のであれば、あたしの目にも変化が起きていても不思議ではない。鏡は……入っていたかな。

 ベランダ側からチェックした限りでは、ウチのマンションに直撃したスフィアは三つだ。あたしはもう一度ボストンバッグを背負い直すと、もうセキュリティ的にはあまり効果のなさそうなドアをなるべく音を立てないように開け、その隙間から廊下を覗き見た。誰もいない。

「誰もいなさそうですね……じゃあ、出ます」
「マッティも警戒しよう」

 履き慣れた黒革のストラップシューズに足を滑り込ませて、さっきより大きくドアを開けた。

 このマンションには、エレベーターが一基、そして階段がふたつある。きっとエレベーターは使えないだろう。昨日まで自家発電施設で動かしていたけれど、あれほどの強い衝撃を受けた後で乗る気にはなれなかった。エントランスに近い方の、被害を受けていない側の階段へ急ぐ。

「夜まで待った理由はどうしてなんですか?」
「人間は、夜目が利かない。スフィアも同じだ。だが、盲目ではない」

 昼間の移動は危険度が高い、ってことだよね。

「……」

 上階から顔を覗かせて、下階の様子をくまなくうかがってから、慎重に降りていく。ようやく七階から一階エントランスまでたどり着いた時には、思わず盛大なため息をつきそうになった。

「あたしにも、あのスフィアが動かせたら楽なのに……」
「それは無理だ。スフィアには個体識別機能がある」

 無事人間の身体に寄生完了した『ノグド』たちは、人間の身体で操作するのに最適化されたスフィアに再び乗り込んで、また別の任務を実行するらしい――マッティがそう教えてくれた。

 スフィアがなぜ玉座を模した形状をしていたのかについては、彼らの対象となった人間にとって最適な形状を選択したにすぎない、ということだった。別の星の別の生き物だったならば、スフィアは今とはまた異なる別の形を選んでいたのだろう。

「外に出よう。マッティはそう進言する」
「う、うん」

 無人の管理人室の前を通り過ぎ、動かなくなった自動ドアを開ける。もはやオートロックなんてものはとっくに機能していなかった。幸いなことに、マンションの目の前の狭い道路には人影はなかった。きょろきょろとあたりを見回して、あたしは早足でエントランスを後にする。

「ねえ、マッティ? どっちに向かえばいいの?」
「アオイは『ノグド』の『巣』へ向かう」

 ――なら、右ね。
 顔を伏せるようにして陽の落ちた小道を進み、東京へと続く国道4号線へと足を速めた。

「マッティは、あたしの弟――かい君が生きている、と言ったけど、どうして? 分かるの?」
「マッティは『ノグド』の生態を調査して分析しているからだ」
「さっきもそう言っていたよね? マッティは、軍に所属する研究者だったの?」
「マッティはそう考えてもらって構わない」

 やはりマッティは、聞き覚えのあるフレーズとともにうなずいた。
 それからこう続けた。

「対象者がまだ幼体である場合には、『ノグド』は着ることを保留する。幼体は用途が豊富だ」
「幼体……ですか」

 子どもってことよね?

「逆に、着ることでさまざまなリスクが生じることは明らかだ。耳孔じこうが未発達であることに起因する侵入時の難易度の高さ。蓄積された知識量の圧倒的不足。運動能力の低さや、まだ成長過程にある身体の各部位のサイズや限界性能についてと、問題点は非常に多いと言えるだろう」
「じゃあ……育てるの? 大人になるまで?」
「マッティは肯定する」

 ぞっとする。

 見た目は普通の人間。でも中身は『ノグド』だ。しかし、それを子どもが見分けることなんてできるんだろうか。たぶん、疑わない。

 そのまま大人になっていき、やがて――。

「……アオイ、警戒しろ。マッティは沈黙する」
「えっ」

 マッティの短いひと言で、あたしの身体はたちまち緊張した。『東京都』と書かれた補助標識が吊り下げられた、県境にある『水神すいじん橋』の向こう側から歩いてくる人影が見えたのだ。

「……っ」

 旧道にあたる県道49号線は行き交う車もなく、静かだった。
 道の反対側に渡ってしまおうかとも考えたけれど、不審に感じるかもしれない。

「……っ」

 徐々に近づく。
 ついにすれ違う段になって、あたしはボストンバッグを背負い直すフリをして、顔を伏せた。

「あの……もしかして、東京に行くつもりですか?」
「え……」

 ――声をかけてきた!

 街灯の光で逆光になっているせいで、相手の顔は真っ黒に塗り潰されてしまっていた。これではもしもこの男の人が『ノグド』でも、あたしには見分けることができない。汗が噴き出す。

「あ、あの……これは違くて……」
「い、いえ。突然声をかけてしまってすみません。ちょっと気になったもので――」

 後ろ前に背負っているサブバッグから顔を覗かせているマッティに、助けを求めるように視線を向けたが――マッティはもう、誰の目にもただのクマのぬいぐるみにしか見えなかった。

「……あれ? 変わった目の色をしているんだね? 生まれつきですか?」
「え――ええ。そうなんです」

 なんだか妙にホッとしたような声色の、サラリーマン風のおじさんみたいだった。けれど、鼻や口元はシルエットで見えていても、目元だけがまだ暗い。歩道のほぼ中央に立っているから、無視して通り抜けるのも不自然だし、どうしても距離が近くなってしまう。どうしよう。

「なんとか戻ってきたんだけれどね……行かない方がいいよ、あっちには――」
「……」

 次第にリラックスしてきたのか、口調がラフになっていた。相手が制服を着た女子高生だということも理由のひとつなんだろうと思う。なんとか話を合わせてやり過ごすしかなさそうだ。

「なんだかね? みんなおかしくなっちまってるんだ。まともなヤツなんてひとりもいない。君のような女の子ひとりじゃあ、たちまち囲まれて襲われちまうって。やめておきなよ、ね?」
「で、でも……」
「……そうだ! なんなら、おじさんの家に来るかい? すぐ近くなんだ」

 びくり――急に肩に手を回された。
 息がかかる。むせ返るようなアルコールの臭い。

「い、いえ……急いでるんです……」
「なんだ、冷たいじゃないかよ。え――?」

 ぐい――サラリーマンの男は、急に声を荒げると、あたしの身体を引き寄せて耳元で言った。

「なあ? こんな世の中の、こんな時間に、ひとりでふらついてるんだ。君だって、誰かといたい、そんな気持ちなんだろ? え? 誰でもいい――そう思ってるんじゃないのか? ん?」
「あ、あの――! や、やめてください――!」
「君みたいなキレイな子ははじめてだ……ほら、別に変なことしないからさ、一緒に来いよ!」

 怖い!
 怖い!!
 怖い!!!

 ただでさえ異性に対して免疫がないのに。男性恐怖症とまではいかないけれど、男の人に苦手意識をずっと持っているあたしなのに。逃げたい、逃げ出したい。けれど、足が動かない。



 その時だった。



「ぎゃあああああ!」



 いきなり。
 そのサラリーマンが、あたしの肩に触れていた手を押さえて甲高い悲鳴を上げたのだ。



「……マッティは、アオイを守らなければならない」

 愛くるしいクマのぬいぐるみの手には、闇夜に鈍く光る血まみれのナイフが握られていた。


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