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第3話 Slip into the Ear
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(う――)
まだ視界が揺れて、ぼやけて、ときおり明滅している。
(たしか、さっき……)
なんだっけ、と思考が乱れて、ともすればそのまま目を閉じてしまいそうになる。けだるい身体に鞭を打って、横倒しになった体勢から上半身を起こそうとして――。
「痛っっっ!!」
たちまち脊髄を脳天に向けて駆け抜けた激痛に、あたしの意識は無理やり覚醒させられた。一瞬で熱を帯びた首筋とは正反対に、自分の両足の感覚がない。凍りついたように冷えている。
「ひぐ――っ!!」
反射的に目を向けてしまったのは失敗だった。自分の両足のあったあたりには大量に降り注いだ瓦礫が折り重なっていて、かろうじて目に映る範囲の肌はどす黒い紫色に変色していた。それを目にした途端、機械的に胃の中から違和感をともなった固形物がせり上がってきて、あっという間に気管を塞いでしまう。だが、その動作ですらさらなる激痛を呼ぶ材料でしかない。
「うぷっ………………うげぇ……げほげほっ……!」
呼吸を確保するために身を折ることすらも許されず、溢れ出るままに口腔に溜まった異物をなんとか舌で押しやる。じんわりと胸元に広がるすえた臭いと温かさ。ぐったりと寝転がり、ぽっかりと空いてしまった天井を見上げながら、苦しさと哀しさと心細さで涙が溢れてくる。
(なんで……なんでこんなことに……どうして……!?)
もうここは危ないから、青森のおばあちゃんちに家族みんなで行くことになって。
そのための準備をパパとママとあたし、そして大好きな弟の――。
「か――櫂!?」
はっ、と気づく。
必死で上半身を支え起こした。
「櫂君!? どこにいるの!? ねえ、お返事して!!」
返事はない。
「ねえ、お願い! 櫂君! しっかりして! 目を覚まして! お返事して!」
「う――」
たしかに聴こえた!!
「う――。お姉ちゃん? どこ? なにが起こったの? どこにいるの? 怖いよぅ……!」
「ご――ごめんね。お姉ちゃん、今……ちょっと動けないんだ……。櫂君は怪我してない?」
「してる。おひざすりむいちゃった……痛いよぅ……」
しくしくとすすり泣く声が聴こえてきて、かわいそうと思う反面、嬉しくて自然と顔がほころんでしまった。櫂君だけでも無事なら――もしあたしが、このまま助からなくったって。
「……っ」
さっきまではこんなんじゃなかった。
ごく普通の一日で、みんなでお出かけの準備をしていて。
パパもママも、櫂君もいて。
けれど、今の住み慣れた我が家には、その想い出のカケラひとつ残されてはいなかった。澄み渡った青空を映していた窓ガラスはすべて粉々になり、四季折々の風景を切り取ったカレンダーが掛けられていた壁は跡形もなかった。懐かしい匂いのする家具の一切は見るも無残な姿を晒し、あちらこちらに洋服やら小物やらだった物が無分別に無雑作に巻き散らかされていた。
そのすべての元凶は――目の前にある、この銀色に輝く金属球。
――かしゅっ。
絶望と憎しみの入り混じった視線を感じ取ったかのように、その傷どころか繋ぎ目ひとつ見当たらない滑らかな表面に、瞬く間に複雑な幾何学模様の線が駆け抜けたかと思うと、ため息のようなかすかな音とともにゆっくりとそれがずれ、徐々に境界をくっきりと浮き立たせた。
(動いてる……! まさか、これ……生きているの……!?)
思わず息を止める。
テレビで見た物と同じ――いや、大きさで言えばあのミニチュア版といったサイズだ。だが、あれが動いたとか、ましてやあの中から何かが出てきただとか、そんな話はひとつも報道されていなかったはずだ。それが、そのあり得ないことが今あたしの目の前で起ころうとしていた。
「……お姉ちゃん?」
「ダメ! 櫂君! 今は静かにしていて!」
思わず鋭い声が出てしまう。金属球の表面で起きている現象がふたりの声を察知したかのように一瞬止まり、潜める息の限界に近付いた頃に再び動き出した。
「お、お姉ちゃん!?」
「櫂君! 絶対に出てきちゃダメだよ!? そこでじっと隠れていて! お願いだから!!」
もう金属球は止まりはしなかった。むしろその動きは加速していく。緻密で複雑怪奇な構造をしたパズルのように、次々と分かれ、広がり、捻じれてはそれ本来の姿へと変貌していった。
「こ――これって、まさか――!?」
――かしゅん。
これはまるで玉座だ。最後のため息ひとつを漏らしたそれは、中世の王が座するような豪奢な銀色の椅子のごとき姿で身動きひとつ取れないあたしを冷たい輝きを放って見下ろしていた。
そこから――ぬちゃり。
「――っ!?」
『何か』が出てきた。
真っ赤な、血のように赤い蠢く『何か』が、葉脈のような幾何学模様を描いて玉座を模したそのひじ掛けあたりに広がり、次にその先端が、ぷくり、ぷくり、と風船のように次々膨らんだかと思うと、蛍光色の黄色がかった模様が不気味に表面に浮かび上がった。
何かで聞いたことがある――『シュミラクラ現象』って奴だわ。ヒトは三つの点の集合体を目にすると、本能的に『顔』であると認識するように脳にプログラムされているんだって。
その三つ、四つの魂亡き虚ろな人面の動きを今か今かと待ち構えていると、それらのさらに奥から、ひときわ大きなぬめりとした物体がずるりと這い上がってきた。その姿はまるで――。
(真っ赤なナメクジみたいだわ……それとも粘菌? アメーバ? まさか……スライム?)
どれも図鑑の中くらいでしか目にしたことはないという点において、現実なのか空想なのかは別にして、あたしにとってどれも似たようなものだった。気色悪い――うん、それもたしか。
(一体何を――?)
あの姿で人間の声を、言葉までも理解できるかどうかは疑わしかったけれど、声は出さないように必死で堪えた。少なくとも目の前で無抵抗に見つめているあたしには気づいていない様子だ。その『何か』は、うんざりするくらいに緩慢な速度で玉座の表面を這い降りていく。
(その先に一体何があるって……っ!?)
見てしまった――ついさっきまで『パパ』と呼んでいた物の残骸を。
金属球の衝突を正面からまともに受けてしまったのだろう。身体の大部分は下敷きになり、その途轍もない質量ですり潰されてしまったのだろう。面影が感じ取れるのは右耳だけだった。あとは新鮮なミンチ。粉々になればあんなに大好きだった実の親だってグロテスクだわ――もうそんな感想しか浮かんでこないあたしは、きっとおかしくなってる。狂ってしまったんだ。
だが――まだそれ以上の狂気がこの世にはあったらしい。
(ねえ、パパに何をする気? ………………まさか、耳から入ろうとしているの!?)
血よりも毒々しいほどに真っ赤なナメクジ状の生物は、さっきみた葉脈に似た触腕を伸ばし、パパの耳孔のあたりを丹念に調べていったが、どうやらすでに死亡していることにいまさらながらに気づいたらしかった。急に垂直に姿形を伸ばして起き上がると、周囲を観察して。
“あたしを見つけた。”
「う、嘘……じょ、冗談でしょう!? こないで……こっちにこないで……っ!!」
ぬちゃり。
ぬちゃり。
「い、いや……いや……いやぁあああああ!」
それはゆっくりと、だが確実にあたしを目指して這い進んでくる。あたしは必死になって空いている両手で動かない下半身を引きずりだそうとした。でも、いくら精いっぱいのチカラを込めて両手を突っ張ってもびくりともしない。
「来ないで! やめて! あたしに構わないで!」
そうしているうちに寄りかかっていた瓦礫が崩れ、バランスを崩しそうになる。もしここで倒れてしまったら、もう一度身体を起こせるか確信が持てない。左手を大きく後ろについて支えると、右手で手探りして触れたモノから見境なく投げつけて追い払おうとする。
だが――。
「や、やめて……いや……いやよ……! か、神様、どうかお救いください! どうか!!」
それは二本の腕すら満足に動かせないあたしをからかうような動きであっけなくあたしを取り囲むと、ぬるぬるとした触腕を這わして徐々にあたしの上半身の方へと這い上ってきたのだ。ナメクジや粘菌のようだと思っていたのは大間違いだった。なんて速くて、なんて狡猾で。
(気持ち悪い気持チ悪イ気モチワルイ!!)
その『何か』はまるで愛撫でもするかのように、官能的な仕草で――神様お許し下さい――あたしの右耳に触れると、はじめは少しずつ、徐々に大胆に強引に本格的に凌辱を――神様お助け下さい――開始した。ときおり、まるで自分の身体が自分のものでないかのように感じるほどの途方もない恍惚感が――神様どうか、どうかお許し下さい――脳内に弾けた。
そして――前触れもなく音が遠くなる。
(鼓膜を破った……の? 音がよく――)
手で掴もうにも粘着質の表面が邪魔をしてうまくいかない。ましてや自分の耳を鏡なしで見ることができる人なんているだろうか。意識が朦朧としてくる。水平感覚が失われ、眩暈がしてくる――ごん!――気づいた時には身体が横倒しになっていた。『何か』のはしゃぎようったらない。左の耳でも聞こえるくらい、びちゃりびちゃり、と身体を震わせ粘液を撒き散らして、喜び勇んであたしの耳の中の、そのさらに奥へと進もうとしている。圧迫感で頭が弾けそう。
そして、
だんだんと、
あたしは、
あたしでない『何か』に。
(ああ、神様……どうしてこのわたくしをお救い下さらないのですか? どうして――)
もう終わりだ――虚ろでちっぽけになってしまった意識であたしは神様を責めた。もう悲しみも感じないのに涙が零れた。頭の中の思考の大部分が、あたしでない『何か』になっていく。
その時だ。
「ねえ! お姉ちゃん! しっかり! しっかりしてぇえええええ!」
――そうだった!
あたしがもしここで、あたしでない別の『何か』になってしまったら、櫂君はどうすればいいというの? 偽物のあたしと生きる? そんな馬鹿な話ってない。櫂君にはもう、お姉ちゃんのあたししか残ってない。あたしにはもう、ちっちゃな可愛い弟の櫂君しか残ってないのだ。
(神よ――あなたがこの哀れな子羊をお助けいただけないのであれば――!)
右手で手さぐりして目当ての物を探す――あった!
(あたしは、あたしの愛する弟のために、喜んでこの手を汚しましょう! そして――!!)
あたしは――ぶちり!――右手で握りしめたロザリオのチェーンを一気に引き千切ると、ありったけのチカラで逆手に構え、狙いを定め、
(このくそったれの赤い悪魔を葬り去れるのであれば、喜んで地獄へ堕ちましょう――!!)
――ずどん!
そうして、あたしは右耳の中に、血がにじむほど握りしめたロザリオを突き立てたのだった。
まだ視界が揺れて、ぼやけて、ときおり明滅している。
(たしか、さっき……)
なんだっけ、と思考が乱れて、ともすればそのまま目を閉じてしまいそうになる。けだるい身体に鞭を打って、横倒しになった体勢から上半身を起こそうとして――。
「痛っっっ!!」
たちまち脊髄を脳天に向けて駆け抜けた激痛に、あたしの意識は無理やり覚醒させられた。一瞬で熱を帯びた首筋とは正反対に、自分の両足の感覚がない。凍りついたように冷えている。
「ひぐ――っ!!」
反射的に目を向けてしまったのは失敗だった。自分の両足のあったあたりには大量に降り注いだ瓦礫が折り重なっていて、かろうじて目に映る範囲の肌はどす黒い紫色に変色していた。それを目にした途端、機械的に胃の中から違和感をともなった固形物がせり上がってきて、あっという間に気管を塞いでしまう。だが、その動作ですらさらなる激痛を呼ぶ材料でしかない。
「うぷっ………………うげぇ……げほげほっ……!」
呼吸を確保するために身を折ることすらも許されず、溢れ出るままに口腔に溜まった異物をなんとか舌で押しやる。じんわりと胸元に広がるすえた臭いと温かさ。ぐったりと寝転がり、ぽっかりと空いてしまった天井を見上げながら、苦しさと哀しさと心細さで涙が溢れてくる。
(なんで……なんでこんなことに……どうして……!?)
もうここは危ないから、青森のおばあちゃんちに家族みんなで行くことになって。
そのための準備をパパとママとあたし、そして大好きな弟の――。
「か――櫂!?」
はっ、と気づく。
必死で上半身を支え起こした。
「櫂君!? どこにいるの!? ねえ、お返事して!!」
返事はない。
「ねえ、お願い! 櫂君! しっかりして! 目を覚まして! お返事して!」
「う――」
たしかに聴こえた!!
「う――。お姉ちゃん? どこ? なにが起こったの? どこにいるの? 怖いよぅ……!」
「ご――ごめんね。お姉ちゃん、今……ちょっと動けないんだ……。櫂君は怪我してない?」
「してる。おひざすりむいちゃった……痛いよぅ……」
しくしくとすすり泣く声が聴こえてきて、かわいそうと思う反面、嬉しくて自然と顔がほころんでしまった。櫂君だけでも無事なら――もしあたしが、このまま助からなくったって。
「……っ」
さっきまではこんなんじゃなかった。
ごく普通の一日で、みんなでお出かけの準備をしていて。
パパもママも、櫂君もいて。
けれど、今の住み慣れた我が家には、その想い出のカケラひとつ残されてはいなかった。澄み渡った青空を映していた窓ガラスはすべて粉々になり、四季折々の風景を切り取ったカレンダーが掛けられていた壁は跡形もなかった。懐かしい匂いのする家具の一切は見るも無残な姿を晒し、あちらこちらに洋服やら小物やらだった物が無分別に無雑作に巻き散らかされていた。
そのすべての元凶は――目の前にある、この銀色に輝く金属球。
――かしゅっ。
絶望と憎しみの入り混じった視線を感じ取ったかのように、その傷どころか繋ぎ目ひとつ見当たらない滑らかな表面に、瞬く間に複雑な幾何学模様の線が駆け抜けたかと思うと、ため息のようなかすかな音とともにゆっくりとそれがずれ、徐々に境界をくっきりと浮き立たせた。
(動いてる……! まさか、これ……生きているの……!?)
思わず息を止める。
テレビで見た物と同じ――いや、大きさで言えばあのミニチュア版といったサイズだ。だが、あれが動いたとか、ましてやあの中から何かが出てきただとか、そんな話はひとつも報道されていなかったはずだ。それが、そのあり得ないことが今あたしの目の前で起ころうとしていた。
「……お姉ちゃん?」
「ダメ! 櫂君! 今は静かにしていて!」
思わず鋭い声が出てしまう。金属球の表面で起きている現象がふたりの声を察知したかのように一瞬止まり、潜める息の限界に近付いた頃に再び動き出した。
「お、お姉ちゃん!?」
「櫂君! 絶対に出てきちゃダメだよ!? そこでじっと隠れていて! お願いだから!!」
もう金属球は止まりはしなかった。むしろその動きは加速していく。緻密で複雑怪奇な構造をしたパズルのように、次々と分かれ、広がり、捻じれてはそれ本来の姿へと変貌していった。
「こ――これって、まさか――!?」
――かしゅん。
これはまるで玉座だ。最後のため息ひとつを漏らしたそれは、中世の王が座するような豪奢な銀色の椅子のごとき姿で身動きひとつ取れないあたしを冷たい輝きを放って見下ろしていた。
そこから――ぬちゃり。
「――っ!?」
『何か』が出てきた。
真っ赤な、血のように赤い蠢く『何か』が、葉脈のような幾何学模様を描いて玉座を模したそのひじ掛けあたりに広がり、次にその先端が、ぷくり、ぷくり、と風船のように次々膨らんだかと思うと、蛍光色の黄色がかった模様が不気味に表面に浮かび上がった。
何かで聞いたことがある――『シュミラクラ現象』って奴だわ。ヒトは三つの点の集合体を目にすると、本能的に『顔』であると認識するように脳にプログラムされているんだって。
その三つ、四つの魂亡き虚ろな人面の動きを今か今かと待ち構えていると、それらのさらに奥から、ひときわ大きなぬめりとした物体がずるりと這い上がってきた。その姿はまるで――。
(真っ赤なナメクジみたいだわ……それとも粘菌? アメーバ? まさか……スライム?)
どれも図鑑の中くらいでしか目にしたことはないという点において、現実なのか空想なのかは別にして、あたしにとってどれも似たようなものだった。気色悪い――うん、それもたしか。
(一体何を――?)
あの姿で人間の声を、言葉までも理解できるかどうかは疑わしかったけれど、声は出さないように必死で堪えた。少なくとも目の前で無抵抗に見つめているあたしには気づいていない様子だ。その『何か』は、うんざりするくらいに緩慢な速度で玉座の表面を這い降りていく。
(その先に一体何があるって……っ!?)
見てしまった――ついさっきまで『パパ』と呼んでいた物の残骸を。
金属球の衝突を正面からまともに受けてしまったのだろう。身体の大部分は下敷きになり、その途轍もない質量ですり潰されてしまったのだろう。面影が感じ取れるのは右耳だけだった。あとは新鮮なミンチ。粉々になればあんなに大好きだった実の親だってグロテスクだわ――もうそんな感想しか浮かんでこないあたしは、きっとおかしくなってる。狂ってしまったんだ。
だが――まだそれ以上の狂気がこの世にはあったらしい。
(ねえ、パパに何をする気? ………………まさか、耳から入ろうとしているの!?)
血よりも毒々しいほどに真っ赤なナメクジ状の生物は、さっきみた葉脈に似た触腕を伸ばし、パパの耳孔のあたりを丹念に調べていったが、どうやらすでに死亡していることにいまさらながらに気づいたらしかった。急に垂直に姿形を伸ばして起き上がると、周囲を観察して。
“あたしを見つけた。”
「う、嘘……じょ、冗談でしょう!? こないで……こっちにこないで……っ!!」
ぬちゃり。
ぬちゃり。
「い、いや……いや……いやぁあああああ!」
それはゆっくりと、だが確実にあたしを目指して這い進んでくる。あたしは必死になって空いている両手で動かない下半身を引きずりだそうとした。でも、いくら精いっぱいのチカラを込めて両手を突っ張ってもびくりともしない。
「来ないで! やめて! あたしに構わないで!」
そうしているうちに寄りかかっていた瓦礫が崩れ、バランスを崩しそうになる。もしここで倒れてしまったら、もう一度身体を起こせるか確信が持てない。左手を大きく後ろについて支えると、右手で手探りして触れたモノから見境なく投げつけて追い払おうとする。
だが――。
「や、やめて……いや……いやよ……! か、神様、どうかお救いください! どうか!!」
それは二本の腕すら満足に動かせないあたしをからかうような動きであっけなくあたしを取り囲むと、ぬるぬるとした触腕を這わして徐々にあたしの上半身の方へと這い上ってきたのだ。ナメクジや粘菌のようだと思っていたのは大間違いだった。なんて速くて、なんて狡猾で。
(気持ち悪い気持チ悪イ気モチワルイ!!)
その『何か』はまるで愛撫でもするかのように、官能的な仕草で――神様お許し下さい――あたしの右耳に触れると、はじめは少しずつ、徐々に大胆に強引に本格的に凌辱を――神様お助け下さい――開始した。ときおり、まるで自分の身体が自分のものでないかのように感じるほどの途方もない恍惚感が――神様どうか、どうかお許し下さい――脳内に弾けた。
そして――前触れもなく音が遠くなる。
(鼓膜を破った……の? 音がよく――)
手で掴もうにも粘着質の表面が邪魔をしてうまくいかない。ましてや自分の耳を鏡なしで見ることができる人なんているだろうか。意識が朦朧としてくる。水平感覚が失われ、眩暈がしてくる――ごん!――気づいた時には身体が横倒しになっていた。『何か』のはしゃぎようったらない。左の耳でも聞こえるくらい、びちゃりびちゃり、と身体を震わせ粘液を撒き散らして、喜び勇んであたしの耳の中の、そのさらに奥へと進もうとしている。圧迫感で頭が弾けそう。
そして、
だんだんと、
あたしは、
あたしでない『何か』に。
(ああ、神様……どうしてこのわたくしをお救い下さらないのですか? どうして――)
もう終わりだ――虚ろでちっぽけになってしまった意識であたしは神様を責めた。もう悲しみも感じないのに涙が零れた。頭の中の思考の大部分が、あたしでない『何か』になっていく。
その時だ。
「ねえ! お姉ちゃん! しっかり! しっかりしてぇえええええ!」
――そうだった!
あたしがもしここで、あたしでない別の『何か』になってしまったら、櫂君はどうすればいいというの? 偽物のあたしと生きる? そんな馬鹿な話ってない。櫂君にはもう、お姉ちゃんのあたししか残ってない。あたしにはもう、ちっちゃな可愛い弟の櫂君しか残ってないのだ。
(神よ――あなたがこの哀れな子羊をお助けいただけないのであれば――!)
右手で手さぐりして目当ての物を探す――あった!
(あたしは、あたしの愛する弟のために、喜んでこの手を汚しましょう! そして――!!)
あたしは――ぶちり!――右手で握りしめたロザリオのチェーンを一気に引き千切ると、ありったけのチカラで逆手に構え、狙いを定め、
(このくそったれの赤い悪魔を葬り去れるのであれば、喜んで地獄へ堕ちましょう――!!)
――ずどん!
そうして、あたしは右耳の中に、血がにじむほど握りしめたロザリオを突き立てたのだった。
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