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9本目 女子バスケットボール部の挑戦

狙い通り 90

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 小首を傾げてから、それでも翠さんは答えてくれた。
わたくしは、物心つく前から色々と習い事をさせられたり、家の関係で将来のことを言い聞かされたりして育ってきたんだけど……」

 やっぱりお嬢様には、その立場ならではの苦労もあるのだろう。

「走っている間だけは、そういうことから自由になれて、なりたい自分に近付けるように感じられて……だから中学では陸上部に入ったし、大会が終わった後も地区のグラウンドで走ることだけは続けていたの。そうしたら、そこを通って帰る子が毎日、立ち止まって見ていくようになって」

 それが奈津姫さんだったという。

「毎日走ってるけど何か目標でもあるのか? ってきかれたから、こうして走る自分でいることが目標って答えたの。変なヤツって言われたけど、なっちゃんも自分のペースで走りにくるようになったのよ」

 奈津姫さんは中学で全国大会出場まで果たしながら、しかしバスケの強豪校には進学しないことを決めた後だった。

「そのうち、なっちゃんも色々と話してくれるようになって、バスケットボールを使って一対一みたいなことをして遊ぶようにもなって。ゴールは無かったけどね。なっちゃんはすごく上手いのに、もう部活ではバスケはやらないって言っていて」

 バスケ部に所属すること自体を中学まででやめるつもりだったというのは初耳だった。

「そんなのダメだって言う私とケンカみたいな風にもなったんだけど、結局は私がバスケ部に入るから一緒に入ってってことになったの。同じ学校に進学することにはなってたしね」

 ケンカをする2人の様子は……わりと容易に想像できた。お互い相手のことになると譲らなそうだ。

「まさか私の方が副部長になって、なっちゃんが帰ってきてくれるのを迎えることになるなんて、想像もしていなかったけど」

 翠さんはコートへと目線を向ける。

 マークしている相手にボールが渡ったけれど、奈津姫さんは一歩も通さない勢いでビッタリと張り付いている。逆にボールを狙ってプレッシャーをかけていく。この試合を通じて、あの相手選手はほとんど得点できていなかった。

「……そうね。私は今、本当に幸せだわ」

 奈津姫さんが練習に出てこなくなった時点で翠さんが部活を辞めず、副部長まで務めるに至った――その理由は多分、僕にも分かっていた。

   ●

 3点差で始まった第3Qだが、翠さんのテクニカルファウルとその前後のプレーだけでも更に5点離された。あるいはそのまま差を広げられてしまうかもしれない、とも思ったのだが――。

 点差は1桁のままに留まっていた。

 嶺南の攻撃も強力だが、あちらもエースの9番だけでは必ずしもスミレ子さんを止めきれない。

「スミレ子さん、あんなに上手かったんですね」

 あの2人のマッチアップは、どちらもドリブルが低くて足の動きも速くて、しかもどこに目が付いているのかというような動きを互いに繰り出している。

「……あの子、身体能力とスタミナはとんでもないけれど、動きのバリエーションなんかはそんなに多くはなかったのよ」
 翠さんがじっとコート内の様子を見ながら言った。
「なっちゃんが復帰してから釣られるようにどんどん上手くなってきて、そして今日は、私が一度も見たことのない攻め方すら使っているわ。今まで手加減して、ずっと隠していたなんてこと、あるかしら……?」

 そんな印象はない。新入生だとか外国籍だとかいうことで遠慮して下手なふりをする人ではないはずだ。練習だけならともかく、地区大会だってあったわけだし。

「え、まさかスミレ子さんて……」

「私も信じられないけれど……試合の間であっても、強い相手と対戦することで、どんどん上手くなっているの?」

   ●

 そうしてブザーが鳴り、選手たちはベンチへと引き揚げてきた。

 2分間のインターバル、つまり休憩を挟んだ後、最後の第4Qが始まる。

「明日佳、大丈夫だった?」
 翠さんが尋ねる。この後は交替することが先生から既に告げられていた。マークする相手の情報は引き継ぐ必要があるし、何より心配だったのだろう。

 例の相手と対戦してきた明日佳さんは、僕から受け取ったボトルのストローを咥えたまま大きな目を見開いて頷いた。
「うん、だいじょぶだいじょぶ」

「でも、手を出してきたでしょう?」

「あー、触ってきたきた。だからウチの方からも手ぇ撫でて指絡めてあげたら、なんか怖いもの見るような顔で見てきたから……」

「え?」
 翠さんが固まる。

「更にケツ揉んで耳に息かけて、どさくさ紛れに乳も触らせてもらったら、なんか寄ってこなくなったよー?」
 顔の横で手を握ったり開いたりしながら、アハハハ! と声を上げて笑う明日佳さん。ベンチは一瞬、無言になった。

 しかし翠さんが吹き出すと、みんなツボに入ったのか爆笑に包まれた。審判や相手チームだけでなく、客席からも注目を浴びてしまうくらいに。

 奈津姫さんは手を叩いて喝采し、わりと落ち着いて振る舞う香織さんでさえお腹を抱えて目に涙を浮かべていた。

 スコアブックを見せてもらうと、相手の5番はこの間、本当に無得点だった。

 リードされている状況で最後の10分間に挑むとは思えないような明るい雰囲気でコートへと戻っていく、そんな5人を見つめながら千華子先生は苦笑した。
「明日佳のも反則だからな」

「笛が吹かれたら、ですね」
 僕は小声でそう返した。小さな声だったので、きっと先生の耳には届かなかったのだろう。叱られたりはしなかった。


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