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3本目 女子バスケットボール部の幽霊部員
雨の間 35-8
しおりを挟む「ご休憩」「ご宿泊」といった文字が踊る価格表。
スマートフォンを触りながら、その脇にある上り階段へと奈津姫さんは進んでいく。
「しばらくやみそうにねーな。しゃーない、入るぞ」
「え……入るんですか?」
「こんな所で雨宿りしてたら完全に営業妨害だろが。やべーヤツに摘み出されっぞ。それに、乾かさねーと風邪ひくだろ?」
確かに、僕は撥水性のあるウィンドブレーカーを借りられたので首元などから入り込んできたくらいだけど、奈津姫さんのデニムパンツは雨に打たれて色が変わってしまっている。
躊躇なく足を進める彼女について階段を上ると、その先に部屋の扉があって、開けると自動音声の案内が流れた。
「こういう所、入ったことあるんですか……?」
「翠とな」
「は?」
目が点になってしまった僕に構わず、奈津姫さんは室内へと入っていく。
「あ、そうだ、お金とか……」
「アタシの責任だからアタシが持つ。バイク通学のためにバイトさせてもらってるから気にすんな。とにかく来い」
仕方なく後に続く。お金については後でもう一度確認しよう。
「先に風呂入れ」
「いえ、奈津姫さんが先に」
「いいから早くしろ。居られると脱げない。アタシに気を遣うなら先に入れ」
強くそう言われたので、急いでバスルーム方面に飛び込んだ。
アパートの風呂よりだいぶ広い浴室で、手早くシャワーを浴びる。体は意外に冷えていたようで、熱いお湯が心地よかった。
バスローブを羽織り、服は手に持って部屋に戻ると、奈津姫さんも同じ姿になっていた。
●
「あの、この体勢だと画面が見にくくありませんか?」
「べつにいいだろ。アタシ、弟欲しかったんだよ。妹は『ゲームは卒業』とか言って付き合ってくれねーし」
実の弟は、ソファに座った姉の脚の間に腰を下ろしたりしないと思う。その上で、姉は両側から弟の前に腕を回して、抱えるような体勢でスマホゲームとかしないと思う。多分。
外は雨がまだ止まないので、スマートフォンをホテルのWiFiに繋ぎ、奈津姫さんがハマッているというゲームに付き合っているところだ。
部屋のあちこちには濡れた服が広げてある。入れ替わりに彼女が入浴している間から、僕は目のやり場に困らされているのだ。
いや、最も目を向けるわけにはいかない対象は、僕のすぐ後ろにあるのだけど。
これ絶対、バスローブの下に何も着けていないだろう。ソファより遥かに柔らかいし。
さすがに、もう気付いていた。この人も、女子バスケ部の一員として僕の「弱み」を知っているのだと。
「希は、きょうだいとかいるのか?」
「ええと……」
嘘を吐く必要もないのだけど、聞かせて楽しんでもらえるような話でもないので考えてしまう。
「え? 黙るとこ?」
「あ、いえ……いるはずなんですけど、よく知らないんです」
「え?」
たまたま同じクラスになったくらいの相手との日常会話だったら、無難に「いない」で済ませたかもしれない。
でも多分、部の人たちにはいずれ知られてしまうので、初めから話しておいた方がいいと思った。
「母親が、物心付く前に亡くなっていまして。両親は祖父母と、それから父の妹と同居していたので、その父の妹――叔母にあたる人が、母親代わりを買って出てくれたんです」
厳密に言うと祖父と祖母とは再婚同士で、父とその妹は連れ子。だから義理の叔母というのかもしれないけれど。
「独身になった父に、やがて新しいパートナーができました。でもその人は僕がいるということを知らなかったようで……けれど父との間には子供ができていました」
スマートフォンの画面の中で、奈津姫さんのキャラクターが静止したまま、追ってきた相手に攻撃されてしまった。
「結局、父は新しい家庭を作って、僕は叔母に任せられたので……その弟か妹のことは分からないんです」
僕は選ばれなかったのだ。
「そっか……」
奈津姫さんはスマートフォンをソファに置いて、僕の髪を触ってくれていた。
「あ、でも叔母が何不自由なく育ててくれたので、特に困ってないですよ?」
むしろ伶果さんが一番、困っただろう。
「うん」
腕が僕の体に回され、更にぎゅっと引き寄せられた。
「いや、ですから……べつに辛い記憶を話したとかいうことじゃないので、気を遣わなくても……」
そう言ったが、奈津姫さんはしっかりと僕を抱きしめながら耳元で囁いてきた。
「今の話する前からアタシ、オマエのことこんなふうにしてただろ?」
「あ、はい、まあ……」
確かに、ゲームをしている時から既にこんな体勢だったけど。
「アタシがしたいから、こうしてるだけだ。うん、こうすると結構、気持ちいいな。それに……」
雨は止まないけれど、部屋の中は暖かい。定額の料金でここにいられる時間は、まだしばらくあるようだ。
「今日、話を聴いてもらったのは……アタシの方だったしな」
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