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1巻
1-2
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私を愛していると言っていたクリス様は、私ではなく聖女様を選んだのだ。このままひと月後に彼と結婚するなんて無理だと思った。
知らないままと、知ってしまった今と、どちらがましなのだろう。
「リア……、リア……っ」
床に座ったまま泣きじゃくる私をお母様が抱き締める。私はお母様の背中に腕を回した。お父様は立ったまま、拳を強く握り締めていた。
ひとしきり泣いて、私は自室へ戻った。
机の引き出しを開け、クリス様から貰った物を入れている大切な小箱を取り出す。
小箱の中身は亜空間魔法で拡げられていて、沢山の物が並んでいる。
幼い頃に貰った花冠、お菓子の包み紙、壊れた羽根ペン、金の宝石のブレスレット、私の瞳の色の宝石で作らせたイヤリング……
他人から見たら下らないものから高価なものまで、全てが私の宝物だった。
聖女様に心変わりをしたクリス様はおそらく婚約を解消しようと言うだろう。ひと月後の結婚式の相手は聖女様と入れ替えられるのだ。
それならばいっそ、これらは捨ててしまおうか。
乾いた笑いを零していると、侍女が湯浴みの準備ができたと呼びに来た。
湯に浸かると、身体の奥底の冷えた場所まで温まる気がする。
これからどうすれば良いだろう。婚約が解消されて、その後、また誰かと婚約する事になるんだろうか。そして、また、誰かに奪われるのだろうか。
そんな考えが頭を過り、ぞわりとした。
(嫌だ……絶対にいやだ)
こんな思いは一度だけで充分だ。もう二度としたくない。それならばいっそ、愛など要らない。ただの政略結婚で良い。もう、裏切られるのは嫌だ。
嫌な想像を振り切るように湯船から勢いよく立ち上がった。控えていた侍女がふわりと風と火の魔法で髪を乾かし、私の身なりを整えていく。
「夕食の準備ができましたらお呼びいたします。それまではゆっくりお休みください」
「ありがとう」
侍女が退出した後、私は寝台に身体を預けて目を閉じた。
『アス、きみが愛おしい。愛しているよ』
『アストリア、……アス、愛している。きみと婚約できて私は幸せ者だ。愛しているのはきみだけなんだ』
『アス、お願いだ、信じて……』
夢を見た。幸せだった日々が真っ黒に塗り潰され、目覚めた私は全身に汗を掻いていた。
窓の外を見ると、月明かりが部屋を照らしている。
『アス、おいで。ダンスをしよう』
いつかの夜会で月明かりの中ダンスをした事、魔法学園で競い合った事、国の未来を語った事……クリス様との思い出が浮かんでは消えていく。
「これからは……もう、思い出は増えないのね……」
そう思うと、意識しなくても目から雫が頬を伝った。
夕食の席に着くと、お父様が沈痛な面持ちで口を開いた。
「王宮から緊急呼び出しの鳩が飛んで来たよ。明日、アストリアを連れて王宮に上がるようにとの事だ。……大事な話があるらしい」
「そうですか……。承知しました」
きっとクリス様との婚約が解消されるのだろう。聖女様と結ばれるためにはまず私という障害を排除しなければならない。私さえ承諾すれば、聖女様と王太子の婚約は容易く成立する。
──いや、伯爵令嬢の承諾などないに等しい。
教皇派と和平を結べるのなら国王陛下は聖女様を取るだろう。
王太子殿下と聖女様が運命の出会いを果たし、愛を育んで結婚する。民衆が好みそうなラブストーリーの出来上がりだ。二人の間に立ち塞がる邪魔な婚約者はいてはいけない。
クリス様が選んだのは、私以外だった。ただ、それだけだ。
翌日、両親と共に馬車で王宮に向かった。
王族からの緊急呼び出しのため、すぐに門を通され、王宮の一室に通された。
「よく来たな、ベーレント伯爵、並びに夫人と御令嬢よ」
「国王陛下におかれましてはご機嫌麗しゅう存じます」
「よい、楽にせよ。緊急の呼び出しに応じてくれて感謝する」
「勿体なきお言葉、痛み入ります。一臣下でありますれば陛下からの招集に馳せ参ずるのは当然でございますゆえ」
お父様と国王陛下とのやり取りをぼんやりと聞きながら辺りを窺う。
豪奢なソファには国王陛下と、隣に無表情の王妃陛下が腰かけている。その右側にある二人がけのソファには、やはり無表情のクリス様……と、その腕に掴まって震えている聖女様がいる。
陛下の左側にあるソファには無表情のディールス侯爵と、クリス様の側近でもある侯爵令息クラウス様がいた。眉根を寄せ、どこか不機嫌そうだ。
私たちはテーブルを挟み、国王陛下と対面する位置に着席した。陛下の合図で護衛以外の使用人は一斉に下がり、辺りは重苦しい空気に包まれた。陛下が口を開く。
「さて、単刀直入に言おう。王太子クリストハルトとベーレント伯爵令嬢の婚約は白紙にする。クリストハルトの新たな婚約者はそちらにいらっしゃる聖女エミリア様だ」
まさか、と言うより、やはり、という方が勝った。それでも突き付けられた事実に胸が痛む。
「なぜ、と伺っても?」
お父様は膝の上で拳を握り、陛下に問いかけた。
「先の魔物討伐の際、愚息クリストハルトは聖女と情けを交わした。結果、聖女の腹には子が宿っている。ゆえに、ひと月後の結婚式はそのまま聖女と行う」
陛下の言葉に王妃様は顔を顰め、聖女様は頬を染める。侯爵たちは息を呑んで固まっている。
「ベーレント伯爵令嬢には済まないが、理解してほしい」
ちらりとクリス様に目をやるが、彼は私の方を見ていない。不安そうな聖女様を見つめ、宥めるように手を絡めていた。
私は表情を変えず、陛下を見据えた。
「承りました」
アッサリと了承したのが意外だったのか、国王夫妻も侯爵様たちも──クリス様すら息を呑んだ。私は顔を俯け、じっと時が過ぎるのを待った。
「……ベーレント伯爵令嬢、すまない。だが、そなたは優秀な魔法使いでもある。そこでだ。ディールス侯爵令息であるクラウスとの婚姻を命じる」
「……え……」
陛下の言葉が信じられなくて、思わず声が出てしまった。何か言わなければ、と思うけれど唇が震えて動かせない。
「おそれながら陛下、それは認められません!」
ガタッと大きな音を立ててクラウス様が立ち上がった。青緑色の髪を振り乱し、唇を噛み締めている。陛下の御前で不敬ではあるけれど、憤る気持ちはよく分かる。
「クラウス、止めないか」
「父上、私には心に決めた女性がいると言っているではありませんか! 彼女との婚姻を認めていただけるように日々努力してきたつもりです。なのにこんな……彼女以外と婚姻せよなど……」
〝受け入れられるはずがない〟
クラウス様は最後、声を掠れさせ項垂れるように言って膝を突いた。
「ベーレント伯爵令嬢を宙に浮かせる訳にはいかんのだ。彼女の魔力の高さは知っておろう。万が一の時、伯爵家では守れぬ。そなたたちは仲がよかっただろう?」
クラウス様は悲愴な顔をして頭を振った。
(仲が良かったのは、結婚するためではないのに)
クラウス様の想い人は知っている。彼女は子爵令嬢で、身分差があるためにディールス侯爵が結婚を認めてくれないとボヤいていたのを思い出す。
『早く彼女と婚約したいです』
その子の話をする時、大切そうに、愛おしそうに微笑んでいた。そんな彼が私を選ぶはずがない。私だって二人を応援していたのだ。
「殿下も何か言ってください! 貴方が聖女なんかに心変わりをしなければ……!」
「クラウス、すまない。僕はエミリアを愛してしまったのだ。ほら、美しい髪色をしているだろう? 僕にはもう、彼女しか見えないんだ」
「殿下……ッ‼」
クラウス様はクリス様に掴みかかる勢いだったけれど、危険を感じたのか聖女様が防御魔法を展開した。
しばらく二人は睨み合ったが、やがてクリス様が聖女様を窘めて防御魔法を解除させた。
「クラウス、私の妻となる女性に乱暴はいけないなぁ……」
「殿下……?」
「先程陛下が言ったよね。エミリアは私の子を宿していると。きみは未来の王子や王女に危害を加えるつもりかい……?」
クリス様は怒っているのか、辺りを威圧するように魔力を高めた。今まで見た事がないその姿を見て、クラウス様は勿論私も面食らってしまった。
(聖女様を守るために変わられたのね……)
いつも優しい笑顔を浮かべた光の王子様。私の大好きな人は、もう、いない。
「ディールス侯爵令息よ、これは王命だ。そなたにはベーレント伯爵令嬢と結婚してもらう」
「御命令、しかと賜りました」
ディールス侯爵様がクラウス様の頭を下げさせ、王命を受けた。
「ベーレント伯爵令嬢もよいな」
「……慎んで、お受けいたします」
これは王命。断れるはずもないのだ。臣下の気持ちなど考えていない無慈悲な命令に、怒りを通り越して呆れてしまった。
「円満に離婚できる方法を探す?」
「ええ、貴方もこの王命に納得していないのでしょう?」
後日、婚約者同士の交流を名目として、私はディールス侯爵邸を訪れた。
「王国の歴史は長いわ。今回のような王命を覆せる法律があるかもしれないから、王立図書館で調べてみようと思うの」
この国では、王族が暴走しないように貴族派と教皇派が常に睨みを利かせている。それでも時折独断で決められてしまう事があるため、それに対抗する法律が他の二派によって制定されるのだ。
例えば不当な増税などは期限が定められたり。
望みは薄いかもしれないけれど、結婚に関しても何かないかと調べてみる事にした。
「分かった。じゃあ婚約者として交流の時間という事にして、それを調べる、でいいか?」
「ええ、いいわ。毎日会うのは無理だろうから、私一人でも調べるわ。ほら、王太子妃教育も……なくなっちゃったから暇ができたしね」
おどけてみたけど、上手く笑えているかは分からない。
「無理はするなよ」
「……うん、ありがとう」
それから交流会の時は二人で、クリス様の側近であるクラウス様が仕事の時は私一人で、図書館にある法律関係の本を読み抵抗する術はないか探した。
王国の長い歴史で作られた法律の数は膨大で、本も一冊が分厚い。それらしき本を魔法で探しても、具体案となるとなかなか思うようにいかなかった。
けれど、クラウス様という協力者がいる事は、とても心強かった。
「こうして協力するのも久しぶりだな」
「そうね。以前は確か……」
「位置替えの魔法を編み出した時だな」
私は学園にいた頃から、魔法を作る事が好きだった。魔法は言葉を組み合わせて作る事ができる。組み合わせた言葉に魔力を乗せて発するのだ。
ある日、クリス様を待っている間、私は風属性の魔法を思い付いた。けれど赤茶色の髪の私は、人前では風魔法は使えない。試してみたくてウズウズしていたところへ、ちょうどいいタイミングでクラウス様がやってきたのだ。
「アストリア嬢? 何をしているのですか?」
「クラウス様。新しい魔法を考えてみたのです。自分と遠くにあるものを入れ替える魔法です」
私が作ったのは『ロクス・エンドレ』という呪文。風を使った転移魔法の亜種だった。
「理論上はできるはずなんですが、私は風魔法が使えませんので……」
本当は全属性が使える。けれど人前で公には使えない。
家に帰ってやればいいのだけれど、今すぐ試したい私はクラウス様に期待の眼差しを向けた。
「私がやってみましょうか」
「さすがクラウス様、話が分かる方で素敵」
「はいはい。……試しにあそこにある像と入れ替わりましょう。えっ、と」
「『ロクス・エンドレ』ですわ」
クラウス様はコホンと咳払いをして、飾ってある騎士の像に向かって唱えた。
「『ロクス・エンドレ』」
すると、像とクラウス様の場所がスッと入れ替わった。
「成功ですね!」
もう一度唱えると、元の場所に戻る。像も元の場所に戻った。
「ありがとうございます、クラウス様」
「どういたしまして。何かの時に使えますかね」
二人で魔法の使用場所を考えていると、ふと影が差した。
「クラウス、アスと何をやっているんだ?」
「クリス様。お待ちしておりましたわ」
「お待たせ。じゃあね、クラウス」
クリス様は目を細め、クラウス様を睨む。そのまま私の腰に手を添えて馬車へ向かった。
……うん、嫌な記憶を思い出したわ。ちゃんと集中しよう。
「……あ、アストリア、これはいけるんじゃないか?」
過去の記憶にふけっている間、クラウス様は何かを見つけたようだ。差し出された書物を読むと、確かに、これならいけそうだ。
「しかし、一体クリスも陛下も、何を考えているんだか……」
「さあね。案外何も考えていないのかもよ? ……それより名前」
「っと、すまん。気安かったな」
「幼馴染みでもあるし、一応婚約者なんだし、いいわ。私も呼び捨てにする。フィオナ様にはちゃんと説明しといてね」
フィオナ様というのは、クラウスの想い人だ。クラウスは何か言いたげな顔をして、小さく溜息を吐いた。
♢ ♢ ♢
「アストリア」
クラウスに名前を呼ばれ、ハッと意識を浮上させる。馬車はいつの間にか王城に着いていた。
「入場の時だけエスコートをする。その後はファーストダンスを。それが終わったらお互い自由にしよう」
「わかったわ」
夫となるクラウスの手を借り馬車を降りる。無表情の彼は、きっと私と踊った後はフィオナ様のもとへ行くのだろう。私と彼の結婚は避けられない。けれどお互い希望は失っていない。
──ふと、大聖堂で会った方を思い出す。
(あの方の手を取って一緒に逃げていれば何か変わったのかしら)
空を見上げても、あいにく曇って星一つ見えなかった。
王城の成婚パーティー会場に入ると、辺りにいた人たちは一斉に私たちの方を向いた。
扇の奥で隣り合った人とヒソヒソと話し合う人もいた。
不躾な視線に充てられたのか、クラウスが息を呑んだ。私が無表情でクラウスに添えた手に力を込めると、彼はハッとしたように歩き出した。
「この度はご結婚おめでとうございます」
「やあ、お祝いありがとう」
パーティーの主役である二人に一礼し、お祝いを述べる。元婚約者の王太子殿下は隣にいる聖女様の腰を抱きながら、私たちに笑顔を見せた。
「二人とは幼い頃から学園で共に過ごした仲だからね。来てくれて嬉しいよ」
左手で聖女様の腰を撫でながらクリス様は右手を差し出してきた。
「まさか殿下が聖女様と結ばれるとは思いませんでした」
クラウスは手を強めに握り返す。その瞳には憤怒が宿っているようだった。
「あのっ、すみません、私がクリスを……諦められずに……。そのっ」
クリス様とクラウスの間にピリッとした空気が流れる。聖女様は胸の前で手を組み、赤い瞳を潤ませた。まるで『二人の愛を邪魔しないで』と訴えるかのようだ。
怯えたうさぎを思わせるその仕草に、クリス様はこういうところに惹かれたのだろうか、とぼんやりと思った。
「エミリア、私がいけないんだ。きみを愛してしまったのが罪ならば、私が責任を取るから」
「クリス……」
クリス様は聖女様の髪を一房掬い取り、口付ける。私を横目でチラリと見た碧の瞳は左目だけ細められ、氷のように冷え切っていた。
──茶番だわ。
「クラウス、行きましょう。私たちはお邪魔だわ」
「アストリア……」
これ以上見ていられなくてクラウスを促した。
「もう呼び捨てにし合う程仲が良いんだね」
クリス様は表情を一瞬歪められたが、すぐに笑みを取り繕う。
「王命とはいえ、夫婦となる仲です。これくらいは普通でしょう? 殿下と聖女様のように」
そう言うとクリス様の表情がスッと抜け落ちた。
「そう、そうだね。きみたちは夫婦だ……。普通の事だね……」
どこか呆然としたような態度は気になったけれど、他にも挨拶があるからとその場を辞した。
その後クラウスと一曲だけダンスを踊ると、最初に言っていた通りお互い自由行動にした。
「殿下には気を付けてくれ。以前とは変わってしまったようだ」
「そうね。貴方にもあんな態度なんてね」
「それを言うならきみに対する態度だろう。危険を感じたら殿下を燃やすなりして逃げろよ」
「そんな物騒な事はしないわよ。ああ、もうほら、フィオナ様が待っているんじゃないの?」
クラウスを急かすと、何か言いたそうな顔をして行ってしまった。
一人になった私は、給仕から飲み物を受け取り壁際に立つ。すると、遠くから見知った人が来るのが見えた。
「アストリア! よかった、ようやく会えたわ。ねぇ、私、腹が立って仕方ないのだけれど!」
「カロリーナお姉様! ……ジゼルも」
ぎゅっ、と私を抱き締めるのは赤毛のカロリーナ様。三つ年上のザイフェルト侯爵夫人だ。姿変えの魔法が定着した後に我が家で開かれた最初のお茶会で出会って以来本当の姉妹のようによくしていただいた。
お姉様の隣に控え目に立っているのはジゼル。私の学園時代からの友人で、今度カロリーナお姉様の弟と結婚する事が決まっている。
「お姉様、ありがとうございます。私は平気ですわ」
「リア……。こんな悔しい事ってないわ。いつかあのバカ殿下は後悔する事になるわよ」
お姉様は忌々しそうにパーティーの主役の二人を見た。
「しかも、恋人のいる側近に王命で嫁がせるなんて、王家は何をお考えなのでしょうか」
ジゼルも同じ方向を見ながら呟く。
確かに以前のクリス様ならばクラウスと私の結婚に反対しただろう。けれど、今はもう聖女様に心を移してしまった。そうなると邪魔なのは私。
クラウスには最愛の女性がいるとはいえ、婚約者ではない。優秀な魔法使いである私を王家で管理しておきたいと言っていたから、彼らにとって好都合だったんだろうな。
「なぁんかあの聖女が来てからおかしいわよ。ウィルも王宮の空気が悪いって言ってたわ」
ウィルとは、カロリーナお姉様の旦那様で魔法師団長を務めてらっしゃるウィルバート様の事。先頃のクリス様と聖女様の馴れ初めの場となる魔物討伐でも活躍なさっていた魔法使いだ。お姉様より六つ年上で、互いにベタぼれの仲良し夫婦である。
そんな侯爵様が王宮の空気が悪いと仰るなんて、あまりいい状態ではないのかもしれない。
「お姉様、気を付けてくださいね」
「……ありがとう、リアは優しいのね」
「ところでリアの婚約者の方は……」
ジゼルが辺りを見回し、「あっ」と口を塞いだ。
その視線の先には薄い水色の髪色をした女性の手を引き、外へ誘うクラウスがいた。
「……リア、王宮破壊しちゃう?」
「ジゼル、物騒よ」
「ウィルとリアと私とジゼル。ついでに弟も呼ぼうか。……うん、いけるわよ」
「お姉様も! ……大丈夫ですわ。彼に最愛の方がいる事は分かっていますし、私たちは円満に離婚する予定ですので」
そう言うと、二人は眉根を寄せた。風に当たりに行くと言う私を、二人は止めなかった。
バルコニーに出ると、冷たい夜風が頬を撫でる。
後ろを振り向くと、灯りに照らされたきらびやかな世界が目に入った。人々は王太子殿下と聖女様の婚姻を心から祝福し、心ゆくまで踊るのだろう。
けれどバルコニーに通じる扉を閉めれば、華やかな世界と隔絶され、夜の闇が広がる静かな空間が出来上がる。私は何をするでもなく、ただバルコニーから見える景色を眺めていた。
喧騒から逃れたのは私だけではなかったみたいだ。バルコニーの下には熱く抱擁を交わす男女の姿があった。男性の髪色は暗くて判別がつかないけれど、女性の髪色は薄い水色のようで暗闇の中で光が反射すると白銀のようにも見えた。フィオナ様と、クラウスだ。
(……クラウスも、白い髪を選ぶのね……)
結婚を約束していた人は白い髪の聖女に奪われた。
(それならば、私の髪が本当は白銀と知ったなら)
赤茶色の髪を手に取る。この姿にならなければ、私は教皇派に有無を言わさずに攫われ、聖女として祭り上げられる運命となっただろう。
過去の歴史を知る者は皆白い髪の女性に憐憫の情を抱く。そして自身の髪色を見て、色があるのを確認して、安堵するのだ。
お母様のお姉様、つまり私の伯母にあたる方は生まれた時から髪が白かったらしい。生まれたばかりの赤子はどこから情報を得たのか、翌日すぐに教皇派に連れて行かれたそうだ。
その後何度面会を求めても断られ、お祖母様とお祖父様はとても嘆いた。数年後お母様が生まれ、それでも長女を取り返そうとしたけれど、何かと理由を付けて追い返された。
結局、お母様は実の姉と一度も話した事がない。聖女として活動しているのを遠目で見ただけだという。けれど、お祖父様たちに「もし白い髪の女児が生まれたら隠すように」と姿変えの魔法を覚えさせられたらしい。
姿変えの魔法はいくつか種類があって、水と風で幻影を作るもの、光で屈折して姿を偽るもの、土で髪を染めるもの、などだ。私は土で髪を染め、加えて光で屈折させる方法を選んだ。
お母様は娘を奪われないように私を隠した。伯爵家の使用人たちにも口外する事を禁じた。彼らは職務に忠実で、そのおかげで私は誰にも知られる事なく伯爵家で過ごせている。
──一度だけ、危機があった。姿変えの魔法がだいぶ安定してきた頃、王宮主催のお茶会に招待された。私は人に慣れておく訓練も兼ねて行く事にした。
お茶会は和やかに進み、つつがなく終わりそうだった時、とある令息が突然私の腕を掴んだのだ。その瞬間姿変えの魔法が解け、髪が白銀に戻った。
『やだ……っ、忘れて!』
咄嗟に叫び、手を振り払ってからすぐに姿変えの魔法をかけ直してその場を立ち去った。その後白い髪の女の子が現れたという話は聞かなかったから、『忘れて』という言葉が忘却魔法になったのだろう、とお父様は言っていた。心の底から安堵した。
それから一層姿変えの魔法を安定させる訓練に励み、お母様主催のお茶会から徐々に人前に姿を見せるようになった。そして、十歳の時に王太子殿下にお会いして、婚約が結ばれたのだ。
けれど、結局は重傷から自身を救った白い髪の聖女に傾倒したクリス様との婚約は白紙となった。
もしも、私の本当の姿を知っていたら? クリス様だけには伝えていたら……?
そう思っても、今更だ。それに……
「もしそれで私を選んだとしたら、髪色でしか判断してないという事だわ」
流石にそれはあり得ないだろう。きっと私が白髪でも、クリス様は聖女様を愛したに違いない。
彼と私の仲は愛し合う関係ではなかったのだと思うと、つきりと胸が痛んだ。
下を見れば未だ抱き締め合う二人がいた。私だって、愛し愛される結婚に夢を見ない訳ではない。魔力の高さだけで望まぬ結婚をしなければならない事に溜息が漏れた。
「レディ、いつまでもこんなところにいると身体が冷えますよ」
温もりの残る上着が肩にかけられた。振り返ると、大聖堂で会った濃紺の髪の男性がいた。彼はちらりと下を見て、ハッと息を呑んだ。
「あれは……」
「かわいそうでしょう? くだらない王命で引き裂かれた恋人たちですわ」
知らないままと、知ってしまった今と、どちらがましなのだろう。
「リア……、リア……っ」
床に座ったまま泣きじゃくる私をお母様が抱き締める。私はお母様の背中に腕を回した。お父様は立ったまま、拳を強く握り締めていた。
ひとしきり泣いて、私は自室へ戻った。
机の引き出しを開け、クリス様から貰った物を入れている大切な小箱を取り出す。
小箱の中身は亜空間魔法で拡げられていて、沢山の物が並んでいる。
幼い頃に貰った花冠、お菓子の包み紙、壊れた羽根ペン、金の宝石のブレスレット、私の瞳の色の宝石で作らせたイヤリング……
他人から見たら下らないものから高価なものまで、全てが私の宝物だった。
聖女様に心変わりをしたクリス様はおそらく婚約を解消しようと言うだろう。ひと月後の結婚式の相手は聖女様と入れ替えられるのだ。
それならばいっそ、これらは捨ててしまおうか。
乾いた笑いを零していると、侍女が湯浴みの準備ができたと呼びに来た。
湯に浸かると、身体の奥底の冷えた場所まで温まる気がする。
これからどうすれば良いだろう。婚約が解消されて、その後、また誰かと婚約する事になるんだろうか。そして、また、誰かに奪われるのだろうか。
そんな考えが頭を過り、ぞわりとした。
(嫌だ……絶対にいやだ)
こんな思いは一度だけで充分だ。もう二度としたくない。それならばいっそ、愛など要らない。ただの政略結婚で良い。もう、裏切られるのは嫌だ。
嫌な想像を振り切るように湯船から勢いよく立ち上がった。控えていた侍女がふわりと風と火の魔法で髪を乾かし、私の身なりを整えていく。
「夕食の準備ができましたらお呼びいたします。それまではゆっくりお休みください」
「ありがとう」
侍女が退出した後、私は寝台に身体を預けて目を閉じた。
『アス、きみが愛おしい。愛しているよ』
『アストリア、……アス、愛している。きみと婚約できて私は幸せ者だ。愛しているのはきみだけなんだ』
『アス、お願いだ、信じて……』
夢を見た。幸せだった日々が真っ黒に塗り潰され、目覚めた私は全身に汗を掻いていた。
窓の外を見ると、月明かりが部屋を照らしている。
『アス、おいで。ダンスをしよう』
いつかの夜会で月明かりの中ダンスをした事、魔法学園で競い合った事、国の未来を語った事……クリス様との思い出が浮かんでは消えていく。
「これからは……もう、思い出は増えないのね……」
そう思うと、意識しなくても目から雫が頬を伝った。
夕食の席に着くと、お父様が沈痛な面持ちで口を開いた。
「王宮から緊急呼び出しの鳩が飛んで来たよ。明日、アストリアを連れて王宮に上がるようにとの事だ。……大事な話があるらしい」
「そうですか……。承知しました」
きっとクリス様との婚約が解消されるのだろう。聖女様と結ばれるためにはまず私という障害を排除しなければならない。私さえ承諾すれば、聖女様と王太子の婚約は容易く成立する。
──いや、伯爵令嬢の承諾などないに等しい。
教皇派と和平を結べるのなら国王陛下は聖女様を取るだろう。
王太子殿下と聖女様が運命の出会いを果たし、愛を育んで結婚する。民衆が好みそうなラブストーリーの出来上がりだ。二人の間に立ち塞がる邪魔な婚約者はいてはいけない。
クリス様が選んだのは、私以外だった。ただ、それだけだ。
翌日、両親と共に馬車で王宮に向かった。
王族からの緊急呼び出しのため、すぐに門を通され、王宮の一室に通された。
「よく来たな、ベーレント伯爵、並びに夫人と御令嬢よ」
「国王陛下におかれましてはご機嫌麗しゅう存じます」
「よい、楽にせよ。緊急の呼び出しに応じてくれて感謝する」
「勿体なきお言葉、痛み入ります。一臣下でありますれば陛下からの招集に馳せ参ずるのは当然でございますゆえ」
お父様と国王陛下とのやり取りをぼんやりと聞きながら辺りを窺う。
豪奢なソファには国王陛下と、隣に無表情の王妃陛下が腰かけている。その右側にある二人がけのソファには、やはり無表情のクリス様……と、その腕に掴まって震えている聖女様がいる。
陛下の左側にあるソファには無表情のディールス侯爵と、クリス様の側近でもある侯爵令息クラウス様がいた。眉根を寄せ、どこか不機嫌そうだ。
私たちはテーブルを挟み、国王陛下と対面する位置に着席した。陛下の合図で護衛以外の使用人は一斉に下がり、辺りは重苦しい空気に包まれた。陛下が口を開く。
「さて、単刀直入に言おう。王太子クリストハルトとベーレント伯爵令嬢の婚約は白紙にする。クリストハルトの新たな婚約者はそちらにいらっしゃる聖女エミリア様だ」
まさか、と言うより、やはり、という方が勝った。それでも突き付けられた事実に胸が痛む。
「なぜ、と伺っても?」
お父様は膝の上で拳を握り、陛下に問いかけた。
「先の魔物討伐の際、愚息クリストハルトは聖女と情けを交わした。結果、聖女の腹には子が宿っている。ゆえに、ひと月後の結婚式はそのまま聖女と行う」
陛下の言葉に王妃様は顔を顰め、聖女様は頬を染める。侯爵たちは息を呑んで固まっている。
「ベーレント伯爵令嬢には済まないが、理解してほしい」
ちらりとクリス様に目をやるが、彼は私の方を見ていない。不安そうな聖女様を見つめ、宥めるように手を絡めていた。
私は表情を変えず、陛下を見据えた。
「承りました」
アッサリと了承したのが意外だったのか、国王夫妻も侯爵様たちも──クリス様すら息を呑んだ。私は顔を俯け、じっと時が過ぎるのを待った。
「……ベーレント伯爵令嬢、すまない。だが、そなたは優秀な魔法使いでもある。そこでだ。ディールス侯爵令息であるクラウスとの婚姻を命じる」
「……え……」
陛下の言葉が信じられなくて、思わず声が出てしまった。何か言わなければ、と思うけれど唇が震えて動かせない。
「おそれながら陛下、それは認められません!」
ガタッと大きな音を立ててクラウス様が立ち上がった。青緑色の髪を振り乱し、唇を噛み締めている。陛下の御前で不敬ではあるけれど、憤る気持ちはよく分かる。
「クラウス、止めないか」
「父上、私には心に決めた女性がいると言っているではありませんか! 彼女との婚姻を認めていただけるように日々努力してきたつもりです。なのにこんな……彼女以外と婚姻せよなど……」
〝受け入れられるはずがない〟
クラウス様は最後、声を掠れさせ項垂れるように言って膝を突いた。
「ベーレント伯爵令嬢を宙に浮かせる訳にはいかんのだ。彼女の魔力の高さは知っておろう。万が一の時、伯爵家では守れぬ。そなたたちは仲がよかっただろう?」
クラウス様は悲愴な顔をして頭を振った。
(仲が良かったのは、結婚するためではないのに)
クラウス様の想い人は知っている。彼女は子爵令嬢で、身分差があるためにディールス侯爵が結婚を認めてくれないとボヤいていたのを思い出す。
『早く彼女と婚約したいです』
その子の話をする時、大切そうに、愛おしそうに微笑んでいた。そんな彼が私を選ぶはずがない。私だって二人を応援していたのだ。
「殿下も何か言ってください! 貴方が聖女なんかに心変わりをしなければ……!」
「クラウス、すまない。僕はエミリアを愛してしまったのだ。ほら、美しい髪色をしているだろう? 僕にはもう、彼女しか見えないんだ」
「殿下……ッ‼」
クラウス様はクリス様に掴みかかる勢いだったけれど、危険を感じたのか聖女様が防御魔法を展開した。
しばらく二人は睨み合ったが、やがてクリス様が聖女様を窘めて防御魔法を解除させた。
「クラウス、私の妻となる女性に乱暴はいけないなぁ……」
「殿下……?」
「先程陛下が言ったよね。エミリアは私の子を宿していると。きみは未来の王子や王女に危害を加えるつもりかい……?」
クリス様は怒っているのか、辺りを威圧するように魔力を高めた。今まで見た事がないその姿を見て、クラウス様は勿論私も面食らってしまった。
(聖女様を守るために変わられたのね……)
いつも優しい笑顔を浮かべた光の王子様。私の大好きな人は、もう、いない。
「ディールス侯爵令息よ、これは王命だ。そなたにはベーレント伯爵令嬢と結婚してもらう」
「御命令、しかと賜りました」
ディールス侯爵様がクラウス様の頭を下げさせ、王命を受けた。
「ベーレント伯爵令嬢もよいな」
「……慎んで、お受けいたします」
これは王命。断れるはずもないのだ。臣下の気持ちなど考えていない無慈悲な命令に、怒りを通り越して呆れてしまった。
「円満に離婚できる方法を探す?」
「ええ、貴方もこの王命に納得していないのでしょう?」
後日、婚約者同士の交流を名目として、私はディールス侯爵邸を訪れた。
「王国の歴史は長いわ。今回のような王命を覆せる法律があるかもしれないから、王立図書館で調べてみようと思うの」
この国では、王族が暴走しないように貴族派と教皇派が常に睨みを利かせている。それでも時折独断で決められてしまう事があるため、それに対抗する法律が他の二派によって制定されるのだ。
例えば不当な増税などは期限が定められたり。
望みは薄いかもしれないけれど、結婚に関しても何かないかと調べてみる事にした。
「分かった。じゃあ婚約者として交流の時間という事にして、それを調べる、でいいか?」
「ええ、いいわ。毎日会うのは無理だろうから、私一人でも調べるわ。ほら、王太子妃教育も……なくなっちゃったから暇ができたしね」
おどけてみたけど、上手く笑えているかは分からない。
「無理はするなよ」
「……うん、ありがとう」
それから交流会の時は二人で、クリス様の側近であるクラウス様が仕事の時は私一人で、図書館にある法律関係の本を読み抵抗する術はないか探した。
王国の長い歴史で作られた法律の数は膨大で、本も一冊が分厚い。それらしき本を魔法で探しても、具体案となるとなかなか思うようにいかなかった。
けれど、クラウス様という協力者がいる事は、とても心強かった。
「こうして協力するのも久しぶりだな」
「そうね。以前は確か……」
「位置替えの魔法を編み出した時だな」
私は学園にいた頃から、魔法を作る事が好きだった。魔法は言葉を組み合わせて作る事ができる。組み合わせた言葉に魔力を乗せて発するのだ。
ある日、クリス様を待っている間、私は風属性の魔法を思い付いた。けれど赤茶色の髪の私は、人前では風魔法は使えない。試してみたくてウズウズしていたところへ、ちょうどいいタイミングでクラウス様がやってきたのだ。
「アストリア嬢? 何をしているのですか?」
「クラウス様。新しい魔法を考えてみたのです。自分と遠くにあるものを入れ替える魔法です」
私が作ったのは『ロクス・エンドレ』という呪文。風を使った転移魔法の亜種だった。
「理論上はできるはずなんですが、私は風魔法が使えませんので……」
本当は全属性が使える。けれど人前で公には使えない。
家に帰ってやればいいのだけれど、今すぐ試したい私はクラウス様に期待の眼差しを向けた。
「私がやってみましょうか」
「さすがクラウス様、話が分かる方で素敵」
「はいはい。……試しにあそこにある像と入れ替わりましょう。えっ、と」
「『ロクス・エンドレ』ですわ」
クラウス様はコホンと咳払いをして、飾ってある騎士の像に向かって唱えた。
「『ロクス・エンドレ』」
すると、像とクラウス様の場所がスッと入れ替わった。
「成功ですね!」
もう一度唱えると、元の場所に戻る。像も元の場所に戻った。
「ありがとうございます、クラウス様」
「どういたしまして。何かの時に使えますかね」
二人で魔法の使用場所を考えていると、ふと影が差した。
「クラウス、アスと何をやっているんだ?」
「クリス様。お待ちしておりましたわ」
「お待たせ。じゃあね、クラウス」
クリス様は目を細め、クラウス様を睨む。そのまま私の腰に手を添えて馬車へ向かった。
……うん、嫌な記憶を思い出したわ。ちゃんと集中しよう。
「……あ、アストリア、これはいけるんじゃないか?」
過去の記憶にふけっている間、クラウス様は何かを見つけたようだ。差し出された書物を読むと、確かに、これならいけそうだ。
「しかし、一体クリスも陛下も、何を考えているんだか……」
「さあね。案外何も考えていないのかもよ? ……それより名前」
「っと、すまん。気安かったな」
「幼馴染みでもあるし、一応婚約者なんだし、いいわ。私も呼び捨てにする。フィオナ様にはちゃんと説明しといてね」
フィオナ様というのは、クラウスの想い人だ。クラウスは何か言いたげな顔をして、小さく溜息を吐いた。
♢ ♢ ♢
「アストリア」
クラウスに名前を呼ばれ、ハッと意識を浮上させる。馬車はいつの間にか王城に着いていた。
「入場の時だけエスコートをする。その後はファーストダンスを。それが終わったらお互い自由にしよう」
「わかったわ」
夫となるクラウスの手を借り馬車を降りる。無表情の彼は、きっと私と踊った後はフィオナ様のもとへ行くのだろう。私と彼の結婚は避けられない。けれどお互い希望は失っていない。
──ふと、大聖堂で会った方を思い出す。
(あの方の手を取って一緒に逃げていれば何か変わったのかしら)
空を見上げても、あいにく曇って星一つ見えなかった。
王城の成婚パーティー会場に入ると、辺りにいた人たちは一斉に私たちの方を向いた。
扇の奥で隣り合った人とヒソヒソと話し合う人もいた。
不躾な視線に充てられたのか、クラウスが息を呑んだ。私が無表情でクラウスに添えた手に力を込めると、彼はハッとしたように歩き出した。
「この度はご結婚おめでとうございます」
「やあ、お祝いありがとう」
パーティーの主役である二人に一礼し、お祝いを述べる。元婚約者の王太子殿下は隣にいる聖女様の腰を抱きながら、私たちに笑顔を見せた。
「二人とは幼い頃から学園で共に過ごした仲だからね。来てくれて嬉しいよ」
左手で聖女様の腰を撫でながらクリス様は右手を差し出してきた。
「まさか殿下が聖女様と結ばれるとは思いませんでした」
クラウスは手を強めに握り返す。その瞳には憤怒が宿っているようだった。
「あのっ、すみません、私がクリスを……諦められずに……。そのっ」
クリス様とクラウスの間にピリッとした空気が流れる。聖女様は胸の前で手を組み、赤い瞳を潤ませた。まるで『二人の愛を邪魔しないで』と訴えるかのようだ。
怯えたうさぎを思わせるその仕草に、クリス様はこういうところに惹かれたのだろうか、とぼんやりと思った。
「エミリア、私がいけないんだ。きみを愛してしまったのが罪ならば、私が責任を取るから」
「クリス……」
クリス様は聖女様の髪を一房掬い取り、口付ける。私を横目でチラリと見た碧の瞳は左目だけ細められ、氷のように冷え切っていた。
──茶番だわ。
「クラウス、行きましょう。私たちはお邪魔だわ」
「アストリア……」
これ以上見ていられなくてクラウスを促した。
「もう呼び捨てにし合う程仲が良いんだね」
クリス様は表情を一瞬歪められたが、すぐに笑みを取り繕う。
「王命とはいえ、夫婦となる仲です。これくらいは普通でしょう? 殿下と聖女様のように」
そう言うとクリス様の表情がスッと抜け落ちた。
「そう、そうだね。きみたちは夫婦だ……。普通の事だね……」
どこか呆然としたような態度は気になったけれど、他にも挨拶があるからとその場を辞した。
その後クラウスと一曲だけダンスを踊ると、最初に言っていた通りお互い自由行動にした。
「殿下には気を付けてくれ。以前とは変わってしまったようだ」
「そうね。貴方にもあんな態度なんてね」
「それを言うならきみに対する態度だろう。危険を感じたら殿下を燃やすなりして逃げろよ」
「そんな物騒な事はしないわよ。ああ、もうほら、フィオナ様が待っているんじゃないの?」
クラウスを急かすと、何か言いたそうな顔をして行ってしまった。
一人になった私は、給仕から飲み物を受け取り壁際に立つ。すると、遠くから見知った人が来るのが見えた。
「アストリア! よかった、ようやく会えたわ。ねぇ、私、腹が立って仕方ないのだけれど!」
「カロリーナお姉様! ……ジゼルも」
ぎゅっ、と私を抱き締めるのは赤毛のカロリーナ様。三つ年上のザイフェルト侯爵夫人だ。姿変えの魔法が定着した後に我が家で開かれた最初のお茶会で出会って以来本当の姉妹のようによくしていただいた。
お姉様の隣に控え目に立っているのはジゼル。私の学園時代からの友人で、今度カロリーナお姉様の弟と結婚する事が決まっている。
「お姉様、ありがとうございます。私は平気ですわ」
「リア……。こんな悔しい事ってないわ。いつかあのバカ殿下は後悔する事になるわよ」
お姉様は忌々しそうにパーティーの主役の二人を見た。
「しかも、恋人のいる側近に王命で嫁がせるなんて、王家は何をお考えなのでしょうか」
ジゼルも同じ方向を見ながら呟く。
確かに以前のクリス様ならばクラウスと私の結婚に反対しただろう。けれど、今はもう聖女様に心を移してしまった。そうなると邪魔なのは私。
クラウスには最愛の女性がいるとはいえ、婚約者ではない。優秀な魔法使いである私を王家で管理しておきたいと言っていたから、彼らにとって好都合だったんだろうな。
「なぁんかあの聖女が来てからおかしいわよ。ウィルも王宮の空気が悪いって言ってたわ」
ウィルとは、カロリーナお姉様の旦那様で魔法師団長を務めてらっしゃるウィルバート様の事。先頃のクリス様と聖女様の馴れ初めの場となる魔物討伐でも活躍なさっていた魔法使いだ。お姉様より六つ年上で、互いにベタぼれの仲良し夫婦である。
そんな侯爵様が王宮の空気が悪いと仰るなんて、あまりいい状態ではないのかもしれない。
「お姉様、気を付けてくださいね」
「……ありがとう、リアは優しいのね」
「ところでリアの婚約者の方は……」
ジゼルが辺りを見回し、「あっ」と口を塞いだ。
その視線の先には薄い水色の髪色をした女性の手を引き、外へ誘うクラウスがいた。
「……リア、王宮破壊しちゃう?」
「ジゼル、物騒よ」
「ウィルとリアと私とジゼル。ついでに弟も呼ぼうか。……うん、いけるわよ」
「お姉様も! ……大丈夫ですわ。彼に最愛の方がいる事は分かっていますし、私たちは円満に離婚する予定ですので」
そう言うと、二人は眉根を寄せた。風に当たりに行くと言う私を、二人は止めなかった。
バルコニーに出ると、冷たい夜風が頬を撫でる。
後ろを振り向くと、灯りに照らされたきらびやかな世界が目に入った。人々は王太子殿下と聖女様の婚姻を心から祝福し、心ゆくまで踊るのだろう。
けれどバルコニーに通じる扉を閉めれば、華やかな世界と隔絶され、夜の闇が広がる静かな空間が出来上がる。私は何をするでもなく、ただバルコニーから見える景色を眺めていた。
喧騒から逃れたのは私だけではなかったみたいだ。バルコニーの下には熱く抱擁を交わす男女の姿があった。男性の髪色は暗くて判別がつかないけれど、女性の髪色は薄い水色のようで暗闇の中で光が反射すると白銀のようにも見えた。フィオナ様と、クラウスだ。
(……クラウスも、白い髪を選ぶのね……)
結婚を約束していた人は白い髪の聖女に奪われた。
(それならば、私の髪が本当は白銀と知ったなら)
赤茶色の髪を手に取る。この姿にならなければ、私は教皇派に有無を言わさずに攫われ、聖女として祭り上げられる運命となっただろう。
過去の歴史を知る者は皆白い髪の女性に憐憫の情を抱く。そして自身の髪色を見て、色があるのを確認して、安堵するのだ。
お母様のお姉様、つまり私の伯母にあたる方は生まれた時から髪が白かったらしい。生まれたばかりの赤子はどこから情報を得たのか、翌日すぐに教皇派に連れて行かれたそうだ。
その後何度面会を求めても断られ、お祖母様とお祖父様はとても嘆いた。数年後お母様が生まれ、それでも長女を取り返そうとしたけれど、何かと理由を付けて追い返された。
結局、お母様は実の姉と一度も話した事がない。聖女として活動しているのを遠目で見ただけだという。けれど、お祖父様たちに「もし白い髪の女児が生まれたら隠すように」と姿変えの魔法を覚えさせられたらしい。
姿変えの魔法はいくつか種類があって、水と風で幻影を作るもの、光で屈折して姿を偽るもの、土で髪を染めるもの、などだ。私は土で髪を染め、加えて光で屈折させる方法を選んだ。
お母様は娘を奪われないように私を隠した。伯爵家の使用人たちにも口外する事を禁じた。彼らは職務に忠実で、そのおかげで私は誰にも知られる事なく伯爵家で過ごせている。
──一度だけ、危機があった。姿変えの魔法がだいぶ安定してきた頃、王宮主催のお茶会に招待された。私は人に慣れておく訓練も兼ねて行く事にした。
お茶会は和やかに進み、つつがなく終わりそうだった時、とある令息が突然私の腕を掴んだのだ。その瞬間姿変えの魔法が解け、髪が白銀に戻った。
『やだ……っ、忘れて!』
咄嗟に叫び、手を振り払ってからすぐに姿変えの魔法をかけ直してその場を立ち去った。その後白い髪の女の子が現れたという話は聞かなかったから、『忘れて』という言葉が忘却魔法になったのだろう、とお父様は言っていた。心の底から安堵した。
それから一層姿変えの魔法を安定させる訓練に励み、お母様主催のお茶会から徐々に人前に姿を見せるようになった。そして、十歳の時に王太子殿下にお会いして、婚約が結ばれたのだ。
けれど、結局は重傷から自身を救った白い髪の聖女に傾倒したクリス様との婚約は白紙となった。
もしも、私の本当の姿を知っていたら? クリス様だけには伝えていたら……?
そう思っても、今更だ。それに……
「もしそれで私を選んだとしたら、髪色でしか判断してないという事だわ」
流石にそれはあり得ないだろう。きっと私が白髪でも、クリス様は聖女様を愛したに違いない。
彼と私の仲は愛し合う関係ではなかったのだと思うと、つきりと胸が痛んだ。
下を見れば未だ抱き締め合う二人がいた。私だって、愛し愛される結婚に夢を見ない訳ではない。魔力の高さだけで望まぬ結婚をしなければならない事に溜息が漏れた。
「レディ、いつまでもこんなところにいると身体が冷えますよ」
温もりの残る上着が肩にかけられた。振り返ると、大聖堂で会った濃紺の髪の男性がいた。彼はちらりと下を見て、ハッと息を呑んだ。
「あれは……」
「かわいそうでしょう? くだらない王命で引き裂かれた恋人たちですわ」
応援ありがとうございます!
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