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1巻

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   プロローグ


 リーンゴーン。
 大聖堂の鐘が鳴る。白亜の建物の荘厳なたたずまいは、その歴史を物語っていた。

「王太子クリストハルト、そなたは病める時も健やかなる時も、この者を愛し、敬い、生涯を共に歩むと誓うか?」
「誓います」
「聖女エミリア、そなたは病める時も健やかなる時も、この者を愛し、敬い、生涯を共に歩むと誓うか?」
「誓います」

 花嫁がちらりと花婿を見上げると、それに気付いた花婿は柔らかな笑みを浮かべた。
 まるで、愛おしくてたまらないというように。

「誓いの口付けを」

 花嫁が衣擦れの音と共に花婿に向き直り、少し膝を折った。花婿がヴェールを上げ、二人は見つめ合う。今の二人にはお互い以外見えていないのだろう。ゆっくりと顔を近付け、目を閉じた二人は誓いの口付けを交わした。
 ほんの数秒、いや、数分だったかもしれない。私にはその時間がとてつもなく長かった。
 瞳が揺れるのを感じる。けれど、泣かない。絶対に泣いてやらない。しっかりとこの目に裏切り者の姿を焼き付けてやる。
 この胸が痛んでも。今までの時間が無に帰され虚しくても。嫌味のように挙式の最前列に座らされても。本来ならば、花嫁の場所が私のものだったとしても。
 貴方のために涙は見せてやらない。
 長く感じた口付けは、立会人の咳払いで終了した。慌てて離れた二人は照れたように互いの顔を見つめ合い、立会人に向き直る。
 私にはあんな顔は見せなかった。どんなに愛しても、どんなに尽くしても、貴方は表情を崩さなかった。けれど、今は王太子としてではなく、愛する女性の夫として心からの笑みを浮かべ、時に照れ、この世の幸せを全て貰ったかのように表情を崩している。

「ここに新たな夫婦が誕生しました。二人の行く末に皆様の祝福を」

 立会人の言葉で拍手が鳴り響く。笑顔を取り繕う者、睨む者、恐縮する者、真顔の者……心から祝福している人はどれくらいいるのだろう。
 そんな周りを気にせず、花嫁と花婿は微笑む。それは幸せそうに、二人は腕を組んで歩く。
 ちらりと花婿が私を見たけれど無視した。花嫁がその視線に気づき、花婿の腕をぎゅっと掴んだからだ。

(心配しなくても、花婿が選んだのは貴女だから。……私ではないから)

 私が表情を変えず、穏やかな笑みを保てるのは淑女教育の賜物だ。
 さようなら、私が愛した元婚約者様である王太子殿下。


「泣いてなんかやらないんだから!」

 雲一つない青空を見上げながら、大聖堂の裏手にある大きな木に寄りかかる。遠くでは幻術を使った白い魔術鳩が新郎新婦を祝福するように飛んでいる。

「裏切り者……。何が『愛しているのはきみだけなんだ』よ。結局選ばれたのは私じゃ、なかった……」

 意識してないのに瞳が揺れる。目の奥から溢れそうになる涙を上を向いて堪えた。けれど視界がだんだんぼやけてくる。

「ふ……ぐぅ……うう……」

 涙がポロポロと頬を伝って落ち、ドレスにしみを作る。泣くまいと思ったのに、私の意思とは関係なく後から後から溢れてくる。
 二人の未来を夢見ていた。──でもそれは、全て幻だった。それならいっそ、私のこの想いも全て幻なら良かったのに。……そしたら消えてなくなるのに。
 クリス様が聖女と結婚した事実を目に焼き付けても、諦められない私がいる。

(選ばれたのは私じゃなかった)

 ぼろぼろと止めどなく溢れる涙をしばらくそのままにしていたが、溜息を吐いてハンカチで拭う。
 この後は王城で祝賀パーティーがあるのだ。

「行きたくないな……」

 何もかも億劫だ。身を起こす事すら嫌になる。

(このままどこかへ消えてしまいたい)

 いつまでもここにいる訳にはいかないけれど、幸せそうな二人をこれ以上見たくなかった。

「行きたくないなら、行かなくてもいいんじゃないか」

 どうしようか迷っていたら、そんな声がした。

「だ、誰?」

 まさか人がいるなんて思わず、辺りを見回す。けれど誰もいない。
 気のせいだろうか?

「私も行きたくない一人だ」

 再び声がして振り返ると、木の後ろから男性が出てきた。

「あ、貴方、なん、どっ、うそっ」

 人がいるとは思わず、私は酷く動揺した。

「あー、えーと、私が先にいたのだが。きみがやってきてわんわん泣き出したんだ。出て行くタイミングを逃してしまった。……すまない」

 男性はそう言って頭を下げた。私は目を瞬いて、気まずくて右に左に視線を彷徨さまよわせた。
 かなり恥ずかしい。恥ずかしくていたたまれない。

「それは、すみません。誰もいないと、思っていたので……」
「いや、私も誰にも見つからないように気配消しを使っていたから。貴族ってのは面倒だからな……」

 頬をポリポリと掻きながら男性は目を逸らした。彼の短い濃紺の髪がサラリと風に揺れる。
 切れ長の瞳に凛々しい眉、その風貌はどこかで見た事があるような気がした。

「で、戻るのか?」
「……ええ。成婚披露パーティーに出なきゃ……気は進まないですけどね」
「そうか」

 目を伏せ、私は木から身体を起こす。
 これでも貴族だし、王太子殿下の元婚約者としての矜持もある。

「ならば、おまじないをかけてやろう」

 男性は私の前に手をかざすと、「元気になれ」と呟いた。
 すると先程まで腫れぼったかった目元がすっきりした。化粧の乱れも直っているようだ。驚いてまじまじとその顔を見上げると、視線に気付いたのか、フッと笑われた。

「なんだ? 私に惚れたのか?」
「いえ、そういう訳では」
「殿下との婚約が白紙になってきみはフリーになったんだよな。私の妻にならないか?」

 からかうような軽い求婚に眉根を寄せ、私はふふっと吹き出した。

「残念ながら次のお相手はもう決まっておりますの」
「……そうか。だがきみは……殿下を……」
「王命ですわ。貴族ならば相手を選べる立場ではありませんでしょう?」

 そう、クリス様との婚約が白紙になってすぐに、私は別の男性と婚約を結ぶよう命じられた。愛している訳ではない男性と、数か月後には結婚しないといけない。

「……それは辛い事を聞いてしまった。すまない」
「お気になさらず。私もいつまでも、泣いてはいられませんから……」

 必死に矜持を掻き集めて微笑む。男性は一瞬肩を揺らし、唇を引き結んだ。

「ならばお相手に誤解されないように私は離れよう。縁があればまたどこかで」

 そう言って、男性は行ってしまった。
 この出会いが、後程私の人生に大きく影響する事を今の私は知る由もなかった。
 重い足を引きずり、伯爵家の馬車に乗る。御者は行き先を心得ていたようで、黙って王城に向かった。式に参列していた貴族たちはもう移動を終えていて、辺りには誰もいなかった。
 私は馬車の窓から流れ行く景色を見ながら、過去を思い出していた。





   第一章 婚約者の裏切りと無慈悲な王命


 先程の花婿は、我がエーデルシュタイン王国の王太子クリストハルト・シュナーベル殿下。
 彼は私──アストリア・ベーレント伯爵令嬢の婚約者だった。
 私の魔力が高く、公爵家、侯爵家に王太子殿下と同じ年頃の令嬢がいなかったため、十歳で婚約が結ばれ、互いに尊重し合い、共に歩むと信じていた。

「きみが僕の婚約者? 初めまして、クリストハルトです。クリスって呼んで」

 初めて会った時、陽の光を反射してきらきら光る金の髪と、青空を映したような碧眼の彼に釘付けになった私は、挨拶も忘れて見惚れてしまった。

「は、初めまして、アストリアと申します。よろしくお願いします」

 隣にいたお母様に突かれてようやく我にかえり、この日のために頑張って習得したカーテシーで挨拶をした。

「かしこまらなくていいよ。僕たちは将来結婚するんだから」

 そう言って穏やかに微笑んだクリス様に、私は恋に落ちたのだ。
 それから婚約者としての交流が始まった。私はクリス様と結婚できるのが嬉しくて、王太子妃教育は勿論、魔法の鍛錬も欠かさなかった。
 貴族は皆等しく魔法学園で学ぶけれど、クリス様と私の成績は不動のツートップだった。クリス様の援護をしながら互いに切磋琢磨していた。
 けれど、お会いする度クリス様との仲が深まっていたように感じていたのは私だけだったのかもしれない。
 思い返すと、先程式で見たような愛しくてたまらないというような笑顔も、唇を離すのが名残惜しいような口付けも一切なかった。婚約者としての義務は果たしていたのだろうけれど、それだけだった。


 そんな私たちに変化が訪れたのは四か月前。
 辺境で魔物が大量発生し、王都に救援要請が来たのだ。普段ならクリス様は命の危険を伴う討伐には参加しないのだが、今回は自ら赴く事を決めた。
 その時には既に魔法学園を卒業していて、三か月後には結婚式を挙げる予定だった。

「アス、僕は辺境の魔物退治に行こうと思う」
「そんな……、危険です、クリス様が行くなんて」
「最近の王家の評判は良くない。この辺りでしっかり威光を示しておきたいんだ」
「クリス様……」

 この国──エーデルシュタインは、王族、貴族派、そして教皇派の三つが対立している魔法大国である。最近教皇派が力を付けてきているのは、平民出身の聖女様が見つかったためだ。
 魔法は、髪の色で使える属性を見分けられる。火ならば赤、水ならば青、風ならば緑、土ならば茶色といったように。
 クリス様は金色なので光。私は赤みがかった茶色なので、火と土属性。基本はこの五色だけれど、稀に黒や白の髪色を持つ者が現れる。
 黒は闇属性、もしくは魔力持たず。魔法大国であるこの国では嫌われる色である。
 白は無属性だ。結界や防御、回復系の魔法が主になる。また、稀にいる白銀の髪の持ち主は闇以外の全属性の魔法を操る事ができる。
 白い髪の男性はある程度いるのに対して女性は数が少なく、生まれた時から『聖女様』として教皇派に手厚く保護される。
 ──というのは表向き、実際は権威を高めるための道具として使い潰されるのだ。
 そんな聖女様が、魔物討伐に派遣されるらしい。結界と防御、回復などの支援を期待されているのだろう。聖女様が出るとなると民衆の目は聖女様──つまりは教皇派に向かう。
 クリス様は教皇派がより勢いづくのを避けるため、そして次代で安定した統治ができるよう、自ら指揮を執る事にしたのだ。
 私は留守番を申しつけられた。

「アスに危険が迫るのは嫌なんだ。絶対に来ちゃだめだよ。すぐに戻るから待っていて」

 クリス様はそう言ったけれど、何だか嫌な予感がした私は両親を説得し、サポートするために後を追う事にした。

「勘が鋭いお前が言うなら殿下に危機が迫るという事だろう。気を付けて行きなさい」

 両親は私の熱意に折れて送り出してくれた。
 ただ、赤茶色の私の髪ではクリス様にバレてしまうだろう。だから本来の髪色に戻し、男装して行く事にした。
 私の髪色──そう、白銀の髪。産まれた時は赤茶色だったけれど、五歳頃に白銀に変わったのだ。そのままだと教皇派に奪われると危惧した両親は、私に姿変えの魔法を習得させた。
 常時発動させないといけない姿変えの魔法は、安定するまで時間がかかる。馴染むまでは家に軟禁状態だった。
 その間私は病気で領地にいた事にして、再び外に出るまで数年かかった。クリス様との婚約がなったのはその後の十歳の時だから、彼は私の本当の髪色を知らない。
 討伐でも、伯爵家の護衛と共に男性にまぎれ、『アリスト』と名乗れば気付かれないだろう。


 辺境に到着すると、皆苦戦を強いられていた。状況を確認するため、騎士や魔法使いたちを治療しながら話を聞いていく。

「回復魔法『ハイルング』」
「ありがとう、助かった」
「どういたしまして。ねえ、今の状況どんな感じ?」
「ああ、最悪だな。兵士は半数以上が怪我してるよ。殿下や騎士隊長やらは、突然現れた巨大な龍と戦っていらっしゃる」

 兵士に回復魔法をかける手が震える。
 クリス様は無事なのだろうか。死人が出たら嫌だ、と必死に回復魔法を唱え続けた。

「危ない!」

 そこへ魔物の一撃が飛んできた。直撃したら即死もありえそうな威力に思わずゾッとした。

「回復した者は陣形を展開しろ!」
「援護する!」

 兵士・騎士たちに、攻撃、素早さ、魔力、防御アップの魔法をまとめてかける。

「うおっ、みなぎってきた!」
(うん、白銀の時は魔法が何でもかけられるから便利)

 私は魔力切れも気にせずに次々と魔法をかけていく。皆いつもより調子がいいと、軽やかに魔物を倒していった。

「怪我した人はいない?」
「こっちです!」

 声のした方へ行くと、そこは凄惨な光景が広がっていた。多くの兵士たちが血を流して倒れている。

「何が……起きたの……?」
呪龍じゅりゅうだよ。災害級の魔物だ」
「呪龍⁉」

 聞けば災害級の魔物『呪龍』が出てきて、クリス様が自ら応戦したらしい。
 なぜ、と思ったけれど、相手は闇属性。光属性のクリス様の攻撃が効果的だからだった。
 けれど、それは相手にとっても同じという意味でもある。光は闇に強く、闇もまた、光に強い。
 クリス様と呪龍は相討ち寸前だったらしく、瀕死の重傷を負ってしまったのだ。

「クリス様……!」

 クリス様のテントに行きたかったけれど、今の私は男装しているただの傭兵。
 部隊で信用を得られていない新参者の私はたとえ治療ができても、高貴な身分の、しかも瀕死の重傷を負った王太子の所へ行く事はできなかった。
 それに私の周りにも沢山の負傷者がいて、彼らを放ってもおけなかった。

「っ! とにかく治療をします!」

 怪我をした兵士や騎士たちに回復魔法をかけながら励ましていく。けれど途中で魔力が尽きかけてしまったため、攻撃アップを自分にかけて筋力を上げ、治療テントまで担いでいく事にした。

「呪龍の最期の一撃をくらっちまった。俺はもうおしまいだ……」

 うなされている人の手を握り、魔力を振り絞り回復魔法をかける。彼の言葉が引っかかったけれど、負傷者が次々と運ばれてきたためその場を離れて次の人の所へ行った。
 そうこうしているうちに、聖女様がクリス様を癒やしているらしいと耳に入ってきた。

(重傷を回復する程の魔法も……使えるの……)

 それは安心する情報のはずなのに、なぜか不安に駆られて、私は必死に回復を祈った。
 聖女様には及ばないかもしれないけれど、私もできる事をしようと、怪我人を運んだり治療したりした。
 本当ならばクリス様に回復魔法を使いたい。
 ──その気持ちを押し殺し、目の前の怪我人に集中する。
 やがて重傷者は一人残らず治療され、戦線には活気が戻った。
 クリス様の容態も安定したと聞き、私は一目見ようと密かに彼のテントに近寄った。
 会いたくて、我慢できなかった。けれど。

「きみが僕を助けてくれたんだね。ありがとう」
「そんな……、私は当然の事をしたまでで、何も……」

 ドクン……と、私の心臓が嫌な音を立てた。
 大丈夫、大丈夫。ただ、助けてくれた聖女様にお礼を言ってるだけ。大丈夫。
 そう思いながら震える足を引きずり、どうにかその場を立ち去った。
 その日からクリス様は聖女様を側に置くようになった。

(私は……ここにいるのに……)

 戦いの間も二人は寄り添うように仲睦まじく過ごし、その瞳にはだんだん熱が込もっていく。

(私には……向けられなかったもの……)

 けれど、私は何も言わなかった。言えなかった。
 今の私は伯爵令嬢アストリアではない。一介の魔法使いアリストだ。
 それに聖女様はただ、クリス様を助けただけ。クリス様は、恩人に対して親しくしているだけ。ここでみっともなく叫んでも疎まれるのは私の方だ。
 だから、二人の仲が急速に深まるのを、私には止められなかった。
 そうして目を逸らし続け、魔物討伐が一段落してそろそろ帰還しようとなったある日、湖のほとりで二人が抱き合うのを見てしまった。

「どうしても、この気持ちが止められなくて……。ごめんなさい。貴方には婚約者がいて、私は平民なのに……」
「エミリア……。僕も同じ気持ちだ」
「殿下……」
「クリス、と呼んでくれ」
「クリス……あっ」

 そして二人の唇は重なった。
 ぎこちなくついばむように角度を変えて何度も繰り返し、やがてその交わりは深くなっていく。
 どうして……? どうして、それは……、クリスって呼べるのは、私だけの特権だったのに。

『きみが僕の婚約者? 初めまして、クリストハルトです。クリスって呼んで』

 そう、言っていたのに。
 私は絶望の中、ただ呆然と二人を見ていた。
 ゆっくりと唇が離れ、クリス様が聖女様の耳元で何かを囁く。聖女様は一瞬目を見開いた後、頬を染めて小さく頷いた。
 それを見て、私は駆け出した。目に入る魔物を全て吹き飛ばす勢いで魔法を放った。視界がボヤけていくけれど、そんなの気にする余裕はなかった。

(何て言ったの? 何て言われて頷いたの? どうして? どうして? なぜ……)

 辺りが炎に覆われる。風が舞い、大地が揺れる。
 誰かが何かを叫んでいたけれど、気にする余裕はなかった。今はただ、この苦しみを私の中から追い出したかった。
 やがて魔力が尽き、私はその場に倒れた。大きな影が私を覆った気がしたが、もう動けない。

(ああ、これで死ねるのかな……)

 そう朧気おぼろげに思ったのを最後に、ふっと意識を手放した。


 気が付くと、私は自分のテントの寝台に寝かされていた。

(私……生きてる……)

 最後に見た大きな影は魔物ではなかったようだ。
 それに安堵していいのか、残念なのか。それすら今の私には判断がつかなかった。

「目が覚めたんですね。大丈夫ですか?」

 ちょうど水差しを交換に来たのか、伯爵家の護衛が声をかけてきた。

「私は……」
「魔力切れで倒れたようです。騎士の方がここまで運んでこられました」

 なるほど、あの影は騎士様だったのか。
 どなたかはわからないけれど、後でお礼を言わなくては。
 ぼんやりと考え、──脳裏にあの二人の姿が浮かび上がる。
 途端に魔力が溢れそうになって、空気が震えた。護衛がびくりと肩を揺らす。

「あ……ごめんなさい」
「いえ……。そう言えば、“白銀の君〟が殿下に呼ばれております。破竹の勢いで魔物を倒していると報告を受けたらしく、興味を持ったようです。どうされますか?」

 白銀の君というのはいつの間にかついた私の通り名だ。少し目立ちすぎたらしい。
 だが、今はそれよりも、殿下という言葉にどきりとした。昼間の光景を思い出して胸がざわざわとする。

「わかりました……。行きます」

 気遣うような表情の護衛に、曖昧に笑ってみせる。
 クリス様に会って、どうしたらいいのだろう。その隣に聖女様がいたら……?
 クリス様の腕に絡みつく聖女様を想像して、頭を横に振った。

(……嫌だな、見たくないな)

 認めたくなかった。クリス様が愛称を呼ばせる意味も、熱のこもった瞳も、抱き締める力強い腕も。
 私にはしてくれなかった事全てを聖女様にしている事に、深い喪失感と失望を覚えた。
 ぽたりと落ちた雫が枕に吸い込まれ、丸いしみとなる。
 あのまま目覚めなければよかったのに。

「うっ…ふぅう……」

 嫌だ。行きたくない。今のまま、何も知らないまま、変わらないままでいたいのに。
 けれど、私は王太子殿下の命に逆らえない。行かなかったら伝言を頼まれた護衛が罰を受けるかもしれないからだ。
 重い身体を起こし、身なりを整えてからクリス様のテントへ向かった。
 入口にいた護衛の方にクリス様に呼ばれた事を伝えるとなぜか驚いた顔をされた。
 ──その理由を知るのは、すぐだった。

「愛している」
「クリス……嬉しい」

 そんな声が聞こえ、私の心臓は凍り付いた。ふらふらとテントの中に誘われるように入る。護衛の方に止められたけれど、無意識にその手を払いのけた。
 見たくない、聞きたくない、何かの間違いだ、と心の底では叫んでいるのに、私の足は操られているように止まらない。
 そして、最奥にある寝室の前まで来て、揺れる二つの影に気付いた。
 嫌な予感がして、そっと中を窺うと──愛を囁きながら裸で睦み合うクリス様と聖女様がいたのだ。忙しない息遣い、耳障りな甲高い声が響き、私は慌てて目を逸らした。
 全身が冷えていくのを感じる。心臓が痛み、まるで鷲掴みにされたかのようだ。

(ああ、そうか。昼間のあれはこれを言っていたのか)

 頭の中では冷静に考える自分がいて、何だか滑稽だ。
 けれど、悲しみ、苦しみ、憤り……様々な感情が私の中で渦巻き、昂る魔力を制御するので必死になる。
 その場に縫い付けられたように動けなかった私を、誰かが引っ張った。

「こちらへ」

 先程テントの前にいた護衛だろうか。その人に背中を押され、ようやくその場を離れられた。
 テントを出た後、お礼も言わずにその人の手を振り払った。一目散に自分のテントに戻り、防音の結界を張ってひとしきり泣いた。
 泣いて、喚いて、先程の記憶を上書きしたかった。気持ち悪くて、全てを吐き出したかった。

『アストリア、……アス、愛している。きみと婚約できて僕は幸せ者だ。愛しているのはきみだけなんだ』

 かつてそう言いながら私の手に口付けた彼は、熱を込めた碧い瞳で聖女様を見つめ、蕩けるように口付け、愛を囁いていた。

(嘘吐き、嘘吐き、噓吐き噓吐き噓吐き……)
「うぁ……あああああああああ」

 この日、私の心は千々ちぢに乱れ、クリス様への愛も信頼も、全てが砕け散った。
 結局その後、クリス様の下へは行かずに、姿変えの魔法で髪色をよくある茶色に変えた。
 誰もが勝利に酔いしれる中、白銀の君の存在自体をなかった事にして、私は護衛たちと共に王都に帰還した。


「アストリア! 無事だったか……」
「お父様……」

 娘が無事に帰還したのに、両親の表情はなぜか浮かなかった。
 きっとクリス様と聖女様の事を聞いたのだろう。

「……リア、お帰りなさい。貴女が無事でよかったわ。疲れたでしょう。着替えて湯浴みをして、しばらく休むといいわ」

 お母様の優しい声を聞いて、私は家に帰ってきたのだと実感した。

「おかあ……さま、おとうさま……」

 その途端、絶望に曇っていた目に、二人の姿が鮮明に映った。

「行かなきゃよかった……。行かなければ、知らないままでいられたのに……」

 ぼろぼろと双眸から溢れるものをそのままに、私はその場にくずおれた。
 嫌な予感がするから、とクリス様のもとへ行かなければ、聖女様と仲睦まじく過ごす姿を見ずに済んだのに。


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