悪役令嬢の結婚後 もふもふ好き令嬢は平穏に暮らしたい

青蔵千草

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1巻

1-3

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 きっと父は、テオ王子が良い方向に伸びることをずっと期待していたのだろう。そして成長するにつれ尊大さが増してきた彼を、私にいさめさせて変えようとしたのかもしれない。
 だが、王子はもはや私たちを遠ざけてしまった。
 深く息を吐いた彼は、冷静な宰相の眼差しになって問いかけてくる。

「さて――アリシアよ。お前がこのまま婚約破棄を受け入れるとして、それにより、王宮内にはどのような影響が出てくると思う?」
「そうですね……。恐らくですが、貴族たちの足並みが乱れるかと思います。特に、身分のあまり高くない貴族が、テオ殿下に取り入ろうと画策する可能性があるかと」
「それはなぜ?」
「理由はどうあれ、殿下が貴族の中で最も下位にある男爵家の令嬢を重んじ、侯爵家令嬢の私を公然とおとしめられたからです。この様子を見て、身分が低くとも王子に気に入られさえすれば好きに権力を振るえると思い、殿下に近づくやからも出てきましょう」

 そして、シェリルを利用せんとする者も出てくるはずだ。なにしろ彼女づてで言えば、王子が意のままに動いてくれる可能性が高いのだから。

「その通り。これからテオ殿下には、えたけもののような者共がまとわりつくだろう。逆に、ある程度の良識を持つ貴族なら、そうしたあやうい王子に近づきはしまい」

 苦々しい表情を浮かべ、父は続ける。

「たとえ侯爵令嬢が罪を犯そうと、夜会で見世物にする必要などないのだ。反逆などの大罪ならば見せしめとしてまだ理解できるが、此度こたびの件は一令嬢への嫌がらせだった。それなら、粛々しゅくしゅくと本人の生家のみに罪を告げれば済む話。つまり殿下は、浅慮でみずから賢臣を遠ざけたということだ」

 彼の指摘に、私も目を伏せて頷く。

「確かに賢い者は、己も同じ目には遭うまいと殿下から距離を取るでしょうね……。私が嫌がらせをしたと信じられていた点を差し引いても、殿下の振る舞いは少々感情的で、思慮に欠けるように思われましたから」

 もしシェリルが王子のきさきだったなら、王族への不敬罪での処罰だと受け止められただろう。だが実際には、彼女は王子のただの友人。
 たとえそれほど彼女が大事なのだとしても、身分の低い令嬢を守るためにはあまりに過ぎた対処だ。つまり王子は必要以上に事を大きくしてしまったのだ。
 また、私を断罪する理由がシェリルの発言のみで、他に証拠を出さなかったのも痛かった。
 実際あの場でも、王子の行動に疑問の目を向ける者がいたのだ。冷静に物事を判断できる知識人たちには、あやうく感じられて当然だった。

「加えて、陛下のおられぬ場で独断で婚約破棄をなさったのも頂けなかった。父王をかろんじていると周囲に判断されてもおかしくはない」
「確かに……そのように思われたでしょうね」
「そして、殿下が本気で男爵令嬢に懸想けそうし、彼女をめとりたいと考えているのであれば、なおを極めておられる。惚れた腫れただけでは、王子の妻という立場は務まらん」

 拳をぎゅっと握った父は、苦々しい表情になって続けた。

「第二王子の妻は、国内貴族の掌握しょうあくをせねばならん重責にある地位なのだ。その令嬢がみずからの低い身分を補って余りある才覚や気骨を持つ娘ならばまだしも、ただ泣いて権力者にすがるしかできないようでは、先は見えておる」
「お父様は、以前からそうおっしゃっていましたね……」

 第一王子はいずれ他国の姫君を妻に迎えるだろう。それにより他国との繋がりが深まり、国が豊かになって安定していく。そう父が語っていたことを思い出す。
 また、第一王子が国外との橋渡し役なら、第二王子は国内の貴族をまとめる存在。貴族たちを掌握しょうあくするため、貴族の中でも高位の家から妻を迎える必要がある。
 そんな国王と父の考えにより、私とテオ王子の婚約が早々に結ばれたのだ。
 宰相の娘で、権威ある侯爵家の娘でもある私は、立場も年齢も彼に相応ふさわしい相手だったから。
 言い替えれば、それだけ国王が息子たちを案じていた証拠でもあった。腹心の部下の娘と婚約させることで、次男のテオ王子の地盤を固めようとしたのだ。
 ――だがその計画は、当の王子の行動で破綻はたんしてしまった。

「今回の件で、エルド殿下につく貴族はより増えていくだろう。そしてアリシア、彼付きの騎士であるカーライル殿にとつぐ以上、お前もその一員となるわけだが」
「はい、承知しております。カーライル様と結婚することは、彼のあるじが私のあるじにもなるということ。そしてその婚姻は、テオ殿下ご自身が認めてくださったことでもありますから」
「そう……殿下ご自身がお前たちの結婚を認めてしまわれた。それが一番の問題なのだ」

 青灰色せいかいしょくの目を伏せ、皮肉をこめて父は言う。

「カーライル殿は次期公爵であり、そこにとつぐお前は、数ある侯爵家の中でも歴史と権威あるウォルター侯爵家の令嬢。つまり、強大な力を持つ貴族夫婦が誕生するというのに、それを殿下おんみずから許してしまわれたのだから」

 はっとした私は、確かに……と頷く。

「古き王族は、貴族が王家の脅威とならないよう、強い力を持たせないよう婚姻を制限し、牽制けんせいしたと聞いています。ですがおっしゃる通り、殿下にそのご様子は見受けられませんでした」

 それに、「私をめとってもカーライル様に利はない」とさっきは思ったが、もし私の汚名が晴れれば、彼は貴族の中でより高みの存在になるのだ。
 国の英雄の上、次期公爵であり、侯爵令嬢を妻に迎えるカーライル様。
 一方テオ王子は、王族とはいえ、身分の序列を守らず侯爵令嬢をおとしめ、男爵令嬢を寵愛ちょうあいした人。さらに彼は、国王と宰相が決めた婚約を独断で反故ほごにした身でもある。
 今後、もし私の無実が明らかになった場合、貴族たちが重んじるのはどちらだろうか。
 少なくとも、テオ王子がシェリルを偏愛している状況では、男爵家より身分が高い貴族たちは、表向き彼に従ったとしても内心はこころよく思わないはず。
 父が眉間を指先で押さえ、絞り出すように言う。

「殿下も、王家と貴族の均衡きんこうあやうくなると察すれば、お前たちの結婚を認めたりはしなかったろう。だが、そこまで考えが及ばれなかったのだ。そして、その事実を白日のもとさらしてしまわれた。もし婚約破棄のみに留めておれば、多少は救いがあると思えたが……」
「お父様……」

 それ以上、彼は口にしなかった。恐らく、テオ王子を見限ったということなのだろう。
 父と同じ考えに至った者たちもまた、波のように王子の傍から引き上げていく。
 そして王子の傍に残るのはシェリルと、二人に群がる権力目当ての貴族だけ。そんな王子が今後、国王に重責を任されたり、民の支持を得られたりするかは、だいぶ怪しい。
 ――だが、それも仕方ないことかもしれない。
 人を簡単に傷つけられるほどの権力を持ちながら、彼はその重みを理解していなかったから。
 振るう力が大きければ、自分に返ってくるものだって大きくなるのに……

(私も同情はしないわ。一歩間違えば、塔の中で毒殺されていたかもしれないんだもの)

 静かにそう思う私の視線の先で、いくらか落ち着いた様子で父が息を吐いた。

「ともあれ――今回の件はもうくつがえらん」
「はい……」
「お前と殿下の間だけの話であれば、陛下も冷静になって思い直すよう殿下をさとされたかもしれんが、公爵家も絡み公然の事実となった以上、もはやなかったことにはできん。陛下もそれはおわかりのはずだ」

 それに、と彼は真剣に私を見つめて続ける。

「殿下とお前の心がこうも離れている以上、無理に結婚させたところで良い夫婦になるとも思えん。……陛下もわしも、お前たちが互いに支えになればと婚約させたのであって、それが難しいとわかった現状で、無理に押し通すつもりはない」
「そんな風に考えてくださったのですね……。ありがとうございます」

 ちゃんと、私の気持ちも考えていてくれたんだ……
 驚きと嬉しさを感じる私に、素直でない父は、ふん、と鼻を鳴らす。

「礼を言うのはすべて終わってからだ。まずわしは明朝、陛下のもとへ謁見に向かう。婚約破棄は受け入れるが、嫌がらせに関しては男爵令嬢の思い違いであると、しかとお伝えせねばなるまい」
「お手間をおかけして、申し訳ございません……」
「構わん。それと同時に、結婚の話を詳しく進めていくつもりだ。どんなに急な話であれ、承諾した以上は準備を進める必要があるのだからな」
「あ……はい。そうですね」

 王侯貴族の力関係も気になるが、確かに当面の問題はこちらだ。実感があまり湧かないとはいえ、すでに話は動いてしまっている。
 はっと思考を切り替えた私は、記憶の中から結婚についての知識を引っ張り出す。

「まず、陛下の正式なお許しを頂いてからのお話にはなりますが。その上でカーライル様のもとへとつぐとして、恐らく四ヶ月後になりますでしょうか……?」

 そう確認したのは、結婚の準備には時間がかかるためだ。
 結婚を公的に成立させること自体は、そう手間はかからない。
 教会で、私とカーライル様の他、証人となる聖職者の立ち合いのもと誓いの式を挙げ、登録簿に署名することで結婚許可証を取得できる――つまり、それで婚姻成立となるのだ。
 さらに言えば、私の場合、王子からすでに結婚を許可されているし、今後もし国王からも結婚の許可が下りるようなら、式を挙げる前にほぼ対外的に婚姻が認められた形になる。
 だから、教会での式は本当に形式上挙げるようなものだ。
 ――問題は、とつぐ際に持っていく、嫁入り支度。
 舞踏会や晩餐会ばんさんかい用の正装のドレスや、茶会服、日常着。他にも外套がいとうや帽子、靴や長靴下、リネン類一式を新たに仕立てるのだが、その準備が大変なのだ。
 すでにとついだ従姉いとこたちを見るに、それらを整えるのに四ヶ月はかけている様子だった。
 たぶん、私とカーライル様の誓いの式は、私が婚約破棄された直後で外聞がよくないため、ほぼ人を招待しない質素なものになるだろう。だが、たとえ式が控えめでも、持っていく花嫁道具は変わらない。むしろ盛大な式が挙げられない分、趣向をらす可能性が高かった。
 また、妻側がそうなら、夫側も受け入れ準備に忙しくなるはず。
 特に今回の結婚は急に決まったため、向こうも準備に大慌てになりそうだ。それで四ヶ月は必要と見積もったのだが――
 父がなんとも言えない顔で、ごほんと咳をする。

「まあ……普通ならば、それだけの期間が必要であろうな。だがアリシアよ、此度こたびの件はどこまでも尋常ではないのだ」
「とおっしゃいますと?」
「先程、早馬で訪れたカーライル殿からの使いによれば、あちらの準備はすぐに整うゆえ、もし可能であれば、三ヶ月後においで頂きたいとの話だった」
「さ、三ヶ月後ですか……!?」

 いくらなんでも早すぎる、とぎょっとした私に、父はやや複雑そうな表情で頷く。

「さらには、それより早く準備が整うようなら、二ヶ月後にお迎えすることも可能と先方は言っておられる。請い願う花嫁ゆえ、少しでも早く迎えたいのだと」
「二ヶ月後って……」

 どれだけハイスピードで準備するつもりなのか。というか、急に決まったことなのに、なんだか結婚に前向きすぎるような。カーライル様、あの場では凄く冷静に見えたのに……
 唖然とする私に、父はしかつめらしく言った。

「そうだ。驚くほど早いが、つまりは、それだけ急ぐ必要があると向こうは踏んだのだろう」
「……急がねば横やりが入るかもしれないと?」

 私は、はっと真剣な眼差しになる。
 もしかして、王子が口を挟んでくるのを危惧きぐしているのだろうか。だが、大勢の前で宣言した手前、人一倍人目を気にする彼が、今さら前言撤回はしないはず。
 もし横やりが入るとすれば、カーライル様の家族からではと気づき、尋ねる。

「あの、もしや、ご家族が反対されているのでしょうか? それも当然だとは思うのですが、そのため急ぎ進めたいとか……」
「いや、どうやらそういうわけではないようだ。両親や親族がなにか言ってくることは恐らくないし、もしそうなった場合でも、みずから説得するゆえ問題ないとはっきりおっしゃっているのだとか」
「そうなのですか?」
「ああ。そもそもカーライル殿は、ご実家の公爵家を何年も前に離れ、一人別の屋敷に住んでおられるらしい。公爵子息ではあるが、今は父君の二つ目の爵位であるセンテ侯爵の名で領地を治めているのだと。なかば独立しているようなもので、干渉は少ないということなのだろう」
「別の領地に、一人でお住まいだったのですね……」

 驚きつつも少しほっとする。結婚相手は自分の判断で決めることを許されているのだとすれば、それだけ両親に信頼されているのだろう。
 そういう状況なら、カーライル様がこうも急ぐのはより不思議だったが、別の可能性に思い到る。もしかしたら、私を早く目の届く場所に置きたいのかもしれない。私を見張るために王子に求婚の許可を願い出たくらい、彼は王家に忠実な騎士なのだから。
 もしとつぐまでの数ヶ月で、私がシェリル絡みで新たな問題を起こせば、彼や王子の面目は丸潰れになる――それを危惧きぐしたのだろう。
 逆に考えれば、私も早めに彼に見張ってもらうことで、シェリルを害する意思がないことを周囲へ迅速じんそくに証明できるのだ。

(……そうよ。それならどんなに急でも、ここは話に乗っておいた方が得策だわ。私だって、ちょっとでも早く平穏な生活を迎えたいもの)

 やがて気持ちを固めた私は、父に向き直る。

「少し驚きましたが、そうも前向きに進めてくださっているなら、私もおこたえしないわけには参りません。お父様、アリシアは二ヶ月後にとつぐため、明日より準備を進めたいと思います」
「ふん――良い覚悟だ。ならば、英気を養うために今日はもう休め。やるべきことは山ほどあるのだからな」

 父はそう言い、ようやくふっと目を細めたのだった。


 自室に戻った頃には、窓の外はさらに深い藍色あいいろに変わっていた。
 天鵞絨ビロードのような夜空に、乳白色にゅうはくしょくの月と、宝石めいた星々が皓々こうこうと輝いている。窓辺から斜めに差しこむ静謐せいひつな光が、室内を青白く照らしていた。それも当然だろう、屋敷に帰ってからもバタバタしていたのだ。恐らく、今は午前一時頃のはず。
 湯浴みを済ませて白い夜着姿になった私は、天蓋てんがい付きの寝台にゆっくりと横たわる。

「なんだか、色々あって疲れたわ……」

 自然と肩の力が抜け、ほっと息がれた。もしかしたら、自分で思っていたよりずっと緊張していたのかもしれない。さっきは、どう父を説得しようと必死に頭を巡らせていたから。
 そしてとつぐ話がまとまった今、ようやくこの土地を離れる実感がじわじわと湧いてくる。
 そう――私は二ヶ月後には、生まれ育った屋敷を離れるのだ。
 厳しく、いつだって誰より正しかった父、まだ無邪気で幼い弟。
 まぶたに浮かんだ二人の姿に、寂しく切ない気分が押し寄せてくる。

(二人とも、元気にやっていけるかしら……。ううん、問題を起こした私がここに残る方が彼らに心配や迷惑をかけるから、これでいいのよね……きっと)

 それに彼らはもちろん、幼い頃から共に過ごしてきた使用人たちとも、近々お別れになるのだ。

「一人なら使用人を連れていっても良いそうだから、誰かはついてきてくれるでしょうけど……他の皆とはもうほぼ会えなくなるのね」

 幼くして母を亡くし父に厳しく育てられた私に、ミアら使用人たちは忠実に仕えつつ、親愛の情を持って接してくれた。そんな彼らとの別れが、今になってひどく寂しく感じられる。
 永遠に会えなくなるわけではないが、これまでのように顔を合わせることはかなり難しくなるだろう。カーライル様の屋敷はここから馬で半日駆ける遠い場所にあるし、そうでなくとも、とついだ娘が実家に帰ることは良しとされていないのだから。
 皆と会えなくなるだけでなく、母の墓にお参りに行くことだって――
 胸がぎゅっと切なくなってくる。

「ああ……それに、ブランとももう遊べなくなるんだわ」

 ふと頭をよぎったのは、婚約破棄の場でも思い浮かべた、蜂蜜色はちみついろの大型犬の姿。
 我が家の飼い犬ではなく、私が幼い頃、屋敷へ紛れこんできた犬で、日に当たった毛並みがまるで黄金の麦の穂のようにも見えたから、ブランと呼ぶようになったのだ。
 初めこそ使用人たちもブランを追い出そうとしたが、彼が賢く大人しい犬だとわかると、触れ合うことを許してくれた。
 恐らく、おきさき教育で忙しく子供らしい遊びができなかった私に、せめて動物とたわむれる時間くらいは、と思ったのだろう。それからは、私と仲良くなったブランがふらりと屋敷にやってくると、使用人たちは私を呼んで遊ばせてくれるようになった。
 もちろん、万一にもブランが私を噛まないよう誰かが見守る中でのことだったが、そのたび、私は彼を撫でて存分にいやされたものだ。思い出して、ふふっと笑う。

「思い浮かべたら、なんだか撫でたくなっちゃった」

 ブランこそが、私がもふもふ好きになったきっかけでもあった。
 触るとふわふわとあったかくて、毛並みに顔をうずめるとおひさまみたいな匂いがして、凄く幸せだった。でも……それももうできなくなるのだ。
 私はじきにこの家の令嬢ではなく、カーライル様の妻になるのだから。

「これが結婚するってことなのね……」

 今まで身近にいた人たちから離れて新しい土地へ向かう。それでも、その先にいとしい相手がいるならまだ寂しくないのかもしれないが、私の場合、結婚するのはよく知らない相手だ。
 私を助けてくれただけでなく世間の評判も良い彼は、きっと良い人なのだと思う。
 それでも、一抹いちまつの不安は残る。なぜならカーライル様は、私を見張るため求婚すると言っていたから。私を監視対象と見ている人と、どこまで夫婦らしく過ごせるだろう。また、家族は同居していないそうだが、屋敷の使用人たちは果たして私を受け入れてくれるかどうか。
 考えるうち、自然と溜息がれてくる。

「王子に婚約破棄された、訳あり令嬢だもの。歓迎してもらえると思う方が間違いよね」

 だが、それは私自身が受け入れて決めたことだ。
 世間にどう思われようと、無事に生き延びる方を――大事な人々を守る方を選んだのだから。
 それにたとえうとましがられたとしても、こちらの歩み寄り次第で、屋敷の人々の印象をわずかでも変えられる希望だってある。

「そうよ、悩んでいても仕方ないわ。……だって、私は好かれるために行くのではなく、カーライル様の妻として屋敷や領地を守るために行くのだもの」

 第一、よく考えればこれは、今まで勉強してきた知識を生かせるチャンスでもあるのだ。
 私はいずれ婚約破棄されて路頭に迷う可能性もあったので、そうなっても一人で生きていけるよう、商売や内職の仕方なども密かに学んでいた。
 一時はそれらが無駄になるかと思ったけれど、この知識だってもしかすれば生かせるかもしれない。
 なにより、慣れない場所で一人ぼうっとしているより、なんでもいいから動いている方が、ずっと気が紛れる気がした。

「さ……考えていないで、眠ってしまいましょう。明日から、きっと忙しくなるんだから」

 そう呟くと、私は決心を固めるように上掛けを首元までかける。
 そしてうとうとするうち、深い眠りへ落ちていったのだった。



   第三章 普通に登場しては、面白くないでしょう?


 ふわふわとしたまどろみの中、私は遠い昔の光景を夢に見ていた。
 幼い頃――たぶん、私が七、八歳頃の光景。小さな私は、夕陽で橙色だいだいいろに染まった屋敷の庭で、自分と同じくらいの大きさの犬をぎゅっと胸に抱き締めている。

『ブラン……また上手くいかなかったの』

 ひっく、と嗚咽おえつを堪えながら言う私に、ブランはくぅん、と鳴いて鼻をり寄せた。
 まるでなぐさめるように、私の頬をそっと舐めた、蜂蜜色はちみついろの毛並みの犬。
 澄んだ青い瞳を持つ彼は、気がつくといつも、私にそっと寄り添ってくれていた。
 ああ……これは確か、お父様に『王宮には行きたくありません』と駄々をこね、けれど問答無用で連れていかれた日の夕方だ。
 テオ王子に会いたくない、会ってはならないと、必死に考えてかわそうとしたのだが、父からはただの我儘わがままだと思われ、ひどく叱られた。
 そして泣き腫らした目でぎゅっと唇を引き結んだ私は、そこでテオ王子に出会ってしまったのだ。
 初めて会う私を見て、やんちゃな印象の顔をしかめた、今よりずっと幼い黒髪の王子。彼の後ろには国王がいて、彼は嬉しそうに目を細めて私を見ていた。
 やがて『うむ、ジョセフに似て実に聡明そうな娘だ』と頷いた国王に、父はいつもの生真面目な顔のまま――しかし、どこか誇らしげに『はっ』と礼をる。
 その後、国王と父がかわした意味深な目配せに、ゲームのアリシアの未来が透けて見え、くらりと眩暈めまいがした覚えがあった。
 駄目なのに、その方向に行ってはいけないのに。
 そう思っても、私はまるで波にさらわれるみたいに、悪役令嬢アリシアの道を進んでいってしまう。それが、怖くて仕方なかったのだ。
 けれどまさか、ここが前世で遊んだゲームと同じ世界で、それゆえに私は残酷な目に遭うはずだから王子とは関わりたくない、などと言えるわけがない。
 そんなことを言えば、気が触れたと思われて部屋に閉じこめられかねなかった。それに、子供とはいえ王子に対して不敬だと折檻せっかんされただろう。ここは、そういう世界なのだ。現代日本とは違う、中世ヨーロッパに近い世界。
 そこで別世界の記憶を持つ私は、異質な存在だった。皆が楽しそうに海で泳ぐ中、一人波からのがれようと必死に砂浜を走っているような――
 そうして嗚咽おえつこらえていると、ブランがくぅん、と鳴いて、私の頬をぺろりと舐めた。
 まるで『元気を出して』と言われているようで、私は涙を浮かべたまま、くすりと微笑む。

『あら……もしかして貴方、なぐさめてくれているの? 優しいのね』

 きっと、なぜ私が泣いているかもわからないに違いない。
 だが言葉の通じない相手だからこそ、ふっと気が楽になった。私がどんなにおかしなことを言っても、ブランは笑いも気味悪がりもせず、ただ不思議そうに見ているだけなのだ。
 だから私は、誰にも言えなかった秘密をぽつりとこぼす。

『ねえ、ブラン。信じられる? 私ね、いずれ第二王子殿下の婚約者になるはずなのよ。そして、いつか王宮の広間で、彼に婚約破棄されるの』

 案の定、ブランはきょとんとした表情だ。その愛らしさに、ついふふっと笑ってしまう。

『嘘だと思うでしょう? でも、本当なの。私は婚約破棄されて、さらに恐ろしい目に遭うの。国外へ追放されたり奴隷どれいの身分に落ちたり……もしかしたら、もっと怖い目に』

 そして私はかすれる声で呟く。

『どうやったら、その未来からのがれることができるのかしら……』

 抱き締めたブランの毛並みに顔をうずめると、次第にうとうとしてくる。
 あったかくて、おひさまみたいないい匂い。
 難しいことを全部忘れて、陽だまりに包まれているような気分になる。
 それが、なんだかとても心地良くて――


「……様、お嬢様……!」

 ふいにミアの声に呼ばれ、私ははっと目を覚ます。

「え、ミア……?」

 半分ぼんやりしたまま顔を上げると、そこは夕陽に染まる屋敷の庭ではなく、がたごとと揺れる馬車の中。窓から明るい陽射しが差しこむ車内で、隣に座ったミアが、気遣わしげにこちらを覗きこんでいた。

「ええ、私でございます。お眠り中のところ恐れ入りますが、段々とセンテ領に近づいて参りましたので、お声がけをと」

 彼女は、わずかに乱れていた私の髪をそっとくしで直してくれる。

「ここ最近、ずっと休みなく動かれていましたものね……お疲れになるのも当然です。もしミアがご疲労を代わることができるなら、是非代わりたいものですわ」

 いたわしげに目を細めるミアは、常より改まった臙脂色えんじいろの侍女服を着ていて、その姿に、ああ……と今の状況を思い出す。
 そうだ、馬車に揺られるうちにいつの間にか眠ってしまったけれど、私はこれからカーライル様のいるセンテ領に――彼のお屋敷に向かうところなのだ。
 そしてミアは、私が誰か一人、嫁入りのお供に連れていきたいと言った時、すぐに「私が参ります!」と手を挙げてくれたため、こうして一緒に向かうことになった。
 ぼやけていた思考が徐々に明瞭めいりょうになり、私は身を起こす。

「そうだったわね……起こしてくれてありがとう。大丈夫、少し眠ったらだいぶ疲れも取れたから」

 私が着ているのも、いつもより意匠をらした水色のドレス。
 長い銀髪と緑の瞳をより美しく見せるため、仕立屋が奮起ふんきして作ったものだ。
 清楚せいそな水色地に薄桃色を合わせたデザインで、飾りのリボンや花も上品な薄桃色。窓硝子ガラスに映る私の姿が、普段よりどこかたおやかに見える。長旅で汚すといけないので、白い花嫁衣装には、屋敷に着いてから着替える予定だ。
 これ以外にも、華やかなドレスの数々が馬車に山と積まれていた。
 そんな馬車の前後を、馬に乗った護衛騎士が一人ずつ守ってくれている。彼らはカーライル様の屋敷の手前まで私たちを護衛し、そこで元来た道を引き返すことになっていた。
 馬車が賊に襲われないよう護衛は必要だが、かといって帯剣した者たちがとつぎ先の敷地内まで入るのは、そこに危険ありと言っているも同然で、慶事においては無礼に当たるからだ。なので、実際に屋敷まで足を踏み入れるのは、私とミアに御者ぎょしゃのダン、それに嫁入り支度の大荷物だけ。

(本当に山ほどの荷物になったけれど、無事に準備が整って良かったわ)

 ほっとしつつ、息を吐く。
 そう――国王から「テオとの婚約破棄はやむなし。カーライルとの結婚も認める」とのお言葉を頂き、カーライル様と結婚の話し合いをしてから二ヶ月、支度にずっと奔走ほんそうしていたのだ。
 私が婚約破棄されてすぐの状況をかんがみ、やはり親類縁者を呼ぶ盛大な結婚式は挙げないことになり、カーライル様の領地内の教会で、二人で静かに誓いを立てることになっている。


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