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一時的平穏

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 もう六月も後半になり、気温が高くなって来た。私の苦手とする高い湿気も相まって、半袖を来ているのに肌がじめついて気分が落ちる。室内から部屋の外の雨を眺めるのは嫌いじゃないのだが、自分が傘をさして街中を歩くというのは、何故こうも鬱陶しく思えてしまうのだろうか。
 確か江戸時代など、長患いになるのは梅雨の時期が多かったと何かの書物で見た記憶があるが、木造長屋の造りは隙間風も入りやすいし、病を癒やすための布団が湿気でじめついて乾きにくいなども関係あるのだろうか。ふかふか布団の方が気分がいいに決まっているだろうし。仕事が暇なのでついついどうでもいいことを考えてしまった。

「本当に嫌よねえ……雨ばっかりで」

 カウンターで頬杖をついてマスターがブツブツ言っている。お店も駅前や繁華街にある訳ではないので、毎年、梅雨時は近所の常連のお客さんも出るのが億劫になるようで、割と暇なことが多いのだそうだ。現に本日は五人しかお客さんが来ていない。今はもう夕方六時を回っているのに、ジバティーさん達が定席でお喋りしているだけである。

「こんにちはー、っと。ふう、傘の乾く間がないって嫌よねえ」
「あ、真理子さん。いらっしゃいませ」

 今日はこれで店じまいか、と思っていると、相変わらずメイクも隙がない真理子さんが現れた。本日も美人さんである。
 マスターもまだ苦手ではあるものの、病み属性がない真理子さんに対しては、ゴリ押しされない分、ある種の安心感みたいなものがあるらしい。

「あらまた来たの? 懲りないわねえ」

 と軽口を叩きながらもブレンドの用意を始めた。

「私コーヒー党ですし、ぱんどらのコーヒーもお店の雰囲気も好きですもの。あ、それと坂東さん、いつも言ってますけど、子供が欲しくなったらいつでもお気軽に言って下されば。バーンと受け止めますから私。種の存続って人間には大切ですものね。便利ですよー、後腐れのない女ですし、結婚も嫌ならシングルマザー上等な稼ぎもありますし、両親もまだ元気ですし。間違っても養育費なんか求めませんからお勧め物件です」
「だからね、どんどん私をどうしようもないクズ人間にしようとするの止めてくれないかしらね?」
「大丈夫です。種だけでもくれと言っている私の方がよっぽどクズですのでご安心下さい」
「だから全く安心出来ないのよ」

 文句を言うマスターからブレンドを出され、一口含むと「うん、やっぱり美味しいわ。仕事の後のご褒美ね」と呟いた。
 マスターが賄い飯の食材を自宅に置いたままだったから、ちょっとお願いね、と裏口から出て行くと、真理子さんが私を見た。
 
「──で、どうなのあれから?」

 例の私への嫌がらせについてのことだとすぐ分かった。

「一応、先日購入した防犯ブザーとか催涙スプレーも毎日持ち歩いてるんですが、あれから特に何も起きてはいないです。不思議とポストに何か入っていたり、ドアに何かされるというのもなくなって……あれ、何だったんでしょうかね」
「私に言われても困るわよ。何も起きてないなら良かったけど、まだこれから何があるか分からないし。女の子の一人暮らしなんだから警戒は緩めたらダメよ? 時間を空けて油断したところをってケースもあるのかも知れないし。最近は物騒な世の中だもの。……実は私も一昨日、仕事帰りにホームから転落しそうになって」
「えっ? 突き飛ばされたとかですか?」
「……かどうかは断言出来ないわ。混雑していたし、歩いてて肩からドンって来られた感じで、男性か女性かも分からなかったの。単にその人も誰かを避けようとしてこちらにぶつかったのかも知れない。ただ、電車が入って来る直前だったから、こっちはホームから落ちないようにって、よろめいた瞬間とっさにそばにいたおじさんの服をガシッと掴んじゃって。おじさんがびっくりした顔してたけど、それどころじゃなかったもの。後でめちゃくちゃ謝ったわよ」
「通勤時は人が多いですもんね。真理子さんの方こそ何事もなくて良かったじゃないですか」
「……でも、それだけじゃなくて、昨日は誰かに尾けられているような気がして。まさか痴漢か変質者? と思って何度も振り返ったけど、そのたびに年配の人とか学生に若い女性ぐらいしか見えなくて。でもすごく嫌な視線は感じるのよ。まあ私は御覧の通り、かなり男性の視線は貰うタイプだから、そういう気配には敏感なの。気のせいかと思ったけど、コンビニ寄ったり別の店入ったり、普段使わない道をグルグル遠回りしてたら、ようやく嫌な視線を感じなくなったので自宅に戻ったんだけど……私も実家から離れて一人暮らしだから、小春ちゃんも慣れてるとは言っていたけど、やっぱり怖かっただろうなと思って」
「マスターを口説き落とすためにクズカミングアウトをする美人から、思いやりと気遣いの出来る美人にジョブチェンジしましたか?」
「やあね。クズも自覚してるけど、小春ちゃんのことはこれでも気に入ってるし心配してるのよ私」
「冗談ですよ。ありがとうございます。……でも、真理子さんぐらい美人だったら、変態の一人や二人ついててもおかしくないですが、あの別れた恋人さんとかの可能性は?」
「ああ、あの人。暫くしつこくメールとか電話来てたけど、あれでも会社では見てくれいいから、別の女性からのアプローチもあったみたいで今は全くよ。ちょっと顔がいいからって騙されちゃって。平気で社内で二股とかするような、中身最悪男なのにねえ」
「ご自身にブーメラン戻って来てませんか」
「坂東さんは『ちょっと』じゃないでしょう。絶滅種並みの美形よ? 正直あそこまでのレベルなら、騙されたところで別に怒りも湧かないわ。ゲイなのがつくづく惜しいわ。私の見た目も何の役にも立ちゃしない」
「……まあそうですね」

 私を気にかけてくれる真理子さんには申し訳ないが、マスターが守りたい世界を死守せねばならないので、打ち明けるつもりはない。

 それにしても、こんな緑が多い若干ローカルな地域でもやはり東京とは物騒なところなのだなあ、と少し田舎者としてののんびり構えていた気持ちを引き締めた。防犯グッズは当分手放さない方がいいかも知れない。



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