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泉谷さんの不在
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ひろみさんの話で、一週間ぐらいは坂本さんの凸があるんじゃないかとビクビクしていた私だったが、怖いぐらい何もない。
「……ひろみさんの気のせいだったんですかね?」
「どうかしらねえ? ま、でも何も無ければそれに越したことはないじゃないの。私は精神的に穏やかに過ごせるなら何でもいいわ」
マスターは里芋の煮っころがしを器に盛りながら、大根の味噌汁の鍋の火を止めた。今日の夜のメインのおかずはチキンの照り焼きのようだ。いつもながら主婦力が高いというか、涎が出そうなメニューである。
マスターと、いやはや労働の後のご飯は美味しいですねえ、と有り難く頂きつつ、ジバティーさん達に見せる動画の確認をしようとしたのだが、何故か午後から散歩に出かけたはずの泉谷さんがまだ戻って来ていない。いつも動画やテレビを見る時間を楽しみにしていたのだが。
「李さん何か聞いてます?」
『何も聞いてないヨ』
「杏さんやマークさんは?」
『僕は聞いてないです』
『泉谷さんよく寄り道してるもん。野良猫とかいるとずっと眺めたりしてるしねー』
「んー、まあ今日は杏さんの好きなのを見る日ですから、先に見始めちゃいますか」
『わーい。じゃあこの間のガチで怖い話シリーズの続き見よーよ』
『私怖い話あまり好きじゃないネ。心臓止まりそうになるヨ』
『どうせなら事故物件シリーズにしませんか。僕らのフレンドいるかも知れませんし』
もう心臓は止まってるだろうがとか、フレンド勝手に見つけようとするなとか心の中で思いながらも、杏さんの希望で【おっかねえ実話:暗黒旅館】なる動画の再生を始めた。注文を付けていた李さんさんたちも大人しく画面に見入っている。
私はまたマスターと話をしつつ、泉谷さんの帰りを待っていたのだが、結局動画の上映時間が終わるまで彼が戻って来ることはなかった。
「……何もしてないのに成仏しちゃった、とかじゃないわよね?」
マスターが気になっているようで、私に確認して来る。
「私に聞かれても困りますよ」
だが、ジバティーさん達は、私が来る前などは適当に夜中にも散歩に出ていたようだし、結構好き勝手に居たりいなかったりしていたそうだが、話が出来る私が来て、貴重な娯楽の提供がスタートしてからは、必ず皆が顔を揃えていた。一番の古株である泉谷さんは、特に暇だった時間が長い人なので、私に一番感謝の言葉をくれたのも彼である。
「成仏してたのならいいんですけどね」
私は制服がわりの白いエプロンを外すと、帰り支度をしつつ、「帰りに公園とかちょっと覗いてみますね」とマスターに声を掛けた。どうせご近所である。私も探す時間を割くぐらいには、泉谷さん達ジバティーの面々には好意を持っているのだ。
「ちょっと小春ちゃん! 若い女性がこんな夜遅くに公園に一人で行くなんて危ないわよ。──心配だから私も行くわ。片付けるまで少し待ってて」
「あ、すみません」
夜八時を過ぎた空には星がいくつかと、丸みのある半月が浮かんでいる。
マスクに帽子に薄手のコートと、夜道の変態三原則みたいな恰好のマスターと共に、戸締りをした後、近くにあるボートに乗れるほど大きな池がある公園に向かう。泉谷さんはここが大のお気に入りなのだ。
泉谷さん達が言っていた痴漢騒ぎも、あれから何も起こらずに大分鎮静化していたようで、何組かのカップルもベンチに座っていちゃいちゃしている姿はあったが、それでもやはり人通りは少ない。
私しか泉谷さんを見つけられないので、ゆっくり歩きながら左右に注意をしていたのだが、なかなか見つけられない。
「──どう? 見つかりそう?」
「今のところ見当たりませんね」
人が少ないのはマスターとしても有り難いようで、一緒に歩いていても足取りが軽そうだ。依然として私の腕をそっと掴んではいるのだが。これはセクハラと言うより、単に外で変な女性に絡まれる潜在的な恐怖からの無意識行動なので、許容している。ただ、百八十センチを超える男性が百五十八センチの女子に掴まって歩くのは少々目立つのではないかという気もしなくはない。
……ふと、公園の出口付近のベンチに座っている、トレンチコートを来て缶コーヒーを飲んでいる中年男性に目が行った。勿論生きている人間である。外灯で照らされる顔は疲れたような気配を滲ませており、何か手帳を開いて見ているらしいのだが、何故かその後ろで覗き込むように一緒に手帳を覗いている泉谷さんがいた。
「何やってんですか泉谷さんはもう」
マスターと一緒にわざとゆっくりその男性の前を通りつつ、泉谷さんに気づけアピールしていると、気配に気づいたのか泉谷さんが顔を上げ、『おお小春、エエところに』などと言いながら近づいて来た。
「もう娯楽時間終わっちゃいましたよ。皆さん心配してました。勿論私もマスターも。何の連絡もなしに帰って来ないと成仏したかと思っちゃうじゃないですか」
中年男性の斜め前のベンチにカップルの振りをして腰を下ろし、泉谷さんに小声で注意すると、『ははっ、いやーそらすまんかった』とぺこりと頭を下げた。
『あの兄さんが気になっててなあ』
「あの方ですか? ──浮遊霊でも地縛霊でもないですよ」
『いやな、あの兄さん刑事さんみたいやねん。何かな、事件の捜査で行き詰っとるーって感じやねん。……なあ小春、ワシら何か協力出来んかな』
「出来る訳ないでしょう、刑事さんですよ? 私達のような素人が何を協力するって言うんですか」
マスターにも話をすると、当然ながら首をぶんぶん振った。
「霊までは百歩譲って我慢、いや本当は我慢したくないけどするわ。でもドラマじゃないんだから、何でもかんでも首を突っ込むのは良くないわよ。大体、私達に何が出来るって言うのよ?」
「そうですよ泉谷さん。警察のお仕事は警察の方にお任せしないと」
『いやな、それは分かってんねん。ワシも邪魔したい訳とちゃうんや。ただ、あの兄さんの手帳になあ、李さんの名前が書いてあってん。もしかしたらうちの李さんちゃうかなあ、って。いや多分、同姓同名の人やとは思うんやけど、気になってもうてなあ』
「……本当ですか?」
国会図書館まで行ったのに李さんの事件は見つからなかった。勿論、毎日多くの事件が起きているので、載らない事件なんて沢山あるに決まってるのは理解している。だが、警察であれば処理した事件は記録に残っているのである。あの刑事さんが持っている情報が、本当にうちの李さんの情報なのであれば、欲しい。とても欲しい。
いや、入手したからといって、李さんが成仏出来る何かが出来ると決まった訳ではないが、事件の詳細を聞いて、色々忘れている李さんが何か思い出すきっかけにはなるかも知れない。
マスターに泉谷さんの話を伝える。少し驚いたマスターは、それでも、と小声で返事をした。
「確かに、知りたいけど……どう説明すればいいのか私には見当もつかないわ。それに、捜査資料って一般人に晒すのは違法でしょう?」
「……ですよねえ……」
『何かいい言い訳がないもんやろかなあ』
「そんなうまい話なんてないわよ。すみませーん、うちの幽霊が被害者かも知れないんで情報教えて下さーい、とか言える? 逆に私達が犯罪に関与してるんじゃないかって疑われない?」
「その通り過ぎて返す言葉もないですね」
『そやけど、このまま無視するのも勿体ない話やろ? 李さんの為になるかも知れんし』
「確かに……」
──私達はつい話に没頭しすぎていた。
こちらの様子が何か変だと思い、黙って見ていた刑事さんが近づいて声をかけて来るまで全く気付かない程度には。
「──今、刑事がどうとか、捜査資料がどうとか仰ってませんでしたか?」
顔を上げると、確かに少し前に向かいに座っていた筈の刑事さんが、目の前に立っていて、私は思わずひゅっと息を飲んだ。
マスターはと言えば、私の服を強く掴んだまま硬直している。
(……私は定職につく前に前科がつくのだろうか……)
少々泣きそうになりながらも、洗いざらい説明するしかないと覚悟を決めるほかはなかった。信じて貰えるかどうかは別として。
「……ひろみさんの気のせいだったんですかね?」
「どうかしらねえ? ま、でも何も無ければそれに越したことはないじゃないの。私は精神的に穏やかに過ごせるなら何でもいいわ」
マスターは里芋の煮っころがしを器に盛りながら、大根の味噌汁の鍋の火を止めた。今日の夜のメインのおかずはチキンの照り焼きのようだ。いつもながら主婦力が高いというか、涎が出そうなメニューである。
マスターと、いやはや労働の後のご飯は美味しいですねえ、と有り難く頂きつつ、ジバティーさん達に見せる動画の確認をしようとしたのだが、何故か午後から散歩に出かけたはずの泉谷さんがまだ戻って来ていない。いつも動画やテレビを見る時間を楽しみにしていたのだが。
「李さん何か聞いてます?」
『何も聞いてないヨ』
「杏さんやマークさんは?」
『僕は聞いてないです』
『泉谷さんよく寄り道してるもん。野良猫とかいるとずっと眺めたりしてるしねー』
「んー、まあ今日は杏さんの好きなのを見る日ですから、先に見始めちゃいますか」
『わーい。じゃあこの間のガチで怖い話シリーズの続き見よーよ』
『私怖い話あまり好きじゃないネ。心臓止まりそうになるヨ』
『どうせなら事故物件シリーズにしませんか。僕らのフレンドいるかも知れませんし』
もう心臓は止まってるだろうがとか、フレンド勝手に見つけようとするなとか心の中で思いながらも、杏さんの希望で【おっかねえ実話:暗黒旅館】なる動画の再生を始めた。注文を付けていた李さんさんたちも大人しく画面に見入っている。
私はまたマスターと話をしつつ、泉谷さんの帰りを待っていたのだが、結局動画の上映時間が終わるまで彼が戻って来ることはなかった。
「……何もしてないのに成仏しちゃった、とかじゃないわよね?」
マスターが気になっているようで、私に確認して来る。
「私に聞かれても困りますよ」
だが、ジバティーさん達は、私が来る前などは適当に夜中にも散歩に出ていたようだし、結構好き勝手に居たりいなかったりしていたそうだが、話が出来る私が来て、貴重な娯楽の提供がスタートしてからは、必ず皆が顔を揃えていた。一番の古株である泉谷さんは、特に暇だった時間が長い人なので、私に一番感謝の言葉をくれたのも彼である。
「成仏してたのならいいんですけどね」
私は制服がわりの白いエプロンを外すと、帰り支度をしつつ、「帰りに公園とかちょっと覗いてみますね」とマスターに声を掛けた。どうせご近所である。私も探す時間を割くぐらいには、泉谷さん達ジバティーの面々には好意を持っているのだ。
「ちょっと小春ちゃん! 若い女性がこんな夜遅くに公園に一人で行くなんて危ないわよ。──心配だから私も行くわ。片付けるまで少し待ってて」
「あ、すみません」
夜八時を過ぎた空には星がいくつかと、丸みのある半月が浮かんでいる。
マスクに帽子に薄手のコートと、夜道の変態三原則みたいな恰好のマスターと共に、戸締りをした後、近くにあるボートに乗れるほど大きな池がある公園に向かう。泉谷さんはここが大のお気に入りなのだ。
泉谷さん達が言っていた痴漢騒ぎも、あれから何も起こらずに大分鎮静化していたようで、何組かのカップルもベンチに座っていちゃいちゃしている姿はあったが、それでもやはり人通りは少ない。
私しか泉谷さんを見つけられないので、ゆっくり歩きながら左右に注意をしていたのだが、なかなか見つけられない。
「──どう? 見つかりそう?」
「今のところ見当たりませんね」
人が少ないのはマスターとしても有り難いようで、一緒に歩いていても足取りが軽そうだ。依然として私の腕をそっと掴んではいるのだが。これはセクハラと言うより、単に外で変な女性に絡まれる潜在的な恐怖からの無意識行動なので、許容している。ただ、百八十センチを超える男性が百五十八センチの女子に掴まって歩くのは少々目立つのではないかという気もしなくはない。
……ふと、公園の出口付近のベンチに座っている、トレンチコートを来て缶コーヒーを飲んでいる中年男性に目が行った。勿論生きている人間である。外灯で照らされる顔は疲れたような気配を滲ませており、何か手帳を開いて見ているらしいのだが、何故かその後ろで覗き込むように一緒に手帳を覗いている泉谷さんがいた。
「何やってんですか泉谷さんはもう」
マスターと一緒にわざとゆっくりその男性の前を通りつつ、泉谷さんに気づけアピールしていると、気配に気づいたのか泉谷さんが顔を上げ、『おお小春、エエところに』などと言いながら近づいて来た。
「もう娯楽時間終わっちゃいましたよ。皆さん心配してました。勿論私もマスターも。何の連絡もなしに帰って来ないと成仏したかと思っちゃうじゃないですか」
中年男性の斜め前のベンチにカップルの振りをして腰を下ろし、泉谷さんに小声で注意すると、『ははっ、いやーそらすまんかった』とぺこりと頭を下げた。
『あの兄さんが気になっててなあ』
「あの方ですか? ──浮遊霊でも地縛霊でもないですよ」
『いやな、あの兄さん刑事さんみたいやねん。何かな、事件の捜査で行き詰っとるーって感じやねん。……なあ小春、ワシら何か協力出来んかな』
「出来る訳ないでしょう、刑事さんですよ? 私達のような素人が何を協力するって言うんですか」
マスターにも話をすると、当然ながら首をぶんぶん振った。
「霊までは百歩譲って我慢、いや本当は我慢したくないけどするわ。でもドラマじゃないんだから、何でもかんでも首を突っ込むのは良くないわよ。大体、私達に何が出来るって言うのよ?」
「そうですよ泉谷さん。警察のお仕事は警察の方にお任せしないと」
『いやな、それは分かってんねん。ワシも邪魔したい訳とちゃうんや。ただ、あの兄さんの手帳になあ、李さんの名前が書いてあってん。もしかしたらうちの李さんちゃうかなあ、って。いや多分、同姓同名の人やとは思うんやけど、気になってもうてなあ』
「……本当ですか?」
国会図書館まで行ったのに李さんの事件は見つからなかった。勿論、毎日多くの事件が起きているので、載らない事件なんて沢山あるに決まってるのは理解している。だが、警察であれば処理した事件は記録に残っているのである。あの刑事さんが持っている情報が、本当にうちの李さんの情報なのであれば、欲しい。とても欲しい。
いや、入手したからといって、李さんが成仏出来る何かが出来ると決まった訳ではないが、事件の詳細を聞いて、色々忘れている李さんが何か思い出すきっかけにはなるかも知れない。
マスターに泉谷さんの話を伝える。少し驚いたマスターは、それでも、と小声で返事をした。
「確かに、知りたいけど……どう説明すればいいのか私には見当もつかないわ。それに、捜査資料って一般人に晒すのは違法でしょう?」
「……ですよねえ……」
『何かいい言い訳がないもんやろかなあ』
「そんなうまい話なんてないわよ。すみませーん、うちの幽霊が被害者かも知れないんで情報教えて下さーい、とか言える? 逆に私達が犯罪に関与してるんじゃないかって疑われない?」
「その通り過ぎて返す言葉もないですね」
『そやけど、このまま無視するのも勿体ない話やろ? 李さんの為になるかも知れんし』
「確かに……」
──私達はつい話に没頭しすぎていた。
こちらの様子が何か変だと思い、黙って見ていた刑事さんが近づいて声をかけて来るまで全く気付かない程度には。
「──今、刑事がどうとか、捜査資料がどうとか仰ってませんでしたか?」
顔を上げると、確かに少し前に向かいに座っていた筈の刑事さんが、目の前に立っていて、私は思わずひゅっと息を飲んだ。
マスターはと言えば、私の服を強く掴んだまま硬直している。
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