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アナの場合。【5】

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「……ふう」

 屋敷に戻った私は、早すぎない? という母様の問い掛けを曖昧に濁して自室に戻ると部屋着に着替え、そのままベッドにダイブした。

(……私がまだ弱いのに偉そうに指図しようとしたせいかなあ……)

 レイモンドが今まで私に対して怒ったことなど一度もなかった。私が彼の怒っているところを見たのは、学生時代に貴族のクラスメイトが平民の友人に対して侮蔑的な発言をしたのが判明した時と、仕事をおざなりにして部下の女性に関係を強要しようとする既婚者の職員を怒鳴りつけ辞めさせた時だけだ。普段は仏頂面だが、癇癪もちでもないし、理不尽な怒りをぶつけるタイプでもないのだ。

(やっぱり、まだ背中を預けるには力不足なのかな……)

 女としては護衛術も学んでいるし剣も扱え、自分はそこそこ使える人間ではないかと思っていたけれど、今回大きなシカが前に立っていた時に、ただ怖いという感情が沸き上がったのも事実だった。手に持っていた小さなナイフで何が出来るのか。彼にシカが突進して来たらどう処理すればいいかなんてサッパリ分からなかった。ただ咄嗟に自分の身を防波堤代わりにすることしか思い浮かばなかったのだ。稽古と実戦は違う。それは頭では理解していたけれど、体で理解はしていなかったのだ。

 ただ、私がレイモンドの役に立てないということは、私が結婚相手としてふさわしくないということにも繋がってしまう。父の職務での功績や兄、妹の王族との婚姻でたまたま伯爵位を持っているだけで、名家でもない。結婚式直前でこんなことが起きたのは予想外だったが、下手をすれば式取り消しや婚約破棄になる可能性だってある。こんなはずではなかった。クラスメイト達との模擬戦闘で相手を負かした時に、『アナはすごいな!』といつも笑顔で褒めてくれたレイモンドに、私のようなガサツな女を嫁にしてくれる彼に報いるのは剣術や護衛術を極めることだ、と心に決めて数年。

「これは全部台無しになっちゃうかも知れないなあ……」

 自分で言ってるのに、呟いた途端に涙が出た。自虐的にもほどがある。私はそんなにクヨクヨ悩む人間ではなかったはずだ。

(よし! 明日王宮に行ってレイモンドに謝ろう。技術も実戦経験も不足していたせいで彼を危険に晒してしまった。これから今まで以上に頑張ることを誠意をもって伝えれば、きっと許してくれるわよね?)

 がばっとベッドから起き上がると私は頬を叩き、風呂に入る前にまず筋トレだわ、とトレーニングルームへ向かうのだった。



 父様は珍しく仕事で遅くなるとのことで、母様と戻ってきたブレナン兄様だけ夕食を摂ることになった。ブレナン兄様は母様譲りで文才や画才があるため、ガーランド新聞社に就職して、絵を描いたりコラム記事を書く仕事をしている。時間が不規則なので、戻れない時のために職場の近くに部屋を借りており、週に一度か二度程度しか戻って来ない。

「仕事は順調なのブレナン兄様? ちゃんと睡眠取ってる?」
「まあボチボチかな。この仕事好きだし、少しぐらい寝不足でもどうってことないよ」

 相変わらず美味いなあ、と母様お得意のバターチキンカレーを二杯もお代わりして、現在はルーシーが淹れたコーヒーに少しだけミルクを落として楽しそうに私を見た。

「それより、わが妹どのは、レイモンドとの結婚直前というのに何やら浮かないご様子ですなあ。──どうした、レイモンドと喧嘩でもしたのか?」

 ブレナン兄様とレイモンドは同級生で親友でもある。

「あら、そうなのアナ? 私はてっきりこないだからのアンニュイな気分が続いてるんだと思っていたけれど」

 母様が少し驚いた表情で私の顔を覗き込んだ。

「やあね、そんなことないわよ。普通よ普通。ちょっと疲れてるだけよ」
「そう? それならいいのだけど……」
「式の取材と記事は僕の担当になったから、本当に何かあったら事前に言ってくれよ? 可愛い妹の結婚式なんだからな。ないとは思うが、もしレイモンドに許容できない性癖とか、愛人を囲ってるなんて話があればぶん殴って説教してやるから安心しろ」
「縁起でもないからよして。でもそんな時は頼むわ」

 いつも陽気なブレナン兄様との会話で気分もいくらか浮上して来た頃、父が帰って来た。

「ダーク、お帰りなさい。今夜はバターチキンカレーだけどすぐ温める?」
 母様がいつものようにジャケットを受け取り尋ねると、「いや、少し後にしてくれるか?」と断り私を見た。

「アナ、悪い。食事が済んでるなら、少し話があるので書斎まで来て貰えるか?」
「? はい」

 何だろう、といぶかしみつつ父について書斎に入る。ミニテーブルの椅子に促されて腰掛けると、難しい顔の父様が語り出した。

「ヒューイから聞いたが、今日は途中でアナだけ帰されたらしいな。細かい事情は分からんが、レイモンド殿下が『私はアナと結婚して本当にいいのだろうか……延期した方が……いや、だが』と一人悩まれていたと聞いてな。……一体何があった?」

 私は頭からサーっと音を立てて血が引いていくような感触を味わった。まさか本当にレイモンドと婚約破棄になってしまうのだろうか? まだ謝罪すらしていないのに。
 私は、父様に今日の出来事を全て話すことにした。




 
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