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10.令嬢は好き嫌いなどしないのです

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 私のために特別に作られた小規模な農園では、屋敷で食べるための野菜や香草が栽培されている。

 今日は視察をすると先に伝えてあったせいか、レイナルトが先にやってきて農夫と話し込んでいる。この数日で大変な心労が積み重なっているだろうに、朝から晩まで働いている彼には頭が上がらない。

「食べ物たくさん、いい感じ。気が満ちてる。森ほどじゃないけど」

 ノエルは目を閉じ、胸いっぱいに朝の空気を吸い込んだ。

「ね、素敵な所でしょう?」

 ノエルは興味深げに畝の間に足を踏み入れ、青々とした人参の葉をつついている。

「いかがでしょう、お嬢様」

 話を終えたレイナルトが人参を一本引き抜いてノエルにうやうやしく差し出すと、彼女はまるで予算を承認する大臣のように厳かに頷いた。

「うむ、すばらしいにんじんである。大精霊もおよろこびになるであろう」

 一体誰の真似なのか、ノエルが真面目な顔をして頷くので、思わず笑ってしまった。

「ノエルは人参が好きなのね。昨日もとくに好き嫌いせずに食べていたわね」
「うん、人間のたべもの全部好き。にんじん食べていい?」
「ここでは食べられないわよ」

「泥を落とせば食べられますよ」

 レイナルトがさっと井戸水で洗った人参を、ノエルは小さな口でばりばりと食べはじめた。

「歯が健康なのね、いいことだわ。それになんでも食べる。カシウスも好き嫌いがなかったものね」
「……そ、そうですね」

 レイナルトはごほりと咳き込んだ。彼の体調が本当に心配だ。

「レイナルト、大丈夫? 疲れているなら久し振りに薬膳粥でも……」

 こちらに嫁いで間もない頃は、体調が優れない私のために粥を作って貰う事が多かったのだけれど、料理長特製の薬膳粥にはエメレットの土地で採れた薬草がふんだんに盛り込まれていた。なんとかおいしく食べられる様に工夫はされていたのだけれど、栄養を摂ることを最重視したそのおかゆは、子供の味覚にはあまり好ましいものではなかった。

 けれど、カシウスは平気な顔をして、ぱくぱくと食べていたものだ。『効率良く栄養が取れる素晴らしい料理です』だなんて言いながら。私がお粥しか食べられない時は、いつもカシウスも同じ物を食べていた。

 薬膳粥、と聞いてレイナルトが吹き出した。どうやら咳き込んでいるのではなくて、笑いをこらえていただけだったらしい。

「どうしたの?」
「いや、その……もう今だから言ってしまいますけれど、旦那様はものすごい偏食家だったんです。野菜なんて嫌いなものの代表格ですよ」

 レイナルトの言葉に耳を疑わざるを得ない。カシウスはとにかく真面目で、わがままなんて言わないし、癇癪ひとつ起こさない、鉄のような少年だったのだ。野菜が嫌いだなんて、そんな子供っぽい一面があるなんて、考えもしなかった。

「でも、私の前では……」
「見栄、ですよ。もう、薬膳粥……ものすごいしかめ面だったのを思い出しちゃって……」

 記憶をたぐり寄せる。私の目にはしれっと冷め切ったような顔に見えていたけれど、実はそれは必死にこらえていたのだと言う。

「アリー様だけにこんなまずいものを食べさせるのはかわいそうだ、って。俺とエレノアもいっしょに食べます、と言ったんですけどね。『まずいだけで安くはないのだから、お前達は普通の食事を摂れ』と」
「そうだったの……」

 結婚生活が長くても夫については知らない事だらけだ。私が生きている間にカシウスの事をもっと知る機会はあるのだろうか。

「セロリもたべる!」

 昔話に花を咲かせているあいだに、ノエルは次の野菜に目をつけていた。レイナルトが洗うのをじっと待って、渡されるとすぐに躊躇なく口に放り込む。

「セロリはおいしい?」
「うん」
「そういう所は似てないんですねえ……旦那様はセロリも嫌いでした」

「あら、でも、セロリはハンバーグに入っているじゃない?」

 うちの料理長自慢のハンバーグに刻んだセロリが入っているのは、昔から変わらない。

「気が付いてなかったんだと思いますよ」
「そんなことあるかしら?」
「ありますよ。とにかく、アリー様の前では立派に見せようと必死でしたから」

 レイナルトは私よりずっとカシウスの事を知っているのに、ノエルがやってくるまでは尋ねても教えてくれることはなかった。それは彼が忠誠を誓っていて、友人だと思っているのはカシウスであるゆえなのだけれど、どうやらノエルの存在は口を軽くさせるようだ。

「ハンバーグってなに?」
「ひき肉と野菜を混ぜて、まあるくして焼いた物よ。食べやすいから、よく作ってもらうの」

 ノエルは私の説明を聞いても、あまりピンとこないようだ。王都の方で流行った料理だから、エメレット出身のノエルが知らないのも無理はない。

「とっても美味しいわ。私は大好きよ」

 ノエルの瞳がきらりと輝いたように見えたのは、太陽の光のせいだけではないだろう。

「ノエル、それ食べたい。ハンバーグ食べたい」
「ええ。料理長にお願いしておきましょう」
「わーい」

 ノエルは喜びを表現している……のだろうか、両手を上げてぴょんぴょんと跳びはねた。

「あらあら、元気ね。私はこの後お仕事があるから、ノエル、お昼ご飯まで遊んでいてくれる?」
「勉強おしまい?」
「ええ。屋敷の中は自由に移動していいけれど、大人の人の言うことは聞いてね」

「はーい。あっちの子にも野菜あげよっと」

 いつの間にか目星をつけていたのか、ノエルはいくつかの野菜を持って、迷いなく馬小屋の方へ走り去っていった。

「やれやれ、すっかりノエルお嬢様が板についてしまいましたね」
「ね。不思議な子だわ」

 一緒に過ごしてみて、カシウスと外見はそっくりでも性格はだいぶ違うことはわかった。けれど、それがこの屋敷に今まで無かった活力を与えてくれている……と思うのは、自分勝手過ぎるだろうか?

「……でも、やっぱり」

 ノエルの背中がすっかり見えなくなったあと、レイナルトは俯いて、ぽつりとつぶやいた。

「本当に、旦那様……カシウスが外に愛人をつくるなんて事をしたのだろうか、と俺は思っているんです。なんだか、まだ信じられなくて……」

「私にもどうしても想像がつかないの。でも、現にノエルは存在して、見れば見るほどに、カシウスが苦労をしなかったらあんな子だったかもしれないと思ってしまうのよ」

「まあ……子供には罪がないわけですし、戻ってくればいやでも真実が明らかになるでしょう。今はひとまず、奥様が元気ならいいです」

 レイナルトは悲観的に、長いため息をついた。
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