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百合の部屋のチャイムを鳴らす。反応はなかった。物音がしないので、出かけているのかもしれない……と思った時、ドアが静かに開いた。

 ぬっと顔を出した百合は、つむじのあたりの髪の毛がぴょんぴょんと飛び出していて、彼女の髪もセットしなければ乱れることがあるのだ……とあたりまえの事に気がついてしまう。

「こんにちは……」

 昨日、レストランで話をした後に微妙に気まずい空気のまま別れたので、彼女はまだそのテンションを引きずっているようだ。日曜日の昼に不釣り合いな負のオーラが漂っている。

「さっきデパートでケーキを買ってきたの」
「ケーキ、ですか……」

 この周辺は若者が溢れるおしゃれなスポット……とは言いがたい地域で、カフェや流行のスイーツなどとはどうしても縁が遠くなりがちだ。家族で何かを祝う習慣がない単身世帯ではなおさらだろう。

「すごいよ。イチゴショートと、マンゴータルト。どっちが好き?」

 店のロゴがわかるように、紙袋をくるりと回して百合の鼻先まで持ってくる。もし彼女に動物の耳や尾があったなら、ぴん! と反応しただろう。

「え、もしかしてくれるんですか……」
「これで違ったら、めちゃくちゃヤバい人じゃない?」

 百合の瞳に少し光が戻り、ドアが大きく開かれた。あたしを出迎えてくれた彼女は国民的ブランドのコラボTシャツに、中学のジャージらしきものを着ている。

「今、ちょうどサメ映画を見ようと思ってたんです。一緒にどうですか」

 サメ映画。今時の女子高生はサメ映画を見るのか、とちょっと意外な展開であった。確かにしっとりした邦画などを見てもテンションは上がらないと思われるので、その判断は正しいのかもしれない。

「なら、お邪魔しようかな」

 一旦部屋に戻り、バッグの代わりに電気ポットを持ち、今度はベランダから侵入する。

 百合はこの前購入した梅昆布茶を飲んでいたようだ。塩気があるので、小腹が空いたときにはちょうどいいんです──としなくてもいい言い訳をしている。

「梅昆布茶、料理の隠し味に使うといいらしいね」
「はい、実はそうなんです。でもケーキには合わないですね」

 百合は電子レンジ置き場になっているプラスチックの収納ケースの中から、黄色いパッケージの紅茶のパックを取りだした。どうやらあたしの持っている紅茶専門店の紙袋には気がついていない様子である。

「ちょい待ち。茶葉もいいやつがあるから」
「おお。大人ですね」

  百合はしげしげと紅茶の缶を眺めた後、台所の戸棚からガラスのティーポットを取り出した。

 セットのティーカップはないんですが、と彼女は言うものの、都内で自宅にティーセット一式をそろえている単身世帯は少ないだろう。

「せっかくなので、真面目に作りますね」

 電気ポットで紅茶を煎れるためのお湯を作り、鍋にもお湯を満たし、ポットとマグカップをその中で温める。

「確か、ジャンピングでしたっけ。回転する方がいいんですよね」

 彼女がそう言って指さした紅茶のパッケージには、三角形のティーバッグが茶葉のうまみをなんとやら……と示されている。

「なるほどね」

 適当に計量もせず、何度かも定かではないお湯を注ぎ、茶葉を引き上げることもせず二回、三回……と出がらしを飲み続けているあたしにこだわりの紅茶の作り方なんて身についているわけもない。

「湿気ていない新鮮な茶葉。透明なガラスのポット、沸かし立てのお湯……」

 百合は指折り必要なものを数えている。あたしはおとなしく体育座りで待つことにした。

 茶葉の計量が終わり、いよいよ抽出……と言うところで、ふとある事に思い当たる。
「あれだよ、上から勢いよく注がなくちゃいけないんじゃない?」

 フィクションに出てくる執事のように、高い位置からかっこよくお湯を注ぐ必要があるのではないか。そう考えたが、百合の調べではお湯の勢いで茶葉が動くのは『ジャンピング』ではないらしい。

 透明な耐熱ガラスのポットの中で、茶葉が跳ねまわる。その様子を見た百合は「気持ちが落ち着く」とつぶやいた。なんでも、茶葉がふっと下に落ちていく様子にどこか「ほっこり」を感じるらしい。若い感性とは、かくも瑞瑞しいものなのね。


 きっかり三分蒸らし、明るい琥珀色の紅茶が出来上がった。マグカップに注ぐ時のコポポ……と言う音に、小さくため息を漏らす。確かに、落ち着いて耳を澄ませてみると、ヒーリングミュージックとして販売されていてもおかしくない。

「どうぞ……」と差し出された、ずっしりとしたマグカップ。何度目かの「いただきます」を言葉にして、火傷しないようおそるおそる口に含む。

  美味しくない紅茶は、刺激があると表現すればよいのか、どこか科学的な味がする。フレーバーがどうの、香り高いマスカットのフレーバーがどうの、というのは、あたしにはさっぱりわからないが、美味しい紅茶は、口当たりがよく、すっと体に馴染む感覚がある。好みとしては、それだけ一致していれば茶葉の産地や風味にはこだわりはない。

「お茶って、カフェインと水分のためって思っていましたが、こうしてちゃんと作ってみると嗜好品って事がよくわかりますね」
「そうだね」

 嗜好品。味と香りを楽しむもの。イギリス人の知り合いはいないが、お茶の時間を大事にする国民性があるのも頷ける。そうしている間に、百合はこたつから体を伸ばし、映画の再生を始めた。

 タイトルぐらいは見かけた事のある、有名なパニック・ムービーである。 公開されたのは随分前のはず、とタイトルを検索すると、なんと百合が産まれる前の作品であったので、改めて時の流れの残酷さに戦慄してしまう。

  不安感を煽るようなBGMを尻目に、百合はうきうきした様子でケーキの箱に手をかけた。
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