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「ああ、お腹がすいた」
 そうと思ったとしても、あたしはいいトシの大人の女であるので、独り言を口に出すことはしない。しないように心がけている、と表現した方が正しいか。

 大都会東京のコンクリート・ジャングルの片隅でひっそりと暮らすアラサーのOL。それがあたしだ。北海道から就職を機に上京し、ぎゅうぎゅう詰めの電車に乗ってオフィス街へ出勤するごく一般的な小市民である。

  何気なしに、若干くたびれ始めた革のバッグに手を突っ込み、スマートフォンを取り出す。暗闇にぴかりと光った液晶には、特に何かの通知が入っているわけでもなく。

 時刻は20時を回ったころ。別に残業していたわけではなく、だらだらと駅ビルや本屋をぶらつき、これまた珍しい事にちょびっと運動でもするかと一駅手前で降り、のろのろと歩いて帰ってきた。線路沿いの桜はとっくの昔に散ってしまっていたけれど、月明かりの下で5月の風に揺られる葉桜を見上げながら帰宅するのはなかなかに風流であった。

 あたしの住んでいる地区は職場まで乗り換えなし、複数路線が使え、近所にはまあまあ偏差値の高い中高一貫校などがあり治安もよし。ただしおしゃれ感はまったくない。たとえ東京都民だとしても地名を聞くとほぼ間違いなく「その駅って何線?」と考えるだろうし、かつてのあたしと同じく「そんな場所は初耳だ」と思う人もいるだろう。そのような時は魔法の言葉「池袋に近いです」ですべてが解決する。

 
 なーんて他愛もない事を考えている間に、自宅の手前の曲がり角まで辿り着いた。トンネルの向こうか? と錯覚しそうになるほどに明るい照明のコンビニの横を足早に通り過ぎ、マンションのエントランスに入ってから鍵を取り出す。
 
 メゾン・プリエール。フランス語で「祈り」の意味らしい。

 駅チカとは言わないが、便利な駅の徒歩圏内で、オートロック、宅配ボックスあり、築年数は少し古いけれどリフォームされている。バストイレ別、独立洗面台あり、洗濯機はもちろん室内。キッチンは若干広め、自炊には不自由なし。とは言っても二口コンロではあるけれど。

 お値段管理費込みで八万円五千円也。これを高いとみるか、安いとみるかは人それぞれだと思うが、地方の一軒家で一人一部屋の環境に生まれ育った女が一人暮らしをするには、この設備が揃っていないと納得できなかったのだから仕方が無い。

 やや高めの家賃を払うかわりに、食費は抑えめにしている。今日の夕餉は、卵かけごはんだ。

 一人暮らしの平日、給料日前の金曜だ。このメニューに異存がある者はほぼ存在しないであろう。白だしやすりごま、のり、あとはインスタント味噌汁などを加えた少し豪華バージョンだ。食後のデザートにみかんゼリーもある。

 別に多くもない稼ぎの中から一日に換算すると3000円近い家賃を払うのだから、基本的には休日はあまり遊び歩かず、家でゆっくり過ごすことにしている。酒には弱いので、めったに飲み会の予定は入らない。かといって今日の献立から推測される通りに自炊マスターと言うわけでもなく、やる気が無いときは簡単なもので済ませたり、お惣菜を買ってしまう。そんな暮らしに、一応納得はしている。

「くそっ、めっちゃいい匂いするじゃん」

 思わずつぶやきが漏れてしまう。 オートロックを通過し廊下を通り抜け、玄関前まで来たあたりで煮物であろうか、なんとも食欲を刺激する香りが鼻孔をくすぐった。

 この後待ち受けている粗食の事を思うと、ああ何かデパ地下でお惣菜でも買えば良かったと後悔が襲ってくる。それか、戻ってチャーシュー麺でも食べようか。

 いかんいかん、買い出しは週末にまとめてすると決めているし、コンビニで弁当や惣菜を買うことはたやすいが、そこをぐっとこらえての卵かけごはんである。野口さん一枚で一体どれだけの食材が買えるだろうか。このような不意に心が揺れる瞬間に備え、出勤前に炊飯器のタイマーをセットしてある。

 あたしには炊きたての白米が待っている。お腹がいっぱいになれば邪念は吹き飛ぶはずだ。ほどほど出来るゆるゆるOL。それがあたし、キョウコ・ス……。

「あのー、諏訪部さん」

  鍵を鍵穴に差し込んだあたりで、か細い少女の声が聞こえてきた。
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