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第4章

第38話 寒中水泳(後)

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 そして寒中水泳の日がやってきた。
 私は結局、救助訓練だけでなく水泳訓練にも参加することになった。
 女子の監督を担当するゲッチェル先生に相談した所、「ちゃんと参加しなさい!」と叱られ気味に命じられたのだ。

 ゲッチェル先生は今年で齢50を超えるご婦人で、女子の生徒指導を担当し礼儀作法を教える先生なのだが、頑固でとても厳しいことで有名だ。
 そのせいで生徒からはあまり好かれていない。なんだか殿下の教育係にちょっと似ているので、私は嫌いではないのだが…かと言って好きでもないが。

 先生はどうやら私がさぼりたがっていると思ったらしいが、私は元々参加する気でいたので、そのように思われたのは非常に不本意だ。
 …という事を殿下とスピネルに話した所、スピネルは物凄く嫌そうな顔で「あのババア…」と呟いていた。

「リナーリア、もし異状を感じたり体調が悪くなったらすぐ周りに言うんだ」
「絶対無理すんなよ。我慢する方が後で大変な事になるんだからな」

 そう口々に言われ私はかなり情けなくなった。
 自業自得とは言え、そんなに頼りなく見えるのか…。



 訓練は王都近郊にある小川で行われる。
 周囲が広く開けていて、夏は水遊びに最適として貴族達がよく訪れる場所だ。この近辺は魔獣の出没が少ないので、上流の方は平民達が季節を問わずに釣り場としている。

 途中までは転移魔法陣で行くが、転移先は小川から少し離れた地点だ。
 そこからは防寒着を重ねて着込んだ上で徒歩で行く。事前に身体を温めておくためだが、服が重いのでこれも案外体力を消費する。
 訓練は男女別で、女子が上流側、男子が下流側に分かれて行うことになる。
 スタート地点とゴール地点には浮きのついた旗が浮かんでいて、その間100メートルほどの距離を泳ぐ。まだ1年なのでこの距離だが、学年が上がると距離も伸びる。


「それでは各自、防寒着を脱いで水着になってから集合してくれ。十分に準備運動をしてから、まずは水泳訓練を行う」

 そう皆に声をかけたのは、2年生のスフェン様。
 肩口で短く切り揃えた、黄緑に赤色が交じる特徴的な髪がきらめいている。

 訓練は隣のクラスと合同で行うのだが、監督補佐として訓練経験者の上級生数名も参加する。
 今年監督補佐をしている上級生の中でもひときわ目立っているのが、このスフェン様だ。
 学院内では知らぬ者がいないほどの有名人で、それと言うのも彼女は女子であるにも関わらず、日常的に男子生徒の制服を着て過ごしている。
 いわゆる男装の麗人というやつだ。

 もちろん何度も指導を受けているが、「校則には『生徒は学院指定の制服を着用すること』としか書いていないのだから、男子制服を着てもいいはずだ」と主張して乗り切っているらしい。
 ちなみに2年の騎士課程女子の中でトップクラスの実力を持つ剣術の使い手でもある。
 普段から芝居がかった言動と大仰な振る舞いを好む人物で、珍しい髪色と凛々しい顔立ちも相まって人目を引き、どこにいてもとにかく目立つ。

 特に女子生徒からは絶大な人気を誇っていて、なんとファンクラブまで存在する。同性愛者だという噂も聞くが本当かどうかは知らない。
 私とは、前世でも今世でもほとんど接点のなかったご令嬢だ。ご令嬢と言っていいのかよく分からないが。


 私達は防寒着を脱いで水着になった後、スフェン様達の指導に従い準備運動を行った。
 気温が低い中でもしっかりと身体を温めるため、準備運動と言ってもかなりハードだ。息が上がってしまうが、寒いよりはずっとマシである。

 訓練は6人1組のグループごとだ。
 クラス混合なのでカーネリア様と一緒になれたら心強かったのだが、残念ながら別々だった。こちらを心配そうに見ているので、大丈夫だと微笑んでみせる。
 …そして、クラスメイトからはフロライアが私と同じグループだった。

「皆様、本日はよろしくお願いします」

 蜂蜜色の髪をきっちりとまとめ、優雅に挨拶をする彼女は、寒空の中でも相変わらず美しい。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 私も微笑んで頭を下げる。
 感情を表に出してはいけない。今警戒を露わにするのは、彼女からの不審を招くだけだ。


 訓練はなんと私がいるグループが最初だった。
 せめて心の準備はさせてほしかったが、今更怖気づいても仕方がない。魔術さえあればなんとかなるはずだ。

 呼吸を整え、体の隅々まで魔力を行き渡らせてから水に入る。突き刺すような冷たさに手足がしびれそうだ。
 魔術で浮力を上げて水面に浮かび上がり、水をかき分けて泳ぐ。
 改めて思うがどんな苦行だ。本当に意味がわからない。

 同じグループの女子と一塊になって泳いでいく。皆冷たさに耐えるため必死な表情だが、多分私が一番必死だ。
 水流を操る魔術で一気にゴールまで行けたらいいのだが、これはグループの訓練でもある。一応水泳の体裁を取って周囲に合わせつつ進まなければならない。
 半分ほど進んだ所で、監督のゲッチェル先生から叱る声が飛んだ。

「リナーリアさん!なぜ魔術を使っているんです!ちゃんと自分の力で泳ぎなさい!!」

 …は???

 私は疑問符で頭を一杯にした。
 魔術も私の力ですが?というか、魔術無しでどう泳げと?
 前世の男子の水泳授業でもこんな無茶言われなかったんですが。もしかして死ねと言っていますか?

「先生、リナーリア様は泳げないんです!」

 カーネリア様の声が聞こえる。やっぱりスピネルから聞いていたのか。

「だったら周りの者が助けなさい!同じグループでしょう!!」

 何言ってるんだこのババア!!
 私は心の中で罵声を上げた。はしたないとかそんな場合じゃない。
 周りの皆だって、この冷たい水の中を必死で泳いでいるのだ。他人を助ける余裕などある訳がない。めちゃくちゃ言うな。

 グループの皆が動揺と困惑の目で私を見る。
 私は必死で首を振った。迷惑をかけたくない。

「大丈夫です、皆さん先に行って下さい。私は何とかしますから」

 皆困った顔をしたが、「早く!」と言うと迷いながらまた泳ぎ始めた。
 この水温の中では、止まっているとどんどん体力を奪われる。早くゴールまで行かなければならないのは皆同じだ。


 私は内心で泣きそうになりながら覚悟を決めた。
 ちゃんと浮かんでさえいれば、理論上は川の流れに乗ってゴールまで辿り着けるはずだ。
 もし力尽きて溺れても、その時は流石に助けてもらえるだろうと信じるしかない。
 こんな所で死ぬのだけは絶対に避けたい。ゲッチェル先生だって避けてくれるだろう。私が恥をかくのは避けられなさそうだが。
 物凄く嫌だが命に関わるような事はない、はずだ。多分。

 悲壮な気持ちで魔術を解除しようとした時、私の肩を包むようにして誰かが触れた。

「…フロライア様」

 私の肩を抱えているのは彼女だった。
 濡れた蜂蜜色の髪をその顔に張り付かせ、強い意志を持った美しい紫の瞳が私を間近に見つめる。

「大丈夫、脚にだけ身体強化を使えば先生には気付かれないわ。私が支えているから、浮力の魔術を解除して」
「は…、はい」

 私は迷いながらも言われた通りに魔術を解除した。
 しっかりと体を支えられているおかげで、沈む様子はない。

「身体強化をかけたら、できるだけ体の力を抜いて。なるべく水に逆らわないようにして、足だけをゆっくり動かすの」
「はい…」

 必死で彼女の言葉に従う。ごちゃごちゃ考える余裕などない。
 支えられながら、何とか少しだけ前に進み始める。

「大丈夫、上手よ。焦らずに行きましょう。ゴールはすぐそこですもの」



「後もう少しよ、がんばって!」

 私はずっとフロライアに支えられ、何度も励まされながら進んだ。
 グループの他の皆からだいぶ遅れて、なんとかゴールに辿り着く。
 よ、良かった…。

「リナーリア君、しっかりしろ!」

 すぐに岸に上がろうとしたが、足元がおぼつかない。
 服が濡れるのも構わず浅瀬に入ったスフェン様が私へと手を伸ばした。そのまま抱え上げられ、焚き火の側へと運ばれる。
 肩に分厚い毛布がかけられ、私はお礼を言おうとしたができなかった。唇が震え、歯の根が噛み合わない。
 スフェン様は私の両手を握りしめるとにっこり笑った。

「もう大丈夫だ。よく頑張ったね」

 その手からじわじわと温かさが伝わる。少しずつ震えが収まっていく。

「…あ、ありがとうございます…」

 何とかそう言うと、近くにいた別の上級生が湯気の上がるマグカップを渡してくれた。生姜と蜂蜜入りのホットミルクだ。
 一口、二口と飲むと、たちまち温かさが広まっていく。

 そこで私はようやく、同じグループの女子たちも焚き火を囲んでいる事に気付いた。すぐ後ろにはゲッチェル先生もいる。
 皆、一様に心配げな様子で私を見ている。

「皆様、ご心配をおかけしました…」

 ちょっぴり情けない顔で笑うと、皆ほっとしたように笑い返してくれた。


「どうやら、もう心配ないみたいだね。このまましっかり温まると良い」

 スフェン様はそう言って微笑むと、ぽんと私の肩を叩いてゲッチェル先生と共に監督業務に戻っていった。
 話には聞いていたけど、物凄く爽やかな人だな…。迷惑をかけてしまったのに全然押し付けがましい所がない。女子から人気があるのも分かる。
 その後姿を見送ってから、私は同じく焚き火にあたっているフロライアの顔を見た。

「…フロライア様、本当にありがとうございました。フロライア様がいなかったら、私はとてもゴールまで辿り着けませんでした。それどころか、きっと溺れていたと思います」

 これは掛け値なしの本音だ。彼女の助けがなければ、私は確実に途中で溺れてリタイヤしていただろう。

「気にしないで下さいませ。同じクラスの仲間ですし…先生の言うことが無茶なんですから」

 後半は先生たちに聞かれないようにだろう、ごく小声で言って彼女はいたずらっぽく笑った。
 その屈託のない笑顔には何の裏も感じられず、とても眩しい。


 そう、私の知る彼女はずっとこういう人物だった。
 あの冷たい川の中でカナヅチの私に手を貸せば自分だって溺れかねないのに、不安などおくびにも出さずにごく当たり前のように肩を抱いて助けてくれた。

 思えば最初から彼女は、わざと速度を落として一番最後尾を泳いでいたと思う。グループの人間に何かあった時すぐに助けられるようにだろう。
 彼女は誰にでも別け隔てなく優しく、いつでも明るい。
 周囲への思いやりがあり、そして周囲からも愛される魅力を持っている。

 …どうしてなのですか。
 その言葉を口に出す事なく、私はただ「ありがとうございます」と言って笑った。



 その後も寒中水泳訓練は続けられたのだが、私は水泳だけですっかり体力を使い果たしてしまっていて、救助訓練の方には参加できなかった。
 完全にフラフラで立つのもやっとだったせいで、フロライアを始めとする周りの皆に止められたのだ。ここまでやったからには最後まで参加したかったのに…。

 少し驚いたのは、ゲッチェル先生にまで「良いから先に帰りなさい」と言われた事だ。
 わずかに微笑みながら「貴女はよくやりました。もう十分です。頑張りましたね」と褒めてくれ、厳しいがやっぱり悪い人ではないのだな、と思ったりした。
 無茶苦茶言っていたが、本当に無理そうだったらちゃんと助けてくれるつもりだったのだろう。

 帰る時には上級生一人が付き添ってくれ、校医に体調確認をされ苦い薬湯を飲まされてから部屋に戻って休んだ。
 一人だけ先に戻る羽目になったのは恥ずかしくて泣きたかったが、風邪がぶり返すような事はなかったのは不幸中の幸いだ。

 翌日ちゃんと登校すると、クラスメイト達は口々に「元気そうで良かった」とか「頑張ったね」とか言ってくれたので、これまた少し驚いた。
 病み上がりに頑張って参加し、なんとか泳ぎきった私の努力を皆認めてくれたようだ。
 スピネルには「だからやめろっつっただろ」と叱られたし、殿下にも「本当に大丈夫か?休んでいなくていいのか?」と心配されてしまったが。

 訓練は散々なものだったし、やっぱり寒中水泳など大嫌いだが、悪い事ばかりでもなかったなと私は思った。
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