ゆめなか相談所

寶來 静月

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相談者・柏葉紘人〜親の心、子の心〜

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「ふぅ……」
 自分以外ほとんど誰もいない電車の中に、大きく、そして深い溜め息がこぼれる。
 チラリと腕時計で時間を確認する。針は23時を過ぎた時間を指していた。左手に嵌めたシルバーの腕時計は、就職祝いにと母がプレゼントしてくれた時計だった。
 ダラリと腕が脱力する。
 軽く目を閉じればすぐにでも眠りに落ちてしまいそうなほどの猛烈な睡魔に襲われていたが、もしここで寝過ごせばもう次の電車はない。寝過ごすまいと必死に自分で自分を叩き起こしながら、柏葉紘人かしわばひろとは今日も深い夜の中を、電車に揺られていた。
 紘人は毎日のようにギリギリで終電に乗り込んで家へと帰り、また次の朝には家を出て会社へ行く日々を送っていた。
 またひとつ、「ふぅ……」と溜め息を吐く。さっきよりも、少し深い溜め息だ。
 
 20分ほどすると、電車は紘人の自宅の最寄駅に到着する。そして最寄駅を出てから10分程度を徒歩で行き、ようやく家の扉を開くことができる。
「ただいま……」
 誰もいない暗い部屋に、紘人の声が小さく響く。
 就職のために上京してきてからの3年を過ごしてきた1DKの小さな単身者用の部屋はこざっぱりとしていて、余計なものは置かれていなかった。金銭的な面で色々と買う余裕がなかったというよりは、買っても使う時間がなかったから、小さめの冷蔵庫や電子レンジなどの必要最低限のものしか置いていないのだ。
 紘人は靴を脱いで部屋に入るとカバンを投げ捨てるように床に置き、フラフラとベッドへ向かうとそのまま倒れるようにベッドへと沈み込んだ。
 シンプルな部屋の片隅にある台所には、昨日実家から送られてきた米や野菜などがたっぷりと詰め込まれた段ボールが、口を開かれただけの状態で置かれていた。
 母からの手紙も一緒に入っていたが、その手紙はまだ封筒の口を切ることすらされていなかった。
 晩ご飯はいらない、風呂も明日の朝でいい、もうこのまま眠ってしまおう。その思って、紘人はベッドに身体を預けたままネクタイをゆるゆると外す。首元から外されたネクタイが紘人の左手から床へと滑り落ちていく。
 それを合図にするように、紘人はそのまま眠りの世界に落ちていった。


 
「……あれ?」
 ふと気づくと、紘人は見慣れない場所に立っていた。どこかのT字路のようだが、紘人は今自分がいる場所がわからなかった。
 月明かりと少しの街灯と、そしてT字路の突き当たりに煉瓦造りの小さな三角屋根の家がひとつ建っているだけで、それ以外、辺りには何もない。
「ここ……どこだ……?」
 紘人は不安になりはじめた。
「俺……電車、乗り過ごしちゃったのか……?」
 家に帰って、ベッドに横になったはずなのに。電車の中でつい眠り込んでしまって、家に帰った夢を見ていたのだろうか。そう思った紘人は再び慌てて辺りを見まわし少し歩いてみるが、Tの字に道が真っ直ぐ延びているだけで、やはり自分がどこにいるのかはわからなかった。
 自分の体を見下ろすと、今日会社に着ていったスーツ姿だった。やはりそうだ。ベッドに身体を投げ出したと思ったのは、電車でついうとうとして見ていた夢だったようだ。そして何故だか、無意識にこんなところまで来てしまったらしかった。
 そこでふと、紘人はあることに気づく。
「カバンが……ない……」
 紘人は自分の両手を見つめる。いつも通勤時に持ち歩いているカバンを持っていなかったのだ。カバンには、ノートパソコンやスマホ、財布や家の鍵まで何もかもが入っていた。
 そのカバンがなかった。
「はぁ……やっちゃった……」
 紘人はその場にしゃがみ込み、両手で頭を抱える。
「どうしよう……」
 髪をくしゃくしゃと掻き回す。
「何やってんだ、俺は……。疲れてたとはいえ、カバンも失くして、こんなどこかもわからないところに無意識に迷い込むなんて……」
 紘人はしゃがんだまま、顔を埋めた。
「これからどうしたら良いんだ……」
 そう紘人が呟いたとき、ふと近くから声が聞こえてきた。
「そこの方、どうぞお入りください」
 紘人が驚いて顔を上げると、目の前の小さな煉瓦造りの洋風な三角屋根の建物の入り口が開かれ、そこに長く綺麗な黒髪の女性が立っていた。透き通るような白い肌の、美しい女性だった。
「えっ……あの……」
 紘人が動けずにいると、「道に迷われたのでしょう?どうぞ、中へお入りください」と女性が改めて中へ入るよう勧めてきた。
 ここがどこかもわからないうえ、スマホや財布も何もないとなれば、とりあえずこの人の言葉に甘えるしかないと、紘人はそう思った。
「では……お邪魔します……」
「ええ、どうぞ」
 女性はニコリと笑って、中へ進むよう右手で促す。紘人は恐る恐る、足を踏み入れる。



 建物の中へ入ってみると、そこは20畳程度の広さの小さな部屋のような場所だった。他の部屋や2階などはなく、屋根のようになっているところに天窓が取り付けられていて、空が見えていた。壁や床は全てが茶色い木目調で設られていて、柔らかなオレンジ色をした照明がほんのりと灯されていた。そしてその空間の真ん中に、シックな机と、その机を挟むように向かい合わせに、こちらも机とセットと思しきシックな椅子が二脚置かれていた。奥には小さな棚がひとつだけ置かれている。
「あの……」
 ひと通り辺りを見回した紘人は、女性に話しかける。
「俺、終電に乗って家に帰ったと思ったんですけど、どうやら電車で寝ちゃったみたいで、気づいたらここにいて……。全然自分のいる場所がわからなくて、カバンもなくて困ってたんです。声かけてくださって、ありがとうございました。凄く助かりました」
 紘人は女性に向かって頭を下げる。
「それで……ここはどこですか?俺は桜町に住んでるんですけど、ここは桜町ですか?それとももしかして……隣町まで来ちゃってますか?」
 紘人が不安げに尋ねると、女性が紘人の目を見つめてくる。
「ここは……そうですねぇ……。うーん、桜町……といえば桜町ですが……違うといえば、違いますね」
 女性がどこか考えるように答える。
「どういうことですか?」
 女性のもったいつけた言い回しに、紘人はやや眉を顰める。
 桜町なのか、そうじゃないのか。結局どっちなんだと、紘人は心の中で思った。
 紘人は続けて女性に質問をする。
「じゃあこの建物は何なんですか?人が住む家……のようには見えませんが。家にしてはちょっと狭いし、何もないし」
 紘人が改めて建物の中を見回しながら女性に尋ねる。
 紘人と目が合うと、女性はおもむろに口を開いた。
「ここは、“ゆめなか相談所”です」
「ゆめなか……相談所……?」
 紘人は首を傾げる。
「そうです」
 そう言って、女性は言葉を続ける。
「そしてこの相談所は――あなたの夢の中にあります」
「……は?」
 紘人は一瞬、女性が何を言っているのかわからなかった。
「俺の……夢の中……?」
「はい」
「……あの、冗談はやめてください」
 呆れたように紘人は言う。
「俺は本当に困ってるんですよ!」
 紘人は少し言葉に力を入れるが、女性に特に驚いた様子はなかった。
「てっきり……助けてくれるのかと思ったのに……」
 ガックリと肩を落とす紘人。
「ええもちろん、お助けいたしますよ」
「え?」
 紘人は驚いて女性を見る。
「本当に助けてくれるんですか?」
「はい、お助けします。ただし――」
「ただし……?」
「私が出来るのは、あなたの心の中にあるお悩みを聞くことです」
「俺の心の中にある……悩み?」
「そうです」
「やっぱり……からかってますよね?俺のこと」
 紘人はそう言って、外へ出て行こうとする。
「からかってなんかいません」
 女性は冷静だった。
 体を女性のほうへ向け、紘人は沸々とした怒りをぶつける。
「夢の中にいるだとか、心の中にある悩みを聞くだとか、さっきから訳わからないことばっかり言って!助けてくれる気なんてないんじゃないですか!」
「確かに、信じられないのは当然だと思います。ですが、ここがあなたの夢の中であることは本当です。あなたは確かに家に帰った。残業をして、終電に乗って、確かに家に帰りました。そして帰ってくるなり、あなたは眠りに落ちた。その結果、この相談所に辿り着いたのです。心の中に……悩みがあるから。誰にも言えない、言い出せない、でもいつか言いたいとそう思っている、悩みがあるから」
 女性は一度言葉を切り、少し息を吸ってから紘人に問いかけた。
「あなたには、ずっと心に抱えている悩みが……ありますね?」
「えっ……」
 紘人は驚いた。
「俺の……悩み……」
「そうです。あなたのような人の夢の中に、この相談所は現れるのです」
 女性が紘人を静かに見つめる。女性が淡い紫色のとても綺麗な瞳をしていることに、紘人は初めて気づいた。
「立ち話もなんですから、どうぞお掛けください」
 女性が入口側の椅子を少し引き、さあどうぞ、と紘人を椅子へ座るよう促した。
 紘人は黙ったまま、ゆっくりとイスに腰掛けた。
 紘人が座ったことを確認すると、机を挟んだ向かい側の椅子に女性は座った。
「申し遅れました。私は、あかつきと申します」
 暁は丁寧に頭を下げる。
「暁……さん?」
「はい。ゆめなか相談所の相談員をしております」
「はぁ……」
 紘人は半信半疑だった。目の前にいる暁や今いるこの部屋は、夢にしてはやけにリアルだ。しかし、夢の中にいるという話があまりにも突飛すぎて、どうにも信じられないでいたのだ。
「柏葉紘人……です」
 紘人もとりあえずといった様子で自己紹介をした。
「柏葉紘人さん、ですね」
 暁が紘人の名前を復唱する。
「はい」
 紘人は小さく頷く。
「あの……」
 おずおずと暁に声をかけた紘人を、暁の綺麗な瞳が見つめる。
「ちょっと……何が何だかよく……」
「戸惑われるのは仕方のないことです。ですが柏葉さん、このままの状態でどこへ行くおつもりですか?」
「それは……」
 確かにそうだと思った。ここがどこかもわからない。スマホやパソコンもなければ連絡手段もないし、仮に今、目の前に公衆電話と10円玉があったとしても、かけるべき電話番号もわからなかった。
「柏葉紘人さん」
 急に名前を呼ばれ、紘人はビクッとした。
「は、はい……?」
「あなたのお悩みを、お聞かせください」
「……」
 紘人はしばらく黙っていた。

「……よくわかりませんが、あなたに悩みを打ち明ければ、助けてくれるんですか?」
「ええ」
 暁の返事を待ってから、紘人は少し息を吐いた。
「そうですか……」

 そしてぽつりぽつりと、紘人は話し始めた。

「俺……今の仕事、辞めたいんです。毎日毎日終電のギリギリまで残業で、休日出勤も当たり前だから休みもあってないようなもの。それなのに上司はフォローするどころか、いつも鞭のような言葉で叩いて俺たち平社員をひたすら走らせるだけ。おまけに残業代は1円たりともなしです」
「それは……」
「そうです。絵に描いたような、ブラック企業なんです、俺の働く会社は」
 そう言って暁を見つめた紘人の瞳は、色を失っているようだった。
「東京で働きたくて就職活動して、今の会社の営業職として採用になって、3年前に北海道から上京してきました。俺の家、母子家庭なんです。小さい頃から女手一つで俺を育ててきてくれた母さんを早く楽にさせてあげたくて、地元より東京の企業で働くことを選んだんです。だから、今の会社から内定を貰ったときは、本当に嬉しかった。母さんも喜んでくれました。そして母さんは俺の就職祝いにと、この腕時計をくれました」
 そう言って紘人は左手首の腕時計を優しく撫でる。暁も、そっとその様子を見ていた。
「それから少ししたあと上京して、眩しい未来に胸を躍らせながら働きはじめました。でも……そんな日々はすぐに消えてなくなったんです」
 紘人は目を伏せる。
「入社してひと月が過ぎた頃から次第に残業する日が増え、残業時間が延びていって、手が回らないと同僚や先輩に助けを求めてもみんな同じ状態です。これではダメだと上司に助けを求めると、何人かの上司には揃って暴言を投げつけられました。そんな毎日で、俺と一緒に入社した5人の同期はみんな精神的に追い込まれてしまって、ひとり、ふたりと、会社に来れなくなりました。俺も、いつそうなるか……」
 紘人は項垂れた。
「柏葉さんはなぜ、今までその会社に居続けているのですか?」
「母さんを……母さんを……悲しませたくないからです」
「お母様を?」
「はい。母さんはずっと俺を苦労して育ててくれました。就職が決まったときは泣いて喜んでくれて、それに……」
 紘人の声が少し震えていた。
「自慢の息子だって……俺のこと……自慢の息子だって……そう言うんです……」
 膝の上でギュッと握った手の甲に、俯いた紘人の瞳から涙がぽとりと落ちる。
「北海道からいつも米や野菜をたくさん送ってくれて……頑張れって……手紙くれて……。だから……母さんを裏切りたくなくて……母さんを……悲しませたくなくて……それで俺……」
 ぽとりぽとりと、落ちる涙は止まらない。
「だから柏葉さんは、本心では会社を辞めたいけれど辞められず、お母様にも言えずにいると」
「……はい」
「なるほど」
 暁は静かに呟いた。
「柏葉さん」
 暁の呼びかけに、紘人は黙って少しだけ顔を上げた。
「あなたはお母様思いの、とてもお優しい方ですね」
 暁が微笑んだ。
「ですが、少し誤解もあるのではないですか?」
「誤解……?」
 どういうことかと思い、紘人が顔を上げる。真っ直ぐに、暁の目と紘人の目が合う。
「誤解って……どういう意味ですか?」
「お母様は確かに、東京で就職が決まった柏葉さんのことを誇らしく思っているのだと思います。親孝行の自慢の息子だと、間違いなく思っているはずです。ですが、あなたを縛っているのはお母様の言葉ではなく、あなた自身ではないですか?」
「……え?」
「お母様があなたに何か言いましたか?あなたを東京に……いいえ、その会社に縛りつけるようなことを、お母様に何か言われたのでしょうか?」
「何か……?」
「例えばそうですね……東京の大手企業で働いているあなたは立派だとか、その会社で出世してほしいとか、そういった類のことです」
 紘人はしばらく黙っていたが、やがてハッとした。
「いかがですか?」
「……言われては……いません」
「そうですか」
 暁がひとりで頷く。
「お母様は、一人息子のあなたをきっと何より大切に思われているでしょう。だからこその親の気持ちというのも、あるのではないでしょうか?」
「だからこその……気持ち……」
「先ほど、お母様からお手紙が来ると仰っていましたが、そこにお母様の気持ちは書かれていませんでしたか?残念ながら私はお母様のお手紙を拝読することは出来ませんが、私はきっとそこに、お母様の優しさがあるのではないかと思うのです」
「そういえばこの間の荷物に入ってた手紙、まだ読んでなかったな……。帰ったら読んでみます。たぶん、いつもと同じ内容だと思いますけど」
 紘人は苦笑いをしてみせる。
「読むことを、おすすめいたします」
 そう言った暁は、天窓を見上げた。
「夜が明けてきましたね」
 暁の言葉に紘人も天窓を見上げると、確かに空が少し明るくなってきているようだった。
「さて柏葉さん、お目覚めの時間です」
「目覚めの時間……?」
「はい。ゆめなか相談所の本日の営業終了時間が近づいています」
「あっ……」
 営業終了と聞いて、紘人は涙を拭いながら慌てて立ち上がる。
「最初は変なところに来ちゃったと思ったけど、言えなかった悩みも聞いてもらえて、何だかスッキリしました」
 ありがとうございます、と紘人は暁に向かって頭を下げる。
「あなたはもう、迷わずに行けるでしょう。きっと、大丈夫です」
 そう言うと暁は、朝の光のように柔らかく微笑み、指をパチンッと鳴らした。


 
 ピピピ……ピピピ……ピピピ……
 目覚まし時計の音が部屋に響く。
「……ん……んん……うーん……」
 手探りで目覚まし時計を止めた紘人は、疲れで重たくなった体を時間をかけてゆっくりと起こす。
 紘人がぼんやりと部屋を見回すと、玄関近くの床にカバンが置かれ、スーツの上着も雑に脱ぎ捨てられていた。ベッドのすぐ脇には外したネクタイが落ちていた。昨日着ていたスーツのまま寝たから、ワイシャツは皺だらけだった。
「……夢、だよな?」
 そう思いながら、紘人は暁と名乗った女性との話を思い出していた。
 ふと思い立ち、紘人は台所へと向かう。そこには、母が北海道から送ってきてくれた米や野菜などが詰まった段ボールがあった。そしてその上に、母からの手紙も置かれていた。封は切られていない。
 紘人はそっと手紙に手を伸ばし、パリパリと手で封を開ける。そして、三つ折りの手紙をそっと開いた。
 見慣れた母の字が、そこには並んでいた。
『紘人へ
 紘人、最近仕事はどうですか?頑張ってますか?いつも仕送り、ありがとう。お母さん、紘人が立派な社会人になってくれて本当に嬉しいです。あなたは自慢の息子です。今月もお米と野菜、あと缶詰とか色々送ります。たくさん食べてくださいね』
 ほんの数行の手紙だったが、やっぱりいつもの母さんの手紙だと、そう思った。
 しかし、最後の二行を読んだ紘人の目からは涙が止まらなくなった。
「母さん……」


 
『あなたがいつまでも健康で笑顔でいてくれることが私の願いですから、もしも辛くなったら、いつでも帰ってきてくださいね。母より』
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