上 下
2 / 30

混血の放浪者 1-2

しおりを挟む
手の先がじわりとしびれる様な感覚。しびれは温かさとなりそれが全身に進み、その振動はやがて、意識を深い場所から呼び覚まさせる。

夢を見たかは覚えていない、それほど放浪者は深く眠っていたのだ。
いつぶりのまどろみだっただろうか、目覚めに追いつかない頭は、眠りすぎた事を告げている。
天井は見知らぬものだった、張は古くその向こう側にある木板は、長年の歴史を感じさせる模様を形作っていた。旧いが決して安っぽくはない。

「あッ!おじさん目が覚めたね!」

突如ぬっと溌剌とした顔が覗き込んだ。放浪者は、驚きで体を咄嗟に持ち上げようとしたがままならない。
わずかに持ち上がった体に少年は慌てて飛びのき、そして放浪者を支えた。

「だめだよおじさん!無理をしちゃ……!体が弱ってるんだから」

体中を、内側から打たれたような鈍い痛みが今頃やってきた。唸るように歯を食いしばり支えられるがまま少年を見た。

「……どうやら、無事だったようだな」

「そうだよ!おじさんのおかげ!……でもおじさんが今度は無事じゃなかったんだ」

放浪者は安堵の息を吐いた。
ころころと表情を変える少年の姿は、異形に襲われ恐怖に震えていた表情ではなかった。年頃は10歳……12歳ごろに見える、残っていた僅かな懸念も、放浪者が目覚めた事により取り払われたのだった。
小さく鼻を鳴らした、あまりにも不用心な自分に、そして無警戒な少年に思わず笑ってしまったのだ。

「笑いごとじゃないよ!おじさんを運ぶのに大変だったんだから……!ポルカが戻ってこなかったらぼくが村までおじさんを引きずっていかなきゃならなかったんだぜ」

少年は、少しだけむくれたように口をとんがらせた。
その様子にまた笑いそうになったが、そうしては命の恩人に失礼だと思い、その肩を軽く叩き感謝を示した。
ポルカとは窓の外に見える、馬の事のようだ、どうやら彼女も無事だったらしい。

「そうだな、おまえ達に助けられたようだ、ありがとう」

「え……!いや、そんなぼくは大したことなんて……あ!そうだおじさんが目覚めたら粥を出しなさいって母さんに言われていたんだ、うちの村で採れた麦は美味しいよ!今持ってくるね!」

「待て……」

ふと呼び止められ少年は、振り返って小首をかしげた。放浪者は思わず声をかけた自分に、僅かに驚いているが尋ねずには居られなかった。自分は手当てを受けている、今は無防備にも素顔を晒している。
放浪者はその屈強な姿、凶暴な貌を少年に向けながら内心怯えていたのだ。

「おれを見て、お前は何も思わないのか?」

「……?何が……?」

「……おれは……オークとの混血児だ」

「……そうだったの……え、つまりハーフのオーク……?」

「そうだ、おれは人間とオークのまぜものだ、オークの血がこの肉体には宿っている」

「そうなの……!?……それって……ばっちぃくない?後で湯あみの準備をするね!おじさんちょっと臭うもんね……」

「……ばっちぃ……」

鼻をつまんでみせる少年のしぐさに、放浪者は面を食らったように目を細めた。
どうしたものか、話がまったく通じて居ないようにも思う。
少し気にして腕を近づけ嗅いでみた。確かに、少し鼻の奥にツンとした特有の異臭を感じるような気がする。

「おじさん、今更怖がらせようったってそうはいかないよ!確かにあの時は怖かったけど、今のおじさんあの時よりもぜんぜん怖い顔をしていないからね!あ、それがハーフオークってやつなの?おじさんって怖い人なの?」

なんとなく期待していた部分はあった、しかしその通り。
少年はその無垢さからか放浪者を恐れるそぶりは微塵も見せなかった、ハーフオークに会ったのはおそらく初めてだろう。

もしかすればオークを見聞きした事もないのかもしれない、それはそれで幸運な事ではあるが。

「いや……すまない、聞かなかった事にしてくれ」

聞いた自分が馬鹿だったのか、その通りかもしれない。
この子はまだ世を知らないのだ、純粋なまなざしに映る放浪者は凶暴なハーフオークではなく、自分を助けた恩人という風に映っているのだろう。
複雑な心境ではあった。不安が取り除かれたというのに、どこか落ち着かない自分が居る。そういう感情を持つのはいつ以来か・・・。
気が付けば足元が揺れた。ベッドに昇った少年は、下から覗き込むようにこちらを笑顔で伺っていた。

「大丈夫だよ、おじさん。ぜっったい美味しいから、待ってて!すぐに持ってくるから!きっとすぐ良くなるよ!」

こちらが何かを言う間を与えず、少年はベッドから飛びのき部屋を出た。
なんというか賑やかなものだ。ひとりごちにそんなことを放浪者は考え、周囲を見回した。

家というには狭く、小屋というには広い。ベッドは清潔なシーツが張られているが。
どうやら干し草のようだ。開き窓は添え木で支えられ、陽光を招き入れている。
必要最低限、しかしよく整頓されたどこか温かみを感じる木製の家だった。

張には薬草だろうか、干された植物が垂れ下がっており、乾いた空気にどこか潤いを感じさせていた。
よく見れば、ベッド脇のテーブルに包帯やすりばちが広げられていた。胸元に巻かれた布はきっと、湿布の上から巻いたのだろう、特有の匂いが鼻孔の奥に届く。あの少年が手掛けてくれたのだろうか・・・。

視線を横に向けるとベッドはもうひとつあった。
彼の兄か父親のものだろうか。自分の装備を探そうと視線を上げ、部屋のテーブルの傍、棚に自分の装備が丁寧に飾られている。

しかし、自分の正体を見られたからには長居はしていられない、あの少年だけではないのだ、ここに住んでいるのは、ベッドから足を下ろして立ち上がる際に少しよろめいた。体力はまだ、戻りきって居ないようだった。
だが、あの荒野を進んでいる時よりは快調だ。放浪者はゆっくりと歩きだし、棚の前で装備の有無を確かめた。

皮鎧に損傷や劣化は少ない、少なくとも旅を継続するには十分だ。
バックパックを開き、中身を確かめた、どうやら亡くした物はない。

棚に立てかけてある剣、放浪者の唯一と言って良いほどの愛用品。
鍔の無い鞘と一体になった我が得物。腕一本分の長さほどの短さ、それを右手に掴み鞘に納めたまま手の中で転がし眼前に構えた。

空気の音すらも薙ぎ上げ、頭上から振り鞘先を足元に落とす。
陽光に照らされた放浪者の影は、静かな空気を纏い、そのまま剣を棚に置いた。
筋肉の脈動、呼吸、そして意識の流れを読み取り体調は万全に近い事を確かめた。

「……行くか」

借り物の衣服を脱ごうと、麻ひものベルトを緩め……。

「おじさーん!持ってきたよー!ほっかほかの栄養満点の特性むぎが……」

 勢いよく扉が開いた。
ドアから差し込むまぶしい陽光が、放浪者のよく鍛えられた灰緑の肌を照らした、生まれたままの姿を。

「ゆ……ッ」

「……」

「……ノックしたほうが、よかったね」

「……ああ……」

静かに空気が流れ、少年は無言で扉を閉めた、小一時間あとで仕切りなおすそうだ。
放浪者は、心労を伴うため息を漏らした。

「どうかしている……」

無警戒な自分の意志に、放浪者は思わず呟いた。
そうさせるのは、あの少年の無垢さなのか。
静かな空気は、不思議といやではなかった。改めて放浪者は装備を整えた。
鎧下の衣服を纏い、皮鎧の締め尾を留め。

「ほんとうに、どうかしているな」

放浪者はその張り付いたような表情に、僅かな変化があった事に気付いた。
本当に、久しぶりに笑っていたのだ。


しおりを挟む

処理中です...