上 下
1 / 30

混血の放浪者 1-1

しおりを挟む
生き物は食物を数日摂取しなくとも、丈夫であれば数か月は持つという。しかし水分を摂らなくては数日ともたない。

放浪者は、体中の水分が抜けきっているのを感じ取っていた。
風は容赦なく照り付け、熱された砂を巻き上げる。その熱は急速に身体を消耗させていく。

大地の草木は一本も生えておらず、枯れた木々が並ぶまさに荒野。
足取りは、まだブーツのつま先に土を盛るほどではないが、それも時間の問題だ。

呼吸はまだ口元を覆ったマスクの奥で整えられており、フード奥の双眸は気力を失ってはいない。
だが、確実に体を蝕む飢餓感、今すぐにでもそこらにある木のジャーキーにしゃぶりつきたいのを堪えている。

補給を断られたのは数週間前、立ち寄った街では門前払いであった。
しかしそれは、放浪者を落胆させるに至らなかった、世界はそういうものだ。

忌むべき者との混血児を、簡単に信用する者はそうそう居ない。

改めて放浪者は、手袋を取り改めて己の手を見た。
人よりも大きく、その灰緑がかった手はいやでも他人との違いを思い知らされる。
ハーフオークとして……オークと人間の混血児たる自分自身を。

オークとは人類種とは仇名す者、邪なる意志から生まれた恐るべき存在。
彼らは時に人類種との交配により、新たな種を生み出し、そのほとんどのハーフオークはオークに隷属された者である。

オークが持つ凶暴さと邪悪さ、そして人類種が持つ知性、この二つが組み合わさった時に強力な存在と成るのは想像に容易い、その行為と在り方は嫌悪の対象となる。

放浪者が、そういった視線にさらされるのは初めてではない。どの居住区でも、国でもそういった意志に身を刻まれるのは生まれ以ての運命と感じる。

今は空に昇る太陽すらも、放浪者を明るく照らすものではない。焦土させる熱射だ。

ハーフオークである事の救いとしては、本来ならばすでに死を迎えているであろう現在も、その歩みを止めずに進ませている。
その強靭な体躯が生み出す、頑強さと意志が、足を前へ前へと向けさせているのだ。

放浪者は最後に口にした果実を思い出していた。保存が利くようによく乾かされてはいたが、それにより甘味が引き出され酸味を伴ったものだった。
そのうま味を思い出せば、口の中が潤う、だが口の中で潤わせるのは鉄の味だった。

既に、口の中の水分は渇ききっており、切れた口内で血がにじんでいるのを感じた。 

ただ一切れの果実。それが今目の前にあれば、どんなに贅をを凝らした御馳走であろうともかすむだろう。気が付けば陽が傾きはじめ、熱気を纏う空気がやわらかく冷えてゆく。
ありがたい、今はあの天に昇る輝きには恨めしさしかない。あとはこの風が少し弱まれば。

「———ッ!!!!———ッッ!!!!」

僅かに目を休めた時、その耳に風のうなりに混じって聞こえてきた悲痛。聞き違いかと一瞬思ったが、それは幾つかの地を踏む音と共に、放浪者の耳の奥に届いた。
ゆるやかに進めて居た足は、考える間もなく砂を蹴っていた。

風を後ろへ退け、荒野の景色は過ぎる。変わらぬ景色の中、耳に届いた音を頼りに、放浪者は声の主の元へと駆けつけた。
やせ細った枯れ木の合間を縫い、動かぬそれらの向こうに逃げる馬と、それを追う枯れ木の異形。それをフードの奥は見て取った。その数は5体。

片手は腰後ろに差した剣を過ぎ、その下につるしたクロスボウに伸びた。
狙う方は違う事は無い、馬には子供が乗っていたからだ。

消耗している体とは思えない動きで、腕に括り付けたボルトの束を引き抜いた。馬の尻に異形が追いつく。
クロスボウのレールに、ボルトをセットし弦を巻き上げた。射出準備の完了を告げる音が素早くカチリと鳴く。

「駄目だ……!もう!!!!」

幼い騎手が悲鳴を上げる、馬に背後から飛び掛かった犬ほどの大きさの異形が、風のうなりを伴った音に射貫かれ、砕け散った。

「え……?」

少年は、予測した恐怖から背けようとした眼差しを見開いた。
立て続けにボルトは、後方から迫る2体を撃ち抜いたのであった。
その運び主の方へと泳ぐ目を向ければ、放浪者の姿があった。
そしてさらに迫る3体が、自分ではなくそちらに向かうのも。

「……あッ!危ない!!そっちに……!!!」

震える声を払いのけ、少年は忠告を放浪者に向けた。
意志があるのかは測れないが、異形は放浪者を脅威と認めたようだった。
木々の間をすり抜け、動く異形達は新たな獲物へと迫った。 

風の唸りが1体を砕き、2体目が放浪者の眼前に飛び出した。
異形の表皮にボルトの矢じりが触れる、弦のしなりがそれを押し出し、乾いた破裂音を立たせ放浪者のローブを破片が叩いた。砕けた2体目の影に飛び掛かる3体目の姿を認めた、ボルトを装填しようと左手を伸ばすが矢は尽きた。

「ッ……!このッ……!」

異形は獰猛な肉食獣のように、その鋭く尖った両足を突き立てる。
咄嗟に掲げたクロスボウがそれを受け止めるが、勢いで放浪者は背を地面に叩きつけられた。打撲の痛みを感じる間もない。

万力の力で異形は、クロスボウごと放浪者を地面に押し付けようとする。虚のような異形の双眸から、放浪者は殺意を感じ取った。

ハーフオークの筋力を以てしても、満身創痍の今では押し込められてしまう。
クロスボウのひび割れの音が手のしびれに伝わった、その瞬間一瞬その力が軽くなり放浪者は咄嗟に呆然と立ち尽くす少年を見た。

「やめろッ……手を出すなッ……!」

少年がびくりと体を震わせた。
少年が投げた石が異形に当たり、その応酬としての殺意を幼な子に向けたのだった。
その一瞬を放浪者は逃さず、獰猛な獣を蹴り上げた。跳ね飛ばされた異形は、今度は自分が背中を打ち付けたのだ。

恐怖に立ちすくむ少年の前に転がり、放浪者は庇うように異形の前に立ちはだかった。
その瞬間に異形はのたうち、自らの体勢を整えるには十分な時間だった。
その殺意を帯びた枯れ木は、弧を描くように隙なく動き、機を伺っていた。

放浪者の眼差しは、その殺意に応えるように、その視線を向けていた。
背に少年の震えを感じる、そして静かな時を風が流す。
もはや矢を飛ばす役目を失ったクロスボウを、放浪者は静かに下ろし……時を待った。

「あッ……!」

少年が恐れに声を挙げた、飛び掛かったその恐怖の主が放浪者に迫る、みしりと音を立てクロスボウを握る右手が持ち手に食い込む。
少年は二度目の見開きを見せた。放浪者が一歩踏み込み、異形が飛び掛かりの到達点に届く前に、左手はその体を掴みあげ地面に叩きつけた。
そのまま力を込めた右手のクロスボウを頭上からハンマーのように振り抜き、大地に異形を杭のように打ち込んだのだった。

轟音と共に、クロスボウはついに砕けた。
そして異形もまたその破片に混じり砕け散っていたのだ。

「うわッ……スゴイッ……」

思わずもれた言葉に少年ははっと我に返った。事を終えた放浪者が、ゆっくりと立ち上がるのをぼうっと見ていた事に気づき、やっと今の状況を飲み込んだのだ。

「あ……ありがとうございます、た、助けていただ……あ!」

やっと出た感謝の言葉は、悲鳴にも似た焦りに変わった。立ち上がったと思った放浪者が、そのまま崩れ落ちたのだ。

「だ、大丈夫ですか!……いや、大丈夫じゃない!!わ、ど、どうしよう!」

放浪者は、少年の声は聞こえていなかった。
ただその双眸は少年の泣きそうな顔を見届け、静かに閉じられた。
無理をしすぎたようだ。休息に意識は遠のき、少年が呼びかける声は遠くそして、暗闇に飲み込まれた。
しおりを挟む

処理中です...