エンゲルとグレーテル

ちみあくた

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 これ、もしかしてフリン?

 追いかけてって声をかけたら、母さん、どんな顔をするだろ?

 ついでに、いきなり脛をつま先で蹴っ飛ばしてやったら、あのオヤジ、どんな声を出すんだろ?





 二人が入って行った大人向け「お菓子の家」。その可愛くパステル調に塗られた派手な装飾を睨み、達樹は立ち尽くした。

 千地に乱れる胸の奥で母に裏切られたという苛立ちがこみ上げてくる。そして、又捨てられるかも、という恐怖の奔流が押し寄せてきて、揺れる心を弄ぶ。

 でも彼が動くより先……

 交差点手前で待っている筈の早苗が、いつの間にか兄へ追いつき、トコトコと目前を横切ってラブホテルの玄関へ入っていこうとした。

「あ、ダメっ!?」

 ギリギリセーフで達樹は早苗の手を掴み、駐車場の物陰へ引きずり込む。

「どうして? だって、あれ、やっぱりお母さんでしょ?」

「いや、違う! ひ、人違い!!」

「違うの? でも、そっくりだよ」

 早苗も、男と寄り添う母の顔を見てしまったらしい。

 達樹はどう誤魔化すか、腕を組んでしばらく考えた挙句、「あれな、実は魔女なんだ」と勢い任せの嘘をついた。先程の、ヘンゼルとグレーテルの御伽話が胸の奥へ残っていたせいかもしれない。

「魔女?」

 早苗は両の眉を寄せ、全く納得していない上目遣いで兄を睨む。

「そう、魔女。本当のお母さんをあのショートケーキ……お菓子の家の中へ閉じ込め、入れ替わっているんだぞ」

 言った瞬間、早苗は丸い瞳を一層丸くし、ドドッとホテル玄関へ突撃した。

「わ~っ!? 早苗、行っちゃダメだって!」

「だって、助けなきゃ! 早くお母さんを助けないと魔女に食べられちゃう」

 早苗の方も、兄の語った御伽話が、まだ胸へ焼き付いているようだ。

 いつも以上のすばしっこさに慌てた達樹は必死で追い、背後から妹を捕まえようとするが、伸ばす手の狙いは逸れた。

 早苗が胸元で抱えていたビニールのレジ袋を鷲掴みにし、その勢いで中のパンが駐車場脇の通路へこぼれ落ちてしまう。

「あっ!?」

 薄いフィルム包装が破け、輪の形をしたパンがコロコロ転がる間、表面のチョコへ路上の小石やゴミがへばり付いた。

 ヤバい。

 ホテルへの突進が止った代わり、早苗はその場で微動だにせず、汚れたリンゴ・リングをひたすら見つめている。

 澄んだ瞳に大きな涙の滴が浮かぶ。

 あぁ、こんなトコで泣かれたら、あの超音波は何処までも届いちゃうぞ。母さん、まだ近くにいるのに……

 慌てて見回す眼差しが、駐車場ゲートへ備え付けられた監視カメラを捉える。

 魔女に付き従う妖怪さながら、可動式カメラが音もなく蠢き、兄妹の方を向いた。小さな黒いレンズと睨めっこしつつ、このままじゃホテルの従業員が飛び出して来ちゃうな、と思う。

 追い出されるなら、まだいいけど、補導員に連絡されたらどうしよう!? 母さんと店長のフリンまで学校のみんなにばれたら、僕……

 完全にパニックへ陥る寸前、達樹は大きく深呼吸。

 引きつる頬を両手で叩き、いつも通りの『頼れるお兄ちゃん・スマイル』を何とか再現してみせた。

「早苗、又、パンは買ってあげるから」

「……ホント?」

「それにお母さんも大丈夫。ほら、さっき僕が一人で様子を見に言ったろ?」

「うん」

「あの時な、本当のお母さんから携帯電話で連絡が来た。簡単に逃げられるから、心配しないでってさ」

「……ホントにホント?」

「お兄ちゃん、嘘つかない」

 涙ぐむ早苗を騙すのは気が引けたが、ブラフ交じりのスマイルが崩壊する寸前、辛うじて達樹の言葉を信じてくれたらしい。

「でも、ちゃんと魔女から逃げるには、おまじないがいるよね?」

 早苗は達樹の真似をし、両腕を組んで考えるポーズを作った。

「だから、心配ないって……」

「ううん、さっきのお兄ちゃんの話でもヘンゼルとグレーテルは、パンの目印のお陰でお家に帰れたんでしょ?」

 泣きそうだった早苗の顔が、一転、悪戯っぽい笑みに輝いている。

 その思い付きを察し、達樹は道に転がったままのパンを拾って、妹へ渡した。

 まだ汚れを払えば、真ん中の辺りは食えそうなのに……

 でも、ここで泣かれるよりマシだ。

 早苗は大きなリンゴ・リングを小さくちぎり、フンフン鼻歌を歌いながら、少しずつ道へ落としていく。

 勿体ないと思う達樹の気持ちも虚しく、二人の住処、間取り1DKの小さなアパートへ辿り着くまで、パンはすっかり無くなってしまった。





 それからしばらく、早苗のお腹は間断なくクークーと可愛く鳴り続ける。

 限定品のリンゴ・リングは目印の欠片となって消え、お小遣いも残り9円足らず。台所を覗いても、安物の海苔の他、二人の腹の足しになりそうなものは無かった。

 となると母が帰るまで待つしかない。

「パンの目印を置いてきたから、お母さんはすぐ帰ってくるよね」

 そう何度も早苗に聞かれ、もうすぐ帰る、と達樹は繰り返した。

 その度、クリーニング屋の店長と腕を絡める良枝の艶笑が瞼に浮かび、左右へ強く首を振って消し去り続けた。





 あんなの母さんじゃない。

 本当に魔女の作った偽物で、おまじないかなんかで消せたら良いのに……
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