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しおりを挟む楓は見ていられず、叫んだ。
「ヒナさん、許してあげて下さい。彼、後悔してたんです」
「……お姉さん、言ったろ。これで良いんだ」
不自然にひんまがった首のまま、武弘がこちらを向き、声を上げる。
だが、抵抗しない事、苦痛を拒まない態度が却って老女の戸惑いを呼び、何時しか、その様子に変化が生じていた。
眼窩の奥で燃える炎が、心なしか翳っていく。
「虐めたのはお前だ。悪かったのはお前なんだ。でも、お前が死んで……あたし、あたしは……自分を責めて、責め続けて」
武弘の首を絞める手が小さくなる。
「年をとっても、周りに暗い奴って言われた。友達もできなかった」
手だけではない。老女の体全体が少しずつ縮んでいく。
「ねぇ、わかる? 死ぬまで、あたし、お前を引きずってたの。その辛さが、苦しみが、お前なんかに」
立ち竦む楓の目の前で老女は若返り、武弘と同じ小学生の姿で、ふっと力を抜いた。
華奢で可憐な姿は同じ名の少女と良く似ている。だが積年の怒りを吐き出した今、ずっと穏やかで優し気に見える。
「ヒナちゃん」
「……うん」
「長い間、辛かったよね。ごめん。本当にごめんなさい」
武弘はヒナへ向き直り、改めて深々と頭を下げた。
「絶対、絶対! 許してあげない」
そう言い放ち、でも淡い光を放って消える瞬間、ヒナの口元は微かにほころんだように楓には思えた。
老女から少女へ変わった姿が、消滅して夜の闇に溶けるまで、おそらく十数秒に満たなかっただろう。
だが、楓にはそれが長く感じられた。恨みを抱えたまま、二つの霊が彷徨った時の重み故かもしれない。
しばらくの間、月明かりの下、二人は無言でブランコを漕いでいた。
そして、武弘の体が少しずつ透き通り始めているのに気づき、楓は漕ぐのを止めて、さり気なく隣へ問う。
「……結局さ、君、生きている人間の年にしたら何歳くらいなの?」
「知りたい? 今更、あんまり意味ないと思うよ」
「でも、私よりずっと上よね。考えてみると、あんたが真似したドラマ……ミッション・インポッシブルって」
「あ~、僕の頃はスパイ大作戦ってタイトルだったけど」
「アレ、最初にテレビで放送されたの、40年以上前でしょ、確か」
武弘は苦笑し、微妙に折れ曲がったままの首をクイッと捻って元に戻した。
「僕が交通事故で死んだのも、多分、それくらい前の事だと思う」
「そんなに?」
楓は驚いて見せたが、ヒナが老婆の姿になっていた事からして、当然とも思える。
「幽霊になると、時の感覚が不確かになる。只、突然の事故死とは言え、この世に強い思い入れの無い僕みたいな子供が、何で地縛霊になったのか、不思議だった」
楓は素直に頷いた。
幽霊とか地縛霊とか、ドロドロとした執念は確かに武弘には無い。
「有り余る時間で考えて、思いついたのは誰かが僕に強い恨みを抱き、この世に引き留めてるんじゃないか、という事」
「それが、ヒナちゃんだったのね」
「この公園に来るママ友が偶然、彼女について話してた。で、字は違うけど、同じヒナと読む孫娘の存在を知ったんだ」
「で、私を利用した訳?」
武弘は申し訳なさそうに肩を竦めた。
ママ友のおしゃべりから彼が盗み聞きした所によると、幸薄い生涯を送った本当のヒナは60才になる手前で病死している。
その後、不審な事件が彼女の実家付近で頻発した事を知り、武弘はヒナが成仏しきれずにいると確信したらしい。
「それで、私に孫を探させ、本命の幽霊さんに近づけたんだね」
「お姉さんの霊を惹きつける変テコな体質が、きっと彼女をここまで連れてきてくれると思った」
楓は深い溜息をつく。何もかも、自分よりはるか年上の少年地縛霊がたてた計画通りだったのだ。
「彼女、本当に天へ昇れたかな?」
「つまり恨みは晴れたか、って事?」
「うん」
「なら、答えは半分イエス、半分ノー」
「君さ……その思わせぶりな言い方、もう良い加減やめてくンない!」
流石にむくれた楓の鼻息をいなし、武弘は軽やかにブランコを揺らした。
「彼女、最後まで僕を許さなかった。でも言ったろ。あれで良いのさ」
「多分、君……ヒナちゃんが長い間、胸に抱き続けてきた恨みを全て吐き出させようとしたのよね」
「へぇ、わかってるじゃない」
「人が人を許すのは難しい。でも、それでも許そうとしなければ、人は過去から一歩も前へ出る事が出来ないんだと思う」
楓は自身がいじめられた過去を引きずり、自虐に落ち込んだ成り行きを空しく振り返りながら、呟いた。
「僕、さ……」
「ん?」
「本当に好きだったからさ、あの子のこと」
「うん……わかってる」
「ありがとう。お姉さんのお陰だ」
先程、ヒナへそうしたのと同じくらい深く、武弘は頭を下げた。
ここまで素直だと却って困る。ちょっと目頭が熱くなり、油断すると涙がこぼれ落ちそうだ。
ここは大人の威厳でしょ!
一つ大きく深呼吸。楓はブランコから立ち上がり、月を見上げて、さり気なく言う。
「これで君、晴れて成仏できるね」
「ふふっ、確かにこの場所、このブランコに、僕、もう縛られていない感じだ。ちょっと名残惜しい気もするけど」
「あたしはもう沢山。とっとと消えてちょうだい」
「あ、冷たいなぁ」
「生きてる分、君より体温高いけどね」
楓に精一杯の憎まれ口を浴びせられ、初めて子供らしい笑い声を上げたかと思えば、武弘は大きくブランコを揺らす。
一回、二回、三回……揺れ幅が一番大きくなったタイミングで前へ飛び、そのまま華奢な体は夜空へ溶けた。
唐突な別れに、もう少しちゃんと別れが言えないの、と楓は口の中で呟く。
そして、明日には撤去されるブランコを撫で、楓なりに惜別の思いを噛み締めて、公園を出た。
有給が切れる来週、会社へ戻らなきゃならない。
いずれ辞めるにせよ、もう逃げたりはしたくないと思った。
だが、敷居の高い職場、販売促進部へ舞い戻り、野々村主任と顔を合わせた時のシチュエーションは、少なからず予想と違う。
パワハラ三昧の最悪上司は、すっかり意気消沈していた。
ここ数日、何をしても失敗続き。隠していた浮気が妻にばれ、家庭でも絶体絶命なのだと同僚が噂している。
まるで悪霊にでも、憑りつかれたみたい。
同僚の一人が口にしたその言葉で、楓は目を凝らし、野々村の周囲を見回した。
すると……いる。
相羽武弘の透き通った体が野々村の背後に立ち、「イェーイ!」と朗らかに笑ってピースサインを出している。
地縛霊では無くなったから、何処へでも行ける様になり、楓に恩返しでもするつもりなのだろう。
マジック気取りで黄色いテープを無限に伸ばし、机に顔を埋める野々村を雁字搦めに縛っていく。
但し、テープに書かれている文字は、公園と同じ「使用中止」ではない。
「パワハラ中止」「セクハラ中止」、それに「ネコババ中止」や「ヘンタイ中止」なんてのまで、有る。バラエティ豊かな悪行の数々が、のたうつテープの渦となり、野々村を埋め尽くす勢いだ。
ヘンタイ? 一体、何やってたんだ、このオヤジ!?
心の底から楓は呆れ、つい武弘へピースサインを返しそうになった。困惑する野々村の姿は正直痛快だ。でも、やはり、このままではまずい。
やり過ぎたら、武弘が悪霊化しかねないし、虐めの相手を虐め返しても、所詮、袋小路へ迷い込むだけ。
虚しい連鎖を断たなきゃ。
そんなやり方で心が晴れない事は、恨みに縛られたヒナちゃんの姿を見て、思い知らされたばかりなのに……
子泣き爺ぃの要領で野々村の背に乗り、ニタニタしている武弘は、ブランコでの分別臭さをかなぐり捨て、悪ガキへ戻ってしまった様だ。
そういや、こいつ、元々いじめっ子だったんだよなぁ。
何処でどう、けりを付ければいいやら?
今や区内で一番危険なオフィスのド真ん中、頭を悩ます楓にとって、まだまだストレスの種は尽きそうにないのである。
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