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しおりを挟む携帯電話で円に連絡した時は深夜の午前三時頃だったが、予期していたらしく、彼女はもう起きていた。
俶子は熟睡していたから、起こして事情を説明し、気持ちの整理をつけてからこちらへ来るまで少し時間が掛かる。
むしろ好都合だと思った。
好幸は電話を切り、円が来たら相談しなければならない今後の段取りを練り始める。
円と俶子が病院へ到着したのは、電話してからおよそ二時間後、明け方近くになってからだ。
取り乱すと思ったのに俶子は意外と穏やかで、静かに幹雄の亡骸と対面し、しばらく動こうとしない。
何処か、ほっとした表情にも見えた。
「父さんさ、そんなに苦しまず、とても安らかな最期だったよ」
好幸の嘘に少し頷いただけで、言葉も返ってこない。
悲しみと言うより、もっと虚ろな喪失感が漂い、好幸と円は、そのまま俶子を夫と二人きりにしておく。
とりあえず身の回りの品を片付け、運び出す準備を済ませて、病室とは別棟の霊安室を見に行く事にした。
その間、夫と二人きりの時間を過ごす事で母の気持ちも落ち着くだろう。
のんびり構えてはいられないのだ。ナース・ステーション前の特別な部屋は、次の死を待つ患者の為、一刻も早く空けねばならない。
明日の昼前には病院と縁のある葬儀屋が車で父を迎えに来るだろう。
病棟を出て、昼間にも来た渡り廊下を二人で歩く。
中庭の方から吹き渡る熱帯夜の生温い風を頬に受け、しばらく無言で歩いた後、先に語り掛けたのは好幸の方だった。
「親父、やっぱり強い人だったよ」
幹雄の死に際の顛末を一通り語った後、好幸は呟く。
「あの死に至る苦しみの中、親父は何もできない俺の意気地無さに失望していた。最後の最後で又、俺、あの人をがっかりさせちゃったんだ」
「そんな……」
「でも、そのまんま受け入れてくれた気もする。ダメ息子ってさ、ずっと目を背けられてきて、目を閉じる間際で親父、初めて俺をちゃんと見てくれた」
「それが嬉しかったの?」
好幸は頷いた。
今、思えば、あの雪の夜の事があんなにも楽しい記憶として胸に残っていたのも、父がすぐ側で笑いかけてくれた為だろう。
多分、俺は、ずっと親父に認めてもらいたかったんだよな。
その自覚がささやかな勇気をくれる。自分の弱さと向合う勇気を。
父が亡くなってから円と俶子が病院へ来るまでの間、必要事項を全て書き込んだ離婚届の用紙を好幸は差し出した。
「後は、お前が署名するだけで良い」
円は戸惑い、すぐには届を受け取ろうとしなかった。
「出会った頃の気持ちのまま、寄り添える夫婦になりたかった。でも俺の思い込みに振り回され、円が限界にきていたのは良く判ってる」
「うん」
「今、別れたら、夫婦でなくなっても友達ではいられるよな?」
考え抜いて出した結論の確認だ。円は戸惑ったが、もう一度、押し出した離婚届を丁寧に両手で受け取る。
「預かっておきます。でも、提出まで少し時間を下さい」
ふっと笑った。
いつもの、あの鎧のような笑顔とは違う、何処かはにかむ様な微笑みだ。昔、出会った頃、大学のキャンパスで円は良くこんな顔をしていた気がする。
「でも、二人で良く話し合って決めた事じゃないか」
「あなた、すぐ別れたいの?」
「そんな訳、あるかよ! でもこれから、俺の家はもっと大変になる」
「……うん」
「無理して笑う、円をもう見たくないんだ。親父の年金は無くなるし、母さんはあの調子で……いずれ、本格的な介護が必要になるかもしれない」
「そうね」
「大体、お前、同居してから母さんとずっとうまくいってなかったろ」
「あの方が無口だから、あんまりお喋りできなかっただけ」
「でも今日の昼間、酷い事を言われたよな? 叔父さんに聞いたぞ。家から病院へ来る途中、お前、涙をこぼしたって」
「えっ!?」
円はしばらくポカンと口を開け、それから声を上げて笑った。
父が死んだ夜、霊安室へ向う病院の殺風景な通路には、およそ似つかわしくない声音に思えた。
「おい、どうした?」
流石に不謹慎だと悟ったのか、円は笑いを堪え、
「違う。あなた、それ全然違う」
と真顔で言う。
「あの時、お母さんは私に言ってくれたの。あなたのせいじゃないって」
今度は好幸が驚き、大口を開けたまま、ポカンとする番だ。
「実はお父さんも子供ができにくい体質で、苦労なさった時期があるそうよ。不妊治療も今ほど普及していなかったから、三十代で息子を授かった時、夢かと思うくらい嬉しかったって」
「ちょっと待て……つまり、お前を責めたんじゃないのか?」
「慰めてくれたんです。口下手だから、これまで庇ってあげられなくて御免なさい、って耳元で」
「ホントに?」
「私もお母さんに気持ちを伝えられなかったから、嬉しくて……つい、涙が」
好幸は拍子抜けし、その場にへたり込みそうになった。
「俺、そんなの一言も」
「お母さん、言えなかったのよ」
「何で?」
「だって下手に口に出してしまうと、子供ができないのは好幸さんのせいって咎めるみたいだし」
病院の廊下でつまづいてしまう前、疑いの言葉を掛けられ、俶子が睨み返した瞬間を好幸は思い出した。
あの時もきっと、我が子の気持ちを母は慮ってくれていたのだ。身ごもるまでに積み重ねた自身の心痛と重ね合わせて……
同時に今、幹雄と二人きりの病室にいる俶子の事を思う。
好幸が幼い頃、いつも仕事で飛び回り、営業所巡りで半月近く家を空ける事もある父と母の仲はあまり良くないのではないか、と感じる事があった。
殆ど会話の無い夫婦の食事風景は味気なく見えたし、円と友達みたいな夫婦になりたいと思ったのは、その反動もあったのだろう。
でも、二人にはそんな見た目と違う、二人だけの繋がり方があったのかもしれない。
亡くなった父と対面した瞬間の、母の穏やかな表情を思い出し、改めてそう思う。
夫婦ってモンをわかってねぇよ、お前。
昔、父から言われた言葉が胸の底から蘇り、好幸は思わず苦笑した。
「なぁ、円」
「ん?」
「改めて聞くが、友達でいられなくても、俺と一緒にいてくれるか?」
俯いた好幸が恐る恐る尋ねると、円はそっと寄り添い、手を握って来た。華奢な掌の感触が冷たくて心地よい。
「先の事はわからないけど」
「ああ」
「でもあなたと、あなたのお母さんと、私、もう少し家族でいたいと思う」
区切り区切り、噛み締める様にゆっくり言う妻の手を握り返し、好幸は入口の明りが見えてきた霊安室へ歩を早めた。
あの雪の夜、高く持ち上げられた瞬間に垣間見える星と似た輝きが、白み始めた真夏の空にまだ微かに残っていた。
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