雪つぶて、高く 或る家族のエンディングノート

ちみあくた

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 あの苦しそうな呼吸音は……何と表現したら良いのだろう?
 
 ヒーヒーでもない、ゼーゼーでもない。閉じた気道、機能を失いつつある肺の中から絞り出す空気の流れにしか過ぎない音。
 
 母に聞かせずに済んで、良かったと思わずにいられない。
 
 命を取り留めて欲しいと言うより、父の苦痛が早く終わって欲しいという願いが、好幸の中で渦巻いた。
 
 ただ早く終わって欲しい。見守る側も楽になりたい。

 いつの間にか、自然とそう願ってしまう俺と言う奴は、なんて自分勝手な薄情者なのだろう。





 身悶えする全身が引きつり、ベッドが揺らいだ。衰え、すっかり小さくなった父の体にまだこんな力が残っていた事に、好幸は驚愕した。

 どれ程の痛みが生じているのか?

 好幸には想像もできない。

 人の死とは何て残酷ものなのか。何度繰り返したか判らない問いを、際限もなく、自問する。
 
 少々独りよがりで、我儘な所はあったけれど、誠実に、真面目に生きてきた父の最後はもう少し安らかであって良いのに、何故、こうも苦しまねばならないのか。

 理不尽だ、畜生!





 きっと家族を見取る人間の多くが噛み締めるのであろう絶望感に苛まれる好幸のすぐ傍で、突然、父の目が大きく見開かれた。

 一瞬、不思議そうに息子を見る。
 
 激痛が父の意識をほんの束の間、呼び起こしたのかもしれない。
 
 そして、

「がああっ」

 前以上の怒号を上げ、父は体についている管を全てむしり取ろうとした。

 無意識にそうしようとした時と違い、制止する好幸の腕をはらいのけ、素早く何度も試みる。

 何本かの管が外れ、機器のバイタルメータが警報を奏でる。

 すぐ看護師さんが来る。

 好幸はほっとしたが、生憎、夜中であり当番の看護師が巡回で出払っていたのか、駆けつけるのが遅れた。

 その間も父はもがくのを止めない。
 
 最後は口の周りに固定されていた呼吸器さえ、もぎ取ろうとした。
 
 それは末期の肺炎に冒された人間にとって不可欠な命綱で、取れば短時間で死に至るだろう。
 
 十分理解した上で、父は取ろうとしていると好幸には判った。
 
 束の間、戻って来た意識と知性で、もう助からないと悟り、苦痛から逃れたい一心なのだと思った。

 そして、こちらを見る。

 もう良いだろ? 俺を楽にしてくれないか?

 そう目で語っていた。懇願していた。





 ああ、親父がここにいる。





 こんな状況にも拘わらず、好幸はうれしかった。

 もう二度と、意識の在る父には会えないと思っていたから、どんな形でも気持ちが通じて……
 
 いっそ、俺がこの手で呼吸器を外し、親父を楽にしてやろうか?
 
 そう思い、抗う父の腕を押える力を緩め……
 
 でも、すぐもう一度、渾身の力で父を抑え込んだ。ずれた呼吸器はすぐ元へ戻す。





 だめだ。
 
 俺にはできない。
 
 親父が死んでいくのを、そのままになんか、どうしたって……





 その気持ちに気付いた時の、父の目に浮かぶ怒りの色を、好幸は一生忘れられないだろう。

 でも、その直後、瞳が伝えた言葉は一層深く心に刻みつけられた。
 
「あぁ、お前には無理なんだよな」

 確かにそう、父は言ったように思う。
 
 何度も何度も、吐き捨てる様にぶつけられた言葉だ。言葉にはならずとも、そのように唇が微かな動きを見せるのも感じた。
 
 でも、今、伝わる感情はそんな侮蔑や憎しみとは全く違う物に思える。
 
 父は諦めたのだろう。
 
 息子ができる限界を見極め、それを受入れたのだ。
 
 そして、ほんの一瞬、最後の激痛による全身の強張りが落ち着いた直後、微笑んだかに思えた。
 
 好幸の気のせいかもしれない。
 
 ともあれ、看護師と医者が駆けつけ、最後の治療が行われて、およそ一時間後に父は息を引き取った。
 
 あんなに苦しんだのに、最後は「げふっ」と小さく息を吐き、本当に安らかに目を閉じた。
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