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我々は何処へ行くのか? 7

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 設置された可動式スポットライトには色付きの物も含まれており、1980年代のダンスホールを思わせるサイケデリックな色合いを小学校の講堂に与えていた。

 その中央の祭壇と、傍らに倒れて動かない富岡を能代臨は見下ろしている。床に落ちている拳銃も目に入った。飛びつこうか、と思うが、立ち塞がる様に守人が迫る。

 その右手に光るメスの刃に、臨の全身が震えた。

 富岡の左胸を容赦なく貫いた今の守人なら、臨の命だって絶つかもしれない。
 
 空いていた守人の左手が祭壇のツールボックスに伸び、金槌を握る。いよいよ『イベント』のセレモニーが始まるのだろう。

 赤い仮面を小脇に抱え、来栖晶子は満足げに頷いた。

「今でも思い出すわ。高槻守人を見つけた時、あの人がどんなに喜んだか」

「……あの人?」

「私も嬉しかった。冷静なあの人があそこまで剥き出しの感情を見せるのは初めてだったから」

「隅亮二の事? 来栖先生、あなたは隅を愛していたんですか?」

「ふふ、何にせよ、これは一つの奇跡」

 熱っぽく語る晶子の方へ守人は振返る。何時、生贄を屠れば良いか、タイミングを計っているようだ。

「前に教えたでしょ、能代さん。人が耐えがたい恐怖から逃れる有効な手段の一つは、恐怖を与える敵と同化する事。同時にそれは命の灯が消えかけたあの人にとって、かけがえの無い写し身を見出した瞬間に他ならない」

 守人を研究室に連れて行った日、晶子が語っていた言葉を臨は思い出す。

「精神的トラウマで行為障害を生じた場合、10才までに顕現しない青年期発症型は小児期発症型と比べ、定着しにくく、一過性で終わる場合が多い」

 それはつまり、トラウマから回復し、ごく平凡な人格へと回帰する事を意味していた。 PTSDの治療において当然目指すべきゴールだが、隅亮二にとっては受け入れがたい喪失となる。

「高槻守人が殺人現場に居合わせ、その特殊な感受性ゆえに、犯人と同化する自意識を生んだのは9才の頃。彼に生じた『赤い影』の種を育て、定着させるにはギリギリのタイミングだった」

「そんな不確かな目的で、高槻君のトラウマを更に深く抉ったんですか!?」

「不確か? どうかしら? 断言なんて、誰にもできない。現代の心理学で人体実験はタブー。第二次大戦の終了以来、健常者の精神に生じたトラウマを更に強化する試みなど誰も試していない。精神的外傷による人格改変の誘導が可能か、不可能かを確かめた者もいない」

 守人は微動だにせず、他人事を聞く態度で晶子の話へ耳を傾けている。実際、今の守人にとって、以前の彼自身は他人に過ぎないのかもしれない。

「実体を持たぬ人格は、本来とても脆いもの。如何にして『赤い影』の種子を守るか、あの人と検討を重ねたけれど、猶予が無いのは明らかだった。彼に巣食う癌細胞はとうに治療不能へ陥っていたから」

 晶子の視線がしばし宙を彷徨う。

 その眼差しが、液晶モニター画面上に映る陸奥大学の様子と、動画ウィンドウの中で嗤う自称『隅』の映像を捉えた時、小さな舌打ちが聞こえた。

 極めて不快な汚物を見た表情で眉を顰め、目を逸らし、再び思い出へ逃げ込む様に宙を見上げて、

「十年以上に及ぶ未来の計画を二人きりで練り上げる……それは、私にとって、あの人と共に過ごす幸せの一時でもあった。死にゆくあの人に誓ったの。どんな事をしても隅亮二の魂を、高槻守人の中に再生して見せると」

 少女に似たあどけない笑みが、英才を謳われる准教授の頬に浮かんだ。

「時には心療内科のセラピストとして、時にはインターネットを通じ、常に高槻守人へ愛情を注ぎ、育んできたわ。そして時が満ち、私は犯罪史上に残る殺人の幾つかを彼の前で再現し、その胸中に眠る『赤い影』の要素を強烈に揺さぶった」

「殺人を再現!?」

「荒雄岳で私の車へ女性のヒッチハイカーを乗せた時には、後部座席に高槻君がいた。気仙沼のカラオケバーでも店の片隅で彼は身を伏せていた」

 ふっと晶子は思い出し笑いをする。

 その時、只、殺人の過程を呆然と眺めるだけだった守人の様子を思い出したのかもしれない。

「彼の前で人を殺した際、伝説的なシリアルキラーを真似たのは、ちょっとしたファンサービスも兼ねてるの。『タナトスの使徒』のフォロワーは、隅を支援するスポンサー、それに危ない衝動をもてあますサイコパス達……ショーアップしてあげないと」

「でも、郊外のホテルで二人の女性が殺された時、あなたはあたしと一緒にいたわ」

「ああ、あれね、裏方に出演してもらったのよ」

「裏方? それは隅が作ったっていうネットワークのメンバーですか?」

「ええ、中でも過激な奴らを志賀がライブ中継のスタッフとして使っていたの。気仙沼でも、荒生岳でも、彼らは撮影機材の設営とか、色々やってくれていた。ちょっとしたADのノリでね」

「志賀の手下……」

 臨はラボに流れる実況ライブの中で見た、守人と『赤い影』に扮する男の争う光景を思い出していた。

 極めて暴力的でありながら、時々変におどけた身振りを交え、遊び感覚でやっていたのか、と今は思える。
 
「実際、持て余す感じだったのよ。あの手の連中は群れると自制心を失い、計算外の行動に出てしまう。だから実験の幕を引くタイミングで処分し、全ての罪をかぶってもらう予定だったけど」

「今、何処にいるの?」

「あんまり使えないから、予定より早く御払い箱にしちゃった」

 臨は戦慄し、同時に安堵した。

 今、晶子が口にした告白は、宮城山中で田沼恵美を殺した金槌によるテッド・バンディの模倣、気仙沼市内で行われた絞殺によるジョン・ゲイシーの模倣、二人のヒッチハイカー惨殺によるエミル・ケンパーの模倣が、全て守人の中の『隅』を目覚めされる為、晶子、或いは『タナトスの使徒』メンバーにより行われていた事を意味するからだ。

 五十嵐もまだ死んではいない。血の海に倒れた富岡にせよ、助けられる余地はあるかもしれない。

 告白が真実なら、まだ守人は誰も殺していないのだ。

「来栖先生、あなたが真犯人……事件の全てを裏から操っていたのね」

「ふふ、それはどうかしら?」

 晶子は意味ありげに笑う。

「能代さんには理解できない複雑な事情も、この世にはあるのよ。死にかけの刑事さんなら、何か察してたかも知れないけど、ね」

「どういう意味? 真犯人が別にいるって事ですか?」

「残念! 教えてあげる時間は無い」

 晶子は愛おし気に守人の肩を撫で、優しく叩いて、次の行動を促した。

 金槌を握る守人の表情に相変わらず何ら変化は無く、静かな殺意以外、感情の動きは伺えない。
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