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籠の鳥、あがく 1

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 窓枠の酷く軋む音がして、能代臨は読んでいた本をサロンのテーブルへ置き、顔を上げた。

 彫刻を施した金属サッシが強風で揺れ、明かり取りの小窓の外は灰色一色だ。読書の為に灯りをつけていたから、外の暗さには気が付かなかった。

 壁の大きな掛け時計を見ると間も無くお昼になる時間帯で、また荒れた天気になるのかな、と臨は思う。

 今年は何かと異常気象が続き、季節感の乱れにもすっかり慣れてしまったけれど、天気予報を確かめる術は無い。

 ここにテレビは置かれておらず、インターネットへ接続できる機器も見当たらない。おまけに携帯電話も取り上げられている。

 その代わり、古めかしい書斎にたっぷり蔵書があり、暇を持て余す心配は無かった。

 外国語で書かれた原書が多いのに閉口したが、フロイト、ユングと言った定番から、スタンレー・ミルグラム、フィリップ・ジンバルドーらの著作も豊富に揃っている。ゼミの課題に取り組む時、ここを使いたいと思った位だが……

 で、ここって何処?

 臨はテーブルに置いたヴィクトール・フランクルの「夜と霧」へ栞を挟んで閉じ、ぼうっと窓の外を眺めた。





 五十嵐の部屋が爆破された夜、臨は高槻守人の導くまま夜の新宿中央公園を通り抜け、待機していた白のワゴンカーに乗せられて、長距離移動を強いられている。

 分厚い布の目隠しをされた為、『赤い影』の協力者が車中に何人いて、どんなルートを移動したかは分からない。何人いたにせよ、同乗者は到着して間も無く去り、誰もいなくなってしまった。

 移動時間そのものは半日程度だと思うが、途中で眠ってしまい、そちらもいま一つ掴めていない。

 どんな状況でも眠くなる無神経さは大したモン、と我ながら臨は呆れた。
 
 到着したのは朝方で、自動車を降り、建物の中へ入ってから目隠しを取られている。





 見た感じ、ここは郊外のペンションだ。

 文字通り『洋館』という古風な佇まいで、一、二階と地下室があり、其々が広いスペースを持つ。

 虜囚の立場だから座敷牢みたいな所へ押し込められるのを覚悟していたのに、その点は取越し苦労だった。冷暖房完備の個室を与えられ、部屋間の移動は自由。見張りの者が目を光らせている様子も無い。

 監視カメラは至る所へ仕掛けられているだろうが、快適過ぎ、軟禁生活という悲壮感は薄かった。

 但し、屋敷の外には一歩も出られない。

 玄関から勝手口まで頑丈な鍵が掛けられており、小窓はスチールの格子入り。強化ガラス製のサッシは叩いてもびくともしない。

 この物々しさ、元々どういう目的の建物なんだろ?

 廃棄されたリゾート施設の二次利用?

 屋内を散策し、ヒントを探したが、全て空振りに終わる。屋敷の位置、ロケーションについても手掛かりは無かった。

 新宿から車でおよそ半日という程度の朧げな目安しかなく、東北の何処か、と一応当たりを付けたものの、根拠は皆無。単なる直感に過ぎない。

 見通しの良い二階の窓から外を眺めると、周囲はなだらかな丘陵で、荒廃した畑の跡と思われる場所が少し先に点在している。

 集落が近くにあるのかも、と臨は思った。

 でも近くで大勢が暮らす気配は感じられない。路を行きかう人影は無く、物音にせよ時折り野鳥の声がする位である。





 お腹、すいたな。

 サロンから玄関ホールへ通じる観音開きの大きな扉へ視線を移すと、誰か屋敷へ入る音が聞こえた。

 間も無く『赤い影』の衣装に身を包んだ男が扉を開き、オカモチと大きめのビニール袋をテーブルの上へ置く。
 
 毎度お馴染み、食事時に繰り返されるパターンだ。

 ビニール袋の方は、飲み物のペットボトル等、冷蔵庫の中身を補給する品が入っている。置いたまま放置されるので、補給自体は臨が自分でしなければならない。

 オカモチの中は暖かい料理。

 湯気が立つ出来立てを運んできてくれて、近くに村がある、と臨が考えた根拠の一つがこれだ。味の方も悪くない。
 
 ホントの所、あたしが作るのよりずっと美味しい。

 本日のお昼はかつ丼。臨の好物だが、仮面を被ったまま、鈍く光るメスを片手に正面へ座る『赤い影』が目障りだ。

「高槻君……だよね?」

 いつも通り無視されるのを承知の上で、臨は話しかけてみた。

「これ、もしかしてあなたが作ってるの?」

 いつも通り答えは無い。

「知らん顔してもバレバレだよ。昨日の晩は鶏のから揚げ、お昼はハンバーグ。男の子が好きそうな奴ばっかだもんね」

 いつも通り答えは無い。

「ねぇ、自分の好みでメニュー選んでるでしょ? あ、違うか。自分のを作る時、ついでにあたしのもやっつけちゃう感じ?」

 半ばヤケッパチで、臨は舌をフル回転させてみた。

「高槻君が大学へ手製のお弁当を持ってくる事、前に伊東君から聞いたよ。学食の端っこで、一人黙々と食べてるって……今もそうなんだね。凄いね。マメだね。律儀だね」

 何かと前のめりになる傾向はお喋りの時も同じ事。

 段々、自分でも何を言ってるか判らなくなりながら、臨は必死で言葉を繰り出し続ける。

「料理上手って、女の子にポイント高いよ。あ、もしかして、あたしへの愛情表現だったりして?」

 赤い仮面が少し揺らいだ。

 チャンス。

 臨はグッと渋く相手を藪睨み、一旦、どんぶりを閉じて、

「そうなんだろ、オイ。白状しろ、高槻。楽になるぞ、ホ~ラ、かつ丼食うか?」

 ケーブルテレビで見た古い刑事ドラマの取調べを真似、かつ丼の蓋をパカッと開いてみる。又、仮面が揺れ、ボイスチェンジャーで電子化された笑い声が微かに漏れた。

 イケるっ、こいつは効く!

 連れてこられて今日まで真剣な説得や、親近感を示す世間話の類を散々仕掛けて来たのだが、全部無視されて終わり。

 こりゃ意外とバカ路線の方が受けは良いかも? 

 そう見込んだ臨のヤケッパチは、すぐさま悪ノリへ進化し、

「無駄な抵抗は止めろ! あ~、あ~、マイクのテスト中。故郷のお母さんは泣いてるゾ。ホレ、かつ丼食うか?」

 などと大きな身振り手振りを入れ、安っぽいコントさながら、熱演を繰り返す。

 清楚な見た目とのギャップが生む果てしなきアホらしさに、赤い仮面の奥から又、クスリと笑い声が漏れた。

「その笑い方、やっぱり高槻君だよね。あ~、無駄な抵抗は止せ。観念してキュートな素顔を見せたまえ」

「……バカじゃないのか、君?」

 とうとう『赤い影』が自分から口を開き、徐に仮面を取った。

「やった! 久しぶりに高槻君の声が聞けた」

「……その名で私を呼ぶな」

「高槻君じゃなかったら、あなたは誰?」

「私は私。君の言う高槻守人はもう、ずっと前から何処にも存在していない」

「前からいない? それ、どういう意味?」

「彼が自分で言ったろ。自分より優れた者が心の奥に住んでいて、どうやっても敵わない、と」

 陸奥大学・青葉山キャンパスのベンチで悩みを吐露した時の、苦し気な守人の横顔を思い出し、むりやり作った臨のハイテンションが急激に冷めていく。

「卓越した加害者の圧倒的恐怖から逃れるべく、正確なコピーを高槻守人は心の中に作り上げ、私が生まれた。孤独な臆病者の彼と違い、私はコピーのオリジナル『赤い影』から深い愛情を受け、その庇護の下で育まれている」

「それはつまり……隅と接触してたって事?」

「高槻守人の意識が薄れ、私の人格が発現している間に、たっぷり個人レッスンを受けていたよ」

 守人は懐かしそうに窓の外の、雨が上がりつつある空を見上げた。

「あの人、二度目は医師として私の前に現れたんだ」
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