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まだ「そこ」にいる 8

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 その頃、五十嵐のマンションを飛び出した能代臨は、新宿中央公園の手前、歩道の街路樹を彩る鮮やかなライティングの中をひた走っている。

 先日、守人と共に歩いたプロムナードを思い出したが、やっぱり東京は一味も二味も違う。

 色鮮やかに瞬くかと思えば、海中さながら青一色に染まる演出もあり、まるで映画かゲームのファンタジー世界を彷徨っているようだが、今はそれ処じゃない。

 後ろ姿くらい見えても良いのに、道が違ってるかな……あぁ、そうそう、あたしって方向音痴だったのよ、うん。

 今更過ぎる自覚が蘇ると共に、一人きりの心細さが込み上げる。

 マンションの晶子や富岡達はどうしただろう?

 大通りに繋がる彼方のイルミネーションが一層眩しく、目立つ衣装の守人が、この先にいるとは思えなくなってきた。





 どうしよ?

 一旦、戻る?

 でも、あたし、どんな顔して戻れば良いの?





 少し落ち着いた分、無茶ぶりをフルスロットルで貫く猪突猛進をやらかした点についても、臨は十分自覚している。

 無我夢中だった。とは言え、反省して済むレベルじゃない。
 
 だから、矢継ぎ早に飛ぶであろう晶子の叱咤、富岡の重い溜息を思い浮べ、肩を落として通りを見回す。

 大きな公園のゲートが目に付き、イルミネーションもそこにはなくて、薄ぼんやり街灯の灯りが奥へ続いていた。

 身を潜めるなら、格好の場所よね。

 小高い樹々に挟まれたプロムナードへ踏み込む。

 街の喧噪に比し、とても静かだ。誰もいない広場を吹き渡る風の音ばかり大きく聞こえた。





 やっぱり暗い。

 やっぱり怖い。





 竦む足が前へ出ず、引き返そうと振向いたら……

 凄まじい爆発音が夜の静寂を切り裂いた。

 それは五十嵐のマンションの方からだ。

 他のビルが邪魔になり、状況を直視できない。だが、火災を示す赤光のまたたき、たなびく黒煙を確認し、す~っと血の気が退くのを臨は感じる。

 あったんだ、ホントに爆弾!?

 いても立ってもいられず、慌てて晶子のスマホへ電話を掛けるものの、応答は無い。

 代わりに誰も居る筈が無い方角から男の声がした。

「刑事の二人か、先生か、見張りがいるって警告したのにさ。誰が馬鹿をやらかしたんだろうね」

「……高槻君なの?」

 灌木の裏から守人が現れ、朧気な明滅を繰り返す街灯の明かりに浮かび上った。

 もう赤いレインコートは着ていない。スタジャンにデニムのパンツというカジュアルな出で立ちだ。

 木立ちに隠れて待ち伏せしていた、と言う事は、背後から追う臨の足音に気付いていたのだろう。

 最初から予期……いや、臨の性分を見越した上、煽っていたのかもしれない。
 
「どうする、能代さん? 君の愉快な仲間達は綺麗さっぱり、あの爆発で吹き飛んだみたいだよ」

 接近する守人に臨は後ずさった。

 殺人鬼の衣装を脱いだ今の方が、先程、マンションの廊下で強い動揺を示した時の彼よりずっと恐ろしく感じる。

「今更、逃げなくても良いさ。ここまで追いかけて来て、君、一体どうするつもりだったの?」

「あ、あなたを連れ戻す」

「何処へ?」

「あなたがあなたらしくいられる場所。シリアルキラーや、その一味の道具になんか、されない所」

「無駄だよ。わかるだろ? 私はもう、君が知っている高槻守人じゃない」





 又、自分を『私』と呼んでいる。

 守人の普段の一人称は『僕』だ。

 でも何度か『俺』と言う姿を見たし、晶子の催眠療法を受ける直前には、ベンチに座って自説を展開しながら『私』と自分を呼んでいた。
 
 『俺』と『僕』の間に、臨は大きな距離を感じていない。怒りから来る粗暴さが両者の間を隔てるに過ぎない。

 でも『私』の示す傲慢な冷酷さには、激しい違和感と恐怖を禁じえなかった。

 今も同じだ。

 臨の逃げ場を塞ぎ、通路の側から回り込んで距離を詰める守人の面持ちには、あの時と同じ危険な匂いがする。





 それでも臨は震える足を踏ん張った。

 ここで逃げたら、もう二度と以前の彼の、あの躊躇いがちに浮かべる優しい笑顔を見られない気がした。

「まぁ、折角、誘い出したんだからさ。逃げようったって、逃がしはしない」

 左手を『赤い影』が掲げると、握っているメスが月明かりを受けて鈍く輝いた。

 上等だよ、バ~カ!

 ヤケクソ気味の強がりが臨の胸一杯に満ちる。

 どの途、もう逃げるつもりなど無い。

 突き出したメスの先が微かに震えている事から、その内心に辛うじて残る葛藤、僅かな混乱の余韻を彼女は見抜いていた。これでも一応、臨床心理士の卵なのだ。

 仮説が確信に変わる。

 まだ高槻守人の意識は、隅によって作られた『赤い影』に完全な形で呑みこまれてはいない。

「行くわ。何処へでも連れてって」

 メスを仕舞う『赤い影』が導くまま、臨は彼と肩を並べて公園を歩き始めた。

 あの合コンの夜、仙台市豊篠区のプロムナードを同じ様に歩いた記憶……ささやかな映画談義と、一晩すぐそばにいて、うずくまる彼の背中を抱き締めた時の温もりが蘇り、切なく心を締め付ける。

 その切なさが意味するもの、自分の中の守人への想いがどう変わり始めているのか、今は考えない事にした。

 これが危険過ぎる賭けなのは十分わかっている。

 臨が冒して来た過去のあやまちと比べても正に最低、最悪の無謀さだが、反面、守人を取り戻す最後のチャンスなのも間違いない。

 彼を治療する手段があるとしたら、『僕』と『私』、二つの人格統合だけ。

 どちらかを完全に否定し、消し去ろうと試みた場合、人格全体が根底から崩れ去る可能性さえ有る。

 側にいて、高槻守人と『赤い影』の歩み寄りを促さなければ、と臨は思った。

 今の所、より安定している『赤い影』の心の闇から、守人本来の善良さをどれくらい守れるかは完全に未知数だが……

 あたしは逃げない。絶対、逃げてやるもんか!

 それだけを心に決め、二つの魂を併せ持つクラスメートと、臨は暗闇の中をひたすら歩き続けた。
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