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まだ「そこ」にいる 7

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「我々は何処へ行くのか?」

 淡々と言葉を紡ぎ、倒れた五十嵐の止めを刺そうと、『赤い影』はメスを振り上げる。

「待てっ、それ以上、動くな!」

 壊れた仮面の中の瞳が、富岡を捉えた。

「……その言葉、懐かしいな」

「え?」

「覚えてませんか? あなた、10年前も同じ言葉を叫んでた」

 おもむろに仮面を外す。現れたのは見覚えのある顔だ。

「お前は……」

「お久しぶりです、富岡さん」

 19才になった高槻守人と直接会うのは初めてだが、浮かべた笑みに幼い頃の面影がある。左右で二つに分割された仮面を守人は足元に落とし、五十嵐の血に浸した。

 血溜まりは刻一刻と大きくなっていく。

 うつ伏せだった五十嵐が刺された左胸を押え、苦しみながら床を転がる。長くは持ち堪えられそうにない。

 その側に倒れたまま、微動だにしない笠松も気になる。
 
 決着を急ごう。傷ついた二人の為に救急車を呼ぶのが先決。そう腹を決め、富岡は改めて拳銃の照準を守人へ合わせた。

「高槻守人、刃物を捨て、両手を頭の後ろに組んで、跪け。さもないと撃つ」

 守人はメスを握ったまま、呆れた身振りで首を傾げて見せる。

「嘘でしょ。こんな狭い所で銃を使うつもりですか?」

「必要なら、な」

「鼓膜へのダメージと跳弾。一つ間違うと死人が出ますよ」

「お前みたいな奴を野に解き放つより、マシだ」

「私みたいな? ふふっ、それどういうタイプの人間の事なんでしょうね?」

 嘲る守人を睨む内、先程と似たデジャブが富岡を襲う。

 十年前、高架線下で見た『赤い影』と身にまとう雰囲気が似ており、ボイスチェンジャーを通せば声の調子も同じか、と思えた。

「早くしろ! 本当に撃つぞ」

「嫌だね」

 守人はメスを握る左手を下ろし、もう片方の手に握った黒いスイッチボックスを富岡の正面へかざす。

「何だ、そりゃ?」

「私は今日、昼下がりにはこの部屋へきて、五十嵐さんの帰宅を待っていました。部屋の中の資料を処分し、PCをいじり、余った時間で、ちょっとした玩具を仕掛けたりしてね」

「まさか、爆弾!?」

「そこ、ご想像にお任せします」

 高槻守人は優雅に笑った。

 相手の気持ちを弄ぶやり方が隅そっくりで、だとしたら、ブラフと見做すのは危険だ。五十嵐の話から推測する限り、見せかけの駆け引きを隅はしない。

「私の、ここでの仕事は済みました。そろそろ、引き上げたいと思うのですが」

 スイッチボックスをかざしたまま、守人は書斎のドアの方へ進み始めた。

 撃つか?

 もし爆弾が本当に存在し、爆発する羽目になれば、自分の命も無いだろうに……こちらを見る守人の目は穏やかだ。死への恐れなど微塵も無い。

 駄目だ。

 自分のすぐ横をすり抜ける間も富岡は手が出せない。だが廊下へ出た途端、守人の足は止まった。
 
 玄関ドアが開いており、框の手前に臨が立っている。

「高槻君!?」

 臨の声は驚きで上ずっていた。

 殺人現場で濡れ衣を着せられ、犯人に囚われたと思い込んでいたのに、何故、こんな場所にいるのか?

 それも、殺人鬼が身に着け、守人が忌み嫌っていた筈の真っ赤な衣装を自ら身にまとって……

「何で?」

 やはり唖然としている晶子の隣で、絞り出すように尋ねるのが精一杯だった。

 守人の方も五十嵐や富岡に対した時と反応が違う。大きく目を見開き、立ち尽くしている。
 
 激しい動揺が素振りから伝わってきて、臨は守人の揺れる瞳の奥に、彼女の良く知る温和な青年の面影を垣間見た。

 今なら、まだ取り戻せるかも。

 理屈抜きにそう感じ、守人へ歩み寄る。引き合うように守人も一歩踏み出す。

「高槻君、あたし……」

 言葉に迷う臨と向かい合い、守人は静かに耳を傾けていたが、その左手には依然としてメスが握られており、臨の姿はあまりに無防備で危うげだった。

 廊下に出た富岡がこのままじゃまずい、と思った時、

「ダメッ、離れて!」

 一足先に晶子が二人の間へ割り込んだ。

「能代さんは下がってなさい」

「でも!?」

「高槻君、あなた、どういうつもりで……」

 渋る臨を押しのけ、いつもの調子で諭そうとすると守人は激しい反応を示した。いきなり晶子を突き飛ばしたのだ。

 吹っ飛んだ体は大きな音を立てて玄関のドアへぶつかり、跳ね返って廊下に倒れる。額から血が流れ落ちた。以前の傷が再び開いてしまったのだろう。

「嘘……」

 臨は信じられない顔で、晶子を見下ろした。

 こんなのあり得ない。

 守人は殺人を犯していない、と臨は信じていた。

 最初の二件も、モーテルでのヒッチハイカー殺しも冤罪。志賀への反撃は止むを得ず行った正当防衛。そう思い込んでいたのに、今、彼女の恩師へ向けた暴力性はこれまでの信頼を根底から覆す。

 守人自身も戸惑っていた。

 臨や晶子が現れてからの展開は想定外だったらしく、五十嵐や富岡、笠松に見せた余裕を失っている。

 富岡は爆弾の起爆装置だというスイッチボックスを奪うべく、守人の背後からそっと忍び寄ったが、

「動くなと言ったでしょう、富岡さん。この部屋を監視しているのは僕……私だけじゃない。仲間がいるんだよ」

 察知した守人が振り返り、ボックスに親指をかけたまま、鋭い眼差しを富岡へ浴びせた。

「あんたら刑事が追おうとしたら、今度こそ部屋は爆破する」

 富岡はなす術なく構えていた拳銃を下ろした。

 一方、守人の動揺は、まだ治まっていない。乱れた足取りで廊下を走り、目を背けたまま、臨の横を通過する。

「ゴメン……」

 か細い声を臨は聞いた。

 遠ざかる守人の顔を見て、以前、大学のベンチで話した時と同じ、寂しげな表情を浮かべているのを知る。悲しいくらい弱々しい草食系の面影。

 やっぱり、まだ、彼は『そこ』にいる。

 確信を抱いたら、じっとしていられない。玄関のドアが閉まる音がした途端、臨も走り、ドアのノブを握った。

「待ちなさい、能代さん! 今の、あの高槻君の警告、聞かなかったの?」

「あたし、刑事じゃないから」

「え?」

「刑事が追っかけたらダメなんでしょ。違うもん、あたし!」

 子供じみた言い草に呆れる暇も無かった。臨はドアを開き、守人の消えた方角へ一目散に走り去っていく。

「あ~、もう、ああなったら止まンない」

 ため息交じりに晶子は言い、

「でも、一理あるわね。その理屈だと私も刑事じゃないし……」

 と立ち、外へ出ようとして「アタタ」と腰を押え、蹲る。

「来栖先生、大丈夫ですか?」

 玄関の方へ駆け寄ろうとした富岡を、晶子は蹲ったまま、右の掌を出して制した。

「私の方は軽い打撲みたい。心配ありません。足首を捻ったので身動き取れそうにないけれど」

「額の傷は?」

「これは前からなので、仕方ないわ。それにしても高槻君、手加減なしに良くやってくれたものね」

「ええ、冷静かと思えば取り乱し、表情が目まぐるしく変わって、ひどく混乱しているみたいでしたね」

「後でしっかりリサーチさせてもらいます。もし無実でも、私への落とし前はつけさせないと」

 富岡は安堵し、苦笑した。

「能代さんも心配ですが、そちらの部屋の笠松さんと五十嵐さんの方をみてあげて下さい。お二人とも、深い傷を負われてるんじゃありませんか?」

「あ、はい」

 上がり框に腰かけた晶子を残し、富岡は書斎へ戻って怪我人を見下ろした。やはり五十嵐の流血は酷く、もう一刻の猶予も無い。

「ん~、あいつ、救急車を呼ぶな、とも言わなかったよな」

 富岡は携帯電話を取り出し、何処かから監視しているかもしれない存在に恐怖を感じつつ、119番を押した。
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